外はかなりの風が吹いていて、近所の樹木があおられているのが視界に入ってくるし、風の音も響いているが、まだ雨は落ちていない。この機を逃さず敬老の日というわけでもないのだが、母にささやかにお弁当やおやつを届けにいった。
起きてコーヒーをのみながら、昨日の書評を読んでいたら東京家族から電話が入り、わずかだがテレビ電話時間を楽しんだ。オンラインで間接的ではあれ、映像での会話、コミニュケーションができるのはありがたい。私の世代感覚では、現代はどこかしら魔法のような、バーチャルとリアルの境界が実に曖昧な時代ではないかという気がしてならない、がそれを生きるのだ味方にして。
だがそうはいっても、私は相も変わらず、アナログがた、デジタル感覚には疎い私であり、老いてますますその感は深まるが、いい意味で諦めている。だが己の体を必死に動かしながら、ゆっくりではあるものの、アナログの良さのようなものを大事にすべく、確実に一日一日やれることをカタツムリみたいに過ごしている。
歩みは遅いのだが、確実に手足を動かし、事をなしていると、家事はもとより、生活という私にとってもっとも大事なことがそれなりにはかどっていて、ほっと安堵するのである。矛盾するが、どこかを諦め、どこかは諦めないのである。暫し台風の風音も忘れての休日一人時間は、限りなく自己満足的にすぎて行くのである。
新聞の書評はもちろん電子版でも読めるのだが、相も変わらず一期一会的に読んで、もういい加減にやめてもいいのだが、今だハサミで切って、何割かの今の私に響く書評をノートに貼り付けている。
ささやかなお金不要の楽しみ、自己満足の極致である。積み重ねということがある。もうこの年齢になると、次から次へと忘れてゆくのではあるが、時おりこれはと思う本は買うようにしているし、なにしろ無知なる自分を思い知らされるのでやめられないのである。まさに知的人格に満ちた方の書評を読むという営為は、己の無知を知るための飽くことのない、好奇心の賜物なのである。
いい意味での無知というトラウマ的コンプレックスを、私の場合は武器に変えることで、辛うじて生き延びられてきたというきがどこかしているからこそである。一冊のほんとの出会いや、人との出会いがあったればこそ、絶望的にならず生きてこれたのである。昨日も打ったこととどこかでシンクロするかもしれないが、死を身近に感じる感覚が深まれば、より知的好奇心がどこか刺激されてゆくかのような、いわく言いがたい塩梅なのである。
老い行くなかでの好奇心の一日一日の継続持続こそが、私のいちばんの大事、いまの関心事なのである。これがなくなったら、おそらく五十鈴川だよりを打つことは叶わなくなるだろう。どんなことでもいい、日々なにがしかの、記事や言葉、人、花、あらゆる今を彩るこの世の気もち良さ、気持ち悪さに、関心のアンテナを立て、さび止め感覚で言葉に磨かれる年寄りを目指したいのである。
この方は私にとっては先生である |
だから今日の体を動かして、一滴一滴汗をかき、やせ我慢のガマノ油。なにがしかの魑魅魍魎wonderful(不思議さに満ちた)ワールドを、煩悩に身を任せいきるのである。綺麗事ではすまない己という器を引きずりながら。
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