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2019-02-08

67歳目前の帰省旅の朝に想う。

今日から3泊4日の帰省旅の朝である。前回の五十鈴川だよりでも書いたが、いい歳ながらどこか浮き立つ気分が、故郷を目指す私にはまだどこかにある。

でも悲しいことだが、そのような気分もやがては老いて、なくなるのではないかという粛然たる気持ちになるのは、つまりはやはり私が、老いつつあるという厳粛な事実である。

このようなことを書くと、なにやら寂寥感が漂うが、これもまた致し方なしと受けとめるに、しくはなしという感情が湧いてくる。(でも私は絶対矛盾を抱えつつ初めて経験する老いの感覚に、今しばらくあらがいたいと強く思う自分もいる、つまりは揺れるのである)

ブログで拙速に綴ることは叶わぬが、老いるにしたがって、怒るという極めて人間的な感情が達観ではないのだが、あきらめるということの方に、シフトしがちになる自分が芽生えている。(でも内なる何かはあきらめきれないのである)

妻には穏やかになったといわれ、自分でも 静かになってきつつあるとは思うものの、それはただ単に老いて(外に感情を出さなくなってきただけである)老獪になってきただけではないかとの思いがぬぐえないからである。

もう間もなく生誕日、考えるまでもなくいい歳である。だからなのかもしれない、今回はどこかそこはかとなく、嬉しさの中に一抹の寂しさ、寂寥感のようなものが私の中に生じていることを、正直に書いておく。

私の姉は私より9歳上だから75 歳、義兄はもっと上だろう。幸いまだ元気に言葉を交わせる、そのことが私を故郷に向かわせる。私にとって大事な人たちに、会えるうちにたまさか会いたいのだ。

数年前、帰郷した私に、義兄が老いるということは、 年々楽しみが減ってくるということだと、語ったことがある。当時兄は軽い脳梗塞から立ち直ったばかりであった。

まだ元気に軽口がたたけるける私だが、義兄の心境はいかばかりか。そのようなことを私もようやくにして思い至れるようになってきたのである。

だから、いろんなことに思いを巡らせることができるように、ゆっくりと列車での旅を今回選んだ。たぶんこれからは、列車で帰省することが増えてゆく。

アップするのは2回目、少しづつ読み進んでいる。

だがこと個人的には、あらゆる煩悩をいまだ抱え、表にはあまり出さなくなってはきたものの、 昨今の出来事、不祥事、痛ましいニュース報道には暗澹とし、いまだ怒りと諦観に揺れる。

そのやり場のない、いわば情念のようなものが、またどこかでこの老いの我が身を活性化させているともいえなくもない。落ち着いて老いてなどいられないのだ。

あらゆるテクノロジーの急速極まる時代の変化に、我が身が置き去りにされてゆく不安感覚を、多くの私を含めた中高年(だけではない)が本能的に感じ取っているに違いない。(人類はどこに向かうのか)

私などその典型、頼るは我が身ひとつであるとの思いは、還暦を過ぎいちだんとましている。いまだ元気に動けるうちに、動きながら故郷を目指し、姉や兄たちと今現在を確認し、両親に手を合わせたい。(わたしのなかの昔の人の面影は潔かった、かくあやかるためにはと、どうすれば、と問う自分がいる)

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