打てるときに打っておきたい五十鈴川だよりである。先の上京旅で私は二人の得難い友人との久しぶりの再会時間を持つことができた。その事の至福の心情(おもい)をわずかであれ打っておきたい。
一人は18歳で最初に入った貝谷芸術学院で(3年間お世話になった)出会った佐々木梅治先輩である。出会って52年もの間、関係性が途切れずに続いている。上京してもっとも経済的に苦しい時期、そして青春真っ盛りの悩み多き季節、私的に濃密なお付き合いを、今となってはさせていただいたのだと、はっきりと言える方である。年齢は私より7才年上だから、77才である。
その後、佐々木さんは劇団民芸に入り、今は亡き宇野重吉さんや滝沢修さんの薫董を受け、劇団の活動はもとより、他の劇団の芝居にも数多く出演し、メディアへの露出はほとんどせず、地味な舞台活動一筋の方であったのだが、氏を一躍その世界でしらしめたのは、チャングムという韓流ドラマのトックおじさんの声の吹き替えによってである。その後、声優としての出演は引きも切らず続いている。
今朝の我が家の玄関先の花 |
だが、なんと言っても氏の活動で瞠目されるのは、井上ひさしさんの芝居、父と暮せば(父と娘の二人芝居)を一人で語る音読を、この十数年続けていることだろう。
(岡山でも企画したことが数回ある)昨年久しぶりにコロナ下、私はこの父と暮らせばを、たまたま長女の住む稲城のお寺で、娘と共にみるという幸運に恵まれ、梅治先輩と共に3人で記念撮影ができたのだが、私の胸のなかには、青春時代のほろ苦いおもいでの数々が去来し、万感が押し寄せてきて夢のような夜であった。
止まれ、話はつきない。田舎者がいきなり上京し、数限りない迷惑をかけ、もっともお世話になったのが梅治先輩なのである。だから余程のことがない限り、上京したら連絡を取ることにしている。8月27日朝、梅治先輩から電話をもらってその夜、神楽坂の樽八という奥さまが営む居酒屋で旧交を暖めることができた。
もうこの年齢になると、お互い一期一会を慈しむかのように、語り合うのが普通なのかもしれないが、梅治先輩は相も変わらず意気軒昂精神が若い、よくしゃべる。だからなのだろう私も忙しい先輩からお呼びがかかると、またあの声に会えるのだという嬉しさから、夕食後であれ、三鷹から神楽坂まで駆けつけたのである。
お互い元気で、今を語り合えるからこそ、話に花が咲く。梅治先輩都の会話はショボい話はまったくでない。今やっていること、取り組んでいることに終始する。もっぱら私は聞き役である。そして思う、上京後の3年間、梅治先輩から受けた影響の大きさを今にして知る。
さて、次は親友k氏と。30日火曜日午後4時、神奈川は三浦に住む親友K氏と目黒の近くの武蔵小山という場所で待ち合わせ、数時間旧交を暖めた。氏とは10年ぶりの企画で、3月に横浜で会って以来の再会。あうんの呼吸という言葉があるが、気のおけない楽な関係性が、これまた途切れない友人であることは、五十鈴川だよりでも触れている。
私にも孫ができたり、手術を経験したりと、年齢を重ねながら若いときとはまるで異なる一日の過ごし方を持続しているが、たぶん現実を受け入れながら、氏もまた微妙によき年齢の重ね方をしているのが、どこかに感じられるから、交遊関係が続き深まってきているのではと、私は思うのである。
一期一会を毎回持続したいので、私もいったことがない武蔵小山で、落ち合うことにした。氏と会うときには遊び心が一番大事だからである。無思想、無節操、を自認している私である。限りなく子供に帰ったかのように遊ぶのが、氏と会う際の楽しみなのである。
午後4時3分、氏は武蔵小山商店街入口に姿を表した。時おりの小雨の中、商店街界隈を二人して回遊した。【夕暮れを・意味なく歩く・男づれ】ってな感じで。夕闇迫り、神戸鉄板焼の小さな路地裏のお店に入った。私は特別一期一会再会時間、瓶ビールをのみ、お好み焼き他の、鉄板焼に舌鼓をうった。武蔵小山でのひとときが静かに流れた【親友と・武蔵小山で・落ち合えば・秋の気配と・老いの深まり】
午後7時、再会を約束して武蔵小山で別れた。氏は夕食をご馳走してくれ、娘のお土産にお好み焼きまで持たせた。とうきょうの平日の夕刻、込み合う車内の山手線、井の頭線、京王線と乗り継ぎほっかほかのお好み焼きを手に抱え午後8時過ぎ、むすめのところに戻った。次回はいつどこになるやら、氏はいい感じで老いを迎えている、人知れず努力を続けているのである。だからだと思う、会えるのは。
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