ページ

2019-02-12

私にとっては大きな出来事となった今回の帰省旅。

ちょっとだが後ろ髪をひかれながら、昨日の夕方岡山に帰ってきた。わずか正味二日半の滞在時間ではあったが、今回の帰省旅はあらゆる意味で実りの多い旅であった。

帰ったばかり、今日から再び私の日常現在時間を過ごさねばならず、落ち着いてじっくりと拙文を書けないのが、少し残念ではあるとは思いながらも、いつもよりちょっと早起きして、新鮮な出会いのあったこの帰省の、今の私にとっては オーバーではなく事件とも思える出来事についてわずかでも記さずにはいられない。

一昨日の日曜日、私は姉と義兄と3人で、義兄の車を私が運転して、五十鈴川の上流おおよそ35キロくらい、細宇納間というわがご先祖が昔住んでいた(現在も50以上の方々が棲む小集落)ところまでドライブし、その集落の御先祖の墓地を訪ねた。

もう5,6年前であろうか私はその小集落を訪ねたことがあり、日高(高ははしご高)という名前のお墓が多いことを知っていたが、私のルーツの日高とゆかりのある方が、どこかにいらっしゃるとは思うものの、自分一人の想像力の中で、無念無常の思いをどこかに感じながら終わっていた。

だが今回、67歳目前にして私の足は何かに導かれるかのように、再びかって私のご先祖が暮らしていた、細宇納間エリアとその墓地の在所へと向かった。


左から正俊氏、姉兄。姉が手にしているのはいただいた手作りの箒

そこで思わぬ出会いがあった、そのことをわずかではあれ、きちんと記しておきたい。久しぶりの再訪ではあったが墓地に着いた頃、たまたま一台の軽トラックが通りかかったので(広島さんという方)思いのたけを語ると、なんとその方はお墓守の方、日高のルーツついて詳しい方で、私のご先祖にゆかりのある二軒の家を自ら運転して案内してくださったのである。

一人で今も元気に暮らしておられるという、おばあさんの家を最初訪ねたのだが、宮崎の親戚に往っておられてお留守であったが、姉は生前父とその家を訪ねた記憶があることを思い出した、牛小屋があったという。

二件目に訪ねた日高正俊・悦子さん(ごめんなさい名前を書かせていただきます)宅。この素晴らしいご夫妻との出会いこそが、今回の帰省旅の白眉となった。
初めていただいた栗おはぎ、見事というほかはないおいしさだった

広島さんには名刺をいただき、再会を約束してそこでお別れしたが、訪ねた日高ご夫妻は遠路やってきた私と姉夫婦を、これ以上は望めないと思えるほどの歓待でもって迎えてくださったのである。そのことを、私は娘たちに、五十鈴川だよりできちんと記して伝えたいのである。

ご夫妻は細宇納間の歴史に関して近所の甲斐寿さんという方が書かれた(個人で2冊の集落の歴史をしたためた素晴らしい御本)本を初めて訪ねた私に、読むようにと 何とかしてくださったのである。

御主人は私より8歳年上、奥様もいずれにせよ年上であられた。何やらゆうに言われぬ思いが私の胸を去来した。あきらめないでよかった、訪ねること求めた私の中の 何かが導いてくれたことをご先祖にあらためて感謝した。
大根の天日干し

日高ご夫妻に出遭えたことで、同性で私の父のルーツに知り合いができたこと、また広島さんという方と出合えたことで、また一つ元気な間は会いにゆきたいと、オーバーに言えば故郷に会いにゆくように、老いを共に見つめてゆける素敵な人間に出遭えたこと、そのことの幸運を記さずにはいられないのである。

日高ご夫妻と語り合っているうちに、私のルーツ探しはどこかどうでもよくなり、ご夫妻との出会いで、細宇納間という私が過ごしたこともない土地が、私の中にくっきりと根を下ろしたのである。

それにしても、この先輩ご夫婦の暮らしぶりは、日本人がもうほとんど忘れてしまったと思えるほどに、つつましくたおやかで、見事なまでに、昔の細宇納間人が、かってもこのように暮らしていたであろうと思える暮らしを今現在もしておられたことである。


ほとんど自給自足の静かな暮らし
そのことが、私を感動させた。だから書かずにはいられないのである。やはりこの十数年両親のお墓参りに帰ってきてよかったと、報われたと私は思ったのである。

やはり父が、日高ご夫妻を私に巡り合わせてくれたのだと思う。それにしてもあの見事な老いの暮らしぶり、私が目指すのはあのような生活ではないか。

ともあれ、あのようなご夫妻がいまだ住む、わがルーツである細宇納間集落を訪ねた今回の旅は、私の中に老いゆく未来に一筋の光明を生じさせる旅となった。

この場を借りて、広島さんと、日高ご夫妻に深く感謝する。 (五十鈴川だよりを書き続けてきて本当に報われた)





0 件のコメント:

コメントを投稿