ページ

2022-08-17

母校冨島高校の先輩に甲子園で出会え、五十鈴川だよりにコメントをいただき、そして想う。

 五十鈴川だよりにコメントをいただくことは少ないので、返信を五十鈴川だよりで打たせていただく。このようなわがままな自在力でこれからはますます唯我独尊的とりとめなき五十鈴川だよりになってゆくのでは、という気がする。

やがては打てなくなる日が来る、当たり前だ。だがとりあえず10年は打ち続け、その事でどこか自己満足感はあるので、今後はいつなんどき思いもかけない事情で打てなくなっても悔いのないように、とは思って入る。だが今は打てる自分を毎日ではなくとも更新したい。

さて話を戻すが、いただいた珍しきコメントは先日甲子園でお会いした母校の一年先輩の女性からであった。ただありがたいというしかない。おいおい綴ることもあるかもしれないが、私が冨島高校に通ったのは高校2年生からである。最初の一年間は都城にある泉が丘高等学校である。転校したのである。

数十年前、タイで求めた一品

父が教師であったので、小学校6年生の時に高千穂の近く、日之影の炭鉱町美々地小学校(今は廃校になっている)を皮切りに、中学校は高城町立四家中学校(今は廃校になっている)に転校、3回目の転校のはてに、生まれた町の近くの冨島高校を、私は卒業したのである。

多感な季節に、炭鉱町や、僻地の小さな中学校、いきなり都城の大きな高校に入学、そして冨島高校に転校した。12才から18才までのこの間の出来事が、その後の人生を決定づけたといえる。

転校した冨島高校で、演劇部に誘われて入部したことが、今となってみれば、その後の紆余曲折人生の始まりではあったのだ。結果、なんとかこの年までいきることができたのは、演劇を学ぶことで、いかに生きて行けばいいのかの、オーバーに言えば哲学を学べたからこそ、今をいきられているという深い自覚があるのである。

止まれ、このようなことを綴り始めたら止めどなく打たねばならないので、大胆にはしょるが、冨島高校での2年間が私の青春期の黄金の時間であったことを、今熱く思い出すのである。泉が丘高校と違って冨島高校はどこかのんびりしていた。(お恥ずかしきこの間の青春の光と影、今となってはただただ懐かしい)

生来落ち着きがなく、遊び呆けて、勉強という事をまるでしていなかった、当時の私であったので、テストの成績が校舎の壁に張り出され、万座に知られると、自分の成績の悪さに、どこか呆然としながらも、勉強していないのだから仕方ないと、開き直りではなく好きな映画館がよいや、音楽を聴くことにうつつを抜かしていたのである。

そんな私が、その後の人生の荒波で体験した艱難辛苦(ちょっとオーバーだが)を、よくぞ生き延びられたのは、時代の運と人に助けられたからだというしかない。そして、少しの自助努力(演劇が劇的創造力を私に遅蒔きながら与えてくれ、学ぶことの楽しさや、生きてゆく想像力を与えてくれたからである)もしも演劇部に入らず、わずかではあれ古今東西の哲学や演劇作品に触れることがなかったら、なんとも潤いのない無味乾燥な人生を今も送っているのではないかと、おもう。

とまあ、このようなことを打ち綴ればきりがないのでだが、冨島高校の一年先輩のTさんに甲子園で出会い、五十鈴川だよりを読んでいただき、コメントをいただけるなんて。ありがたきこと、というほかはない。この場を借りて深く感謝します。

Tさんとのご縁を機会に、私は同年代の、あまりに疎遠になってしまったとはいえ、失われし時を埋めるべく、旧交を取り戻し、あの頃(映画館あった場所、レコード屋さんがあった場所など)を知っている人たちと再会したいと思わずにはいられないのである。

Tさんコメントありがとうございました。劇的に甲子園で出会えたことに感謝し、お話ししたく、時間をつくって神戸に行きたいと、念(かんが)えています。

0 件のコメント:

コメントを投稿