深緑野分著ベルリンは晴れているか |
酷暑というしかない暑さのなか、なんとか5日間肉体労働ができて、休日の朝、八月はじめての五十鈴川だよりが打てる喜びを噛み締める、あさである。
今日は広島に人類初の原子爆弾がおとされた日である。敗戦から77年目の夏である。アメリカの占領政策が終わり、再び独立国家となった年に生まれた私は、その後70年間を生きている。
真夏の暑さの午前中に途方もない破壊力の、放射せんの熱波を浴びた人々の地獄絵を想像すると、、、。五十鈴川だよりではほとんど核のことには触れていないが、被爆者の高齢化、そして自分自身が高齢化するにしたがって、考えるようになってきている。
アメリカロシアだけで1万数千発、第二次大戦後、核保有国は増え続ける。核の抑止力ということばがあまりにむなしい。北朝鮮からの核の脅しは、私の思考が麻痺するほどに、頻繁に報道されている。それにともない迎撃ミサイルの購入他、我が国の軍事予算は気が遠くなるほどに、増え続ける。特にウクライナでの戦争が始まってからというもの、各国が軍事予算を増やしている。ロシアは核でウクライナに脅しをかけている。人類は懲りない、が五十鈴川だよりを打てる間は発言したい。麻痺してはならないのだ。
朝から、このような五十鈴川だよりになろうとは、思いもしなかったが、命というものはかけがえがない、したがってその命を一瞬にして奪い、憎悪と報復の連鎖、この世を地獄とかしてしまう、あらゆる戦争(戦争に限らないが)にたいして、五十鈴川だよりを打つ私としては、どのような大義名分があろうとも、ノーの声をあげ続ける覚悟である。平和は必死に守らなければあっという間に消え去る。
戦争のおぞましさを全く知らない、平和な時代を生きてこられたものの一人として、人間と人間が殺し会う戦争だけは、してはならない。そういう意味で憲法9条は、命の重さを噛み締め守らなければとの側に私は立つ。
核拡散防止条約会議の報道、一方で生き地獄とかしたかのようなウクライナで頻発する、無惨というしかない切り取られ編集された繰り返し映像報道、麻痺しないためにも私はほとんどきちんと正視しない。加害者も視点を変えれば被害者である。いつも想うことは、戦争に勝者はいないということである。それと命はかけがえがないということ、その二つ。私が古希まで生きてこられて学んだことである。声高に叫ぶ必要はない。足元の自分の大切な家族の生活、自分の命を日々守りながら、他者の痛み命にも思いを馳せる感覚を失いたくはない。
戦争と平和、自分と家族の命を日々養い、生きてゆくだけでもほとんどの人間は手一杯のはずである。映像で目にする武器の映像の発射の繰り返しを見るたびに、人間という生き物の怪物性の一面に、古希男の私は今だどこかがざわつく。一体だれがどこでこのような恐ろしいというしかにない兵器をつくっているのだろうか。
軍需産業の実態はまったくといっていいほど報道されない。世界は日々報道されない真実で埋め尽くされているように、古希男は感じている。見えない世界にこそ耳をそばだてる胆力を養わないとまずい。だから一方的な一面報道を私はどこかで警戒する。ざわつく間はむなしいことばを打ち、木偶の坊であれ平凡な有り難さを見失わないようにしなければと、命の不思議に思いを馳せ、お金では買えない豊かさを生きるための方途を、暑さ対策とするのである。
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