秋の代表的な花はなんといってもコスモスだろう。だから今日は時間が許すなら、秋の山野をドライブしてみたいという気分になっている。言えることは、秋は旅心が無性にわいてくることである。
昨日10月初旬、沖縄の大切な友人が個展を行うので、コロナでもう何年も会うことができないでいるその友人夫妻に会うべく飛行機のチケットを買いに、滅多なことでは足を運ばないイオンモールに行き、3泊4日のパックチケットを買った。(出発日によってかなり値段が異なるが、若いときと違って、この年になると時間は買えないと認識しているので、ほどほどの値段のチケットを買った。友人に会える喜びはどんな観光にも勝るのである)
そろそろ終わりの我が家のひまわり |
インターネットでも予約できるが、元気に動ける間は、滅多なことではイオンモール等には出掛けることもないので、気分転換もかねて出掛けたのである。旅行代理店も商業施設のなかに組み込まれているので、致し方ないのである。
一ヶ所だけが賑わっているかのようなその商業施設のだだっ広さのなかで、時代についてゆく気もなく、ついてゆけない初老盆ぷは、用事を済ませたら車でさっさと帰ってきた。知人のいる西大寺のメインの通りは、シャッター街となり、個人商店は今は昔である。
昭和男の私は、面影の懐かしきQRコードのない人間商店に思いを馳せてしまうのである。たぶんあの私の源風景が懐かしく、失われてゆく風景を求めて、アフリカやアジアを私は壮年時代飽くことなく旅したのではないかと思う。だが今は昔である。
難しいことはわからないが、新自由主義的な強欲資本主義がインターネットテクノロジーの発達と共に、統合を繰り返し、ぶくぶくと太り一ヶ所ですべてのものが手にはいるような大型化商業え施設が、日本国のそこかしこに出現するようになってしまった。商いの面白さ、人間とのやり取り、会話の妙などは、雨散霧消、淡い交流等といったものは、文学のなかにしかなくなってしまったかのように感じてしまう。
あのおびただしい、商業施設の蛍光灯の明かりの洪水、(電気の節約などといった言葉が言葉がむなしい、なんとまあ人類は二極化が進んでいることか、享受できる側とできない側と)裸電球で闇の濃い幼少期を過ごした私には、なんとも居心地が悪い。これは生理的なもので、人工物が限りなく少ないく、自然しかなかった環境で10才くらいまでを過ごしたがためだと、はっきり言える。これはもうどうしようもないのである。私の感性のほとんどは10才までに出来上がっているのだということを、老いてますます知る、この頃だからである。
だから、そのことを深く自覚している私は、どこか覚めて、どこか諦めているのである。極端な事を言えば、別世界の人たちを眺めているかのような面持ちなのである。人は生まれてくる環境や時代を選べない。私はすでに社会的な役割をほとんど終えている人間なのではあるが、私の娘や孫たちはこの魑魅魍魎資本主義社会を生きて行かねばならない。
このあまりにものと、時に感ずる急激な社会の変化のなかで、人間同士の感性のずれといったものが、今後多面的分野に生じてくるのは、きっと現代社会を否応なく生きている人たちが抱える、避けては通れない問題なのかもしれない。そのようなことをぼんやり考える。どうしたらいいのか、いけないのか、この事に関しては私は諦めていない、考えるのだ。
それにしてもコロナ渦中、こんなに岡山にも人がいたかと思うくらいの休日のイオンモールを行き交う人々を眺めながら、居心地の悪さは何ともしがたく、早々にシャッター街のある、静かな町に帰ってきた私である。
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