ところでこれを書いている今お天気は曇りだが、朝一番メルと散歩に出かけた際の、日の出前の一面の、なんとも言えないピンク色の朝焼けの空に、私は見惚れた。このようなことがあると、単細胞の私はいまだなにがしかのささやかな幸福感に浸れる。
それから家に戻り今まで、今夜の塾のレッスンのことや、新聞にじっくりと 目を通していたらあっという間に、この時間になった。気分転換の五十鈴川だよりである。
私には取り柄らしきものがほとんどない無知蒙昧初老男であるが(信じてもらわなくて結構だが、本当にそう思っている)新聞を(ほとんど読むところは決まっているが、へーっと思える記事をあえて見つける喜びがある)読むのも、本を読むのも無知のなせるトラウマというか、青年時代に食う、生きるにいそがしく、またはそれを口実に、(世界の豊かさ、素晴らしさを)あまりに学ぶことに勤しまなかった後悔が、すこぶるあるがためである。(と思う)
このような先生の講義を受けたかったが、間接的にいまだって学べる |
若い時とはずいぶんな転向、あくまで無理なく体を動かし、健康に生活しながら何か自分にいい影響を及ぼしてくれるような、見えないもの、本や映画や、人ほか(出来事)に巡り合えれば足りるのである。
あとは先日も書いたが、老いてゆく中であるからこそ、感じられるような感受性感覚を磨ければと、淡い期待を・・・。
平成の終わり、昭和初老男児は超音速デジタル時代(時代が進めば進むほどおぞましい兵器を人類は作り続け、どこかで必ず突然使っている)事が起きれば阿鼻叫喚の地獄絵となる)に背を向け、どこか隠遁したくなるのだが、(隠遁するとすればわが故郷しかない)時代のわけのわからぬ動きには絶対矛盾を生きながら、今しばらく目を凝らさないと、何やら不穏である。(安心しての隠居などしばらく無理である)
平和はボーっとしていると、津波のようにある日突然損なわれる、肉体労働をしながら、初老男は平和を噛みしめる。 ああ、とりとめなき五十鈴川だよりになってしまった。
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