休日ゆっくりと起きた。メルの散歩に行き朝食をとり、おもむろに五十鈴川だよりに向かっている。空はどんよりと曇っているから今夜の中秋の名月、愛でるのは叶わないかもしれない。だが想像力でもって、月を眺めるのは可能だから、それで良しとしよう。
この数日、満月に近づく月を何度も眺めることができたのでそれでいい。万が一眺めることができたら、もうなにおかいわんや、ただありがたいだけである。年齢と共に画面を眺める時間は減り、特に日中は天をあおぎ雲を眺めることが多くなってきた。ちょっぴり幻想的に昔人生活に憧れる私だ。
特に肉体労働をしている平日は、仕事中何度となく天を仰いで雲の流れに目が向く自分がいる。特に昨日の朝は、秋の到来を告げる鱗雲が見事で、思わずスマホで撮って家族に送ったら、娘や義理の息子から、嬉しい反応があった。
鱗雲・頭の上に・迫る秋 |
自分の体は密接に天と繋がっているので、肉体労働者は天候に限りなく敏感である。だから朝夕涼しくなり、天が秋の到来を告げると、にわかに私の体は元気を取り戻し、嬉しいのである。あの暑い夏をよく乗りきったという、自己満足肯定感に包まれると同時に、苦あれば楽ありを実感するのである。
それと同時に、頭の中も思考が涼しく回転し始め、昨日は仕事を終えた午後、ふたたび職場の菜園場に出掛け、耕し、秋野菜を植えるための場ならし、雑草を抜き苗を植えられるところまで、土いじり時間を過ごした。今朝の五十鈴川だよりをうち終えたら、ブロッコリー、キャベツなどを植える予定である。もう少ししたら玉ねぎも植える予定だ。
60代から少しずつ土に触れて過ごす時間を大切にしてきたが、古希を境ということもないのだが、70代はいよいよ土に触れる時間を大事に過ごしたいというおもいの深まりを体で感じている。土は手強く生半可なことでは、期待にそう作物を育ててはくれない。がしかし、水やり他、最低のことを素人なりに取り組んでいると、チャンと恵みを与えてくれる。その事の喜びは、老いてみて初めて知るといった類いの喜びである。
体を使っての全身作業は、老い行く体をいやでも活性化せずにはおかない。仕事と菜園活動でフルに使った体は、疲労度に満ちるが、心地いい疲れである。自分の好きなことをやって疲れるのだから、ある種のスポーツのようなもの、なのである。
もう何度も打っているし、きっとこれからも打つだろうが、このコロナ下の3年、肉体労働と菜園場時間が、今もどれ程有り難いか、私自身がいちばん承知している。日々目や耳に飛び込んでくる情報は、心身を萎えさせがちなことが多い時代のすうせいだが、個人的に足元で想うことは、日々の季節のうつろいに敏感な体をできる限りキープしながら、土や光や風との一人対話時間を大切にし、限りなくマイナーな人生、豊かな隠居時間を送りたい、私である。
0 件のコメント:
コメントを投稿