畏怖する大人、外山滋比古先生は、いやなこと他、脳はあらゆる不都合なことは忘却するから、どんどん忘れなさいとおっしゃっている。ゴミのような知識なぞ何するものぞ、忘れるということの効用を度々おっしゃっている。忘れるから入ってくる。
世に物知りというか、博識な方はごまんといるかと思うが、若い頃はあまりに物事を知らない自分に呆れたことも多かったが、この年齢になると 多分に横着になり、知らないことは知らないと平気になってきつつある。これはつまり老いてきている揺るがぬ証左である。
ところで昨日午前中の務め先で、上司の方から岡山弁で【しょうやく】という言葉の語源が【そう浴】(そうという字はサンズイに体操のそうの右半分)から来ていることを教わった。
ごを焼きて 手拭あぶる 寒さかな(松尾芭蕉) |
意味は体を洗い清めること・畑から取ってきた野菜から泥をとって食べられる状態にすることとある 。ついでにこれも知らなかったのだが、松の枯れた葉のことを、【まつご】ということも教わった。たまたま作業中の中での会話のやり取りから。
私が驚いたのは、普通はそれでおしまいなのであるが、その博識好奇心旺盛な上司は、わざわざ調べてプリントアウトして 私に持ってきて来てくださったことである。
もう一つ驚いたのは、この上司の方が3月いっぱいでお仕事を辞めることを何故か私に告げ、名刺を差し出されたこと。
私は働き始めて半年になる不定期の、午前中の前期高齢の肉体労働者であり、ほとんどその上司の方とは会話らしい会話をしたことがなかったのだが、何故かわざわざ声をかけてくださったことが、意外であった。
立場の上下関係を抜きにして、しばしの会話が成立するということの妙、 生きてきた経歴も環境もまるで異なるのに。
私がブログを書いていると伝えたら、教えてくださいとおっしゃった、あなたのおかげで、ボケない限り私の中でしょうやくとまつごという、ゆかしい日本語は決して 忘れることのない言葉として定着したことを、五十鈴川だよりに書けてささやかに嬉しい。
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