ページ

2022-09-11

新見の法曽にある縄文美術館を訪ね、村上原野氏の作品群を初めて見ました。そして想う。

 昨日午後、思い立って夢が腹退職後初めて、新見は法曽という地名の、旧小学校校舎が縄文土器の展示スペースになっている、猪風来美術館を訪ねた。

初めて訪ねたのは、まだ夢が腹で働いていた頃だから、10年ぶりくらいだろうと想う。何故急に出かけたのか自分でもよくはわ刈らないのだが、風の便りでご子息があまりの若さで急逝されたことを知らされたからであると思う。

縄文世界の素晴らしさに打たれました

私は全く縄文土器については、無知であるがそのあまりの、造形の摩訶不思議な紋様の迫力というか生命力には度肝を抜かれる。急逝された、ご子息の作品をこの度初めてじっくりと見させていただいたが、私がつたない一文で伝えることは到底不可能である。

岡山の新見の山奥にひっそりと、縄文スピリットに啓示を受け、父母、そして今年2月32才の若さで亡くなられたご子息の作品が展示されている。その壮大というしかない、命の輝き、命の移り変わり、命への限りない畏敬の祈りが、渾然一体となって迫ってくる。

母は布に命の循環を祈り、織る。(その一途さに打たれる)父(この父の作品群も唯一無二)と息子(父と母の遺伝子を余すところなく原野さんは受け継ぎ、新たな世界を築いている)は土に縄文スピリットを変幻自在に炎が揺らめくように刻み込む。圧巻である。父親の天衣無縫の豪胆な作品群、ご子息の繊細で優美さにあふれた作品群。言葉を失う。村上原野という芸術家の存在を、私は初めて目にした。

父母ご子息3人の心血を注がれた作品群の足跡が、時代に置き去りにされたかのような、古い校舎のなかに、燦然と輝いている。思い立つ自分がいて、形容を越えた作品群に出会えた喜びを、わずかではあれ五十鈴川だよりに打たずにはいられない。一度だけ原野さんにお会いしたことがあるのだが、その面影がおそらく私を呼んだのに違いない。

人との出会いは、せい妙極まる。早世されたのだ、が作品は生きている。古希を迎え思うことは、人の命が数値化されるこの時代、縄文時代の人々のスピリットに全存在をかけて、打ち込んだ村上原野氏の残された作品群に足を運び、作品と対峙してほしい、と切に思う。

夕闇迫る法曽を後にし、帰路を走っていると日もとっぷりくれた東の空に、雲間から中秋の名月が暫し望めた。村上家族の作品群に出会えた喜び、命あっての喜び、村上原野さんがきっと私を呼んでくれたのに違いない。

0 件のコメント:

コメントを投稿