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2019-02-02

無念の死者たちの声を音読したい思いが深まる朝。(私ごときがという絶対矛盾を抱えながら)。

まだ夜明け前だが、これから日が昇ってくる時間帯が、私は一番好きである。一晩寝たことで、午前中は特に体がどこか邪念がなく、意識がすっきりしている。

さて、数日前わずかな本しか読んでいないのだが、(教えられ目からうろこが落ちたことが多々ある)古典文学に造詣が深く、それをわかりやすく、現代の不特定の読者に小説や評論、現代語訳といった形で独自の世界を拓いておられた橋本治氏がお亡くなりになった。

享年70歳、もうすぐ67歳になる私とわずか 3歳違いである。わたくしごときだが、小さなころから死に対してどこかうすらぼんやりとであるが、人間界の、生きていることの不思議さ、可笑しさ、悲しさ、不条理、無残さ、阿修羅的なこの世に・・・。なぜ人は苦悩をかかえつつも生きてゆくのかという、解決不可能な命題に、思うにかすかに心が敏感な少年であったのだという、自覚が私にはある。
数年前、最初に読んだ本(ご冥福をお祈りします)

だからきっとこのような人生を歩み続けているのだとの思いと共に、背負うこともなしに非力さにいつもさいなまれながらも、往生際悪く、五十鈴川だよりを書いたり、シェイクスピアを音読したりしているのでは、という自覚がある。

ともあれ整理確認不可能な思いに至りながらも何やらつづれずにはいられない。病を抱えながら、死をどこかに内在しながら作品を書き続けられた氏の作品を、時間の許す限り手にしたいと思う。(私が尊敬するお仕事をしておられる方は、芸術家のみならず安きに流れず、どこか死を意識しながらも、作品を創り続けておられる、ユーモアを失わず)

私のようなぼんくらが書くのもなんだが、私にとって日本語によるシェイクスピアを音読するということは、限りなく生を実感する営為である。たぶん生を実感するにはある種のストレス 、負荷、ギリギリ感が必要なのだ。村上春樹氏が書いていた、走るのは悪魔祓いだと。

私自身歳を重ねながら、ますますこれからの人生時間を死者の声に耳を傾けながら、その声に耳を澄まし、オーバーではなく死者と共に日々を生きてゆくような感覚を深めてゆきたいと念うのである。

あと数日で父の命日、義父の命日、来月は母の命日と続く。愚息感いまだにぬぐえない私だが、身内の死者に対してのみではなく、あらゆる死者の霊に対しみさて、少しでも思い至れる人としての感覚を最低の感覚を持続したいと思う。

ミサイル防衛、迎撃システム、スターウォーズ計画、レーダーをかいくぐるミサイルとか、耳を閉ざしたいような国内外のニュースのオンパレード、あまたの無念を抱えつつこの世と別れを告げ、お亡くなりになった(ついこの間の大戦で)数百万人の死者の方々は、向こう側からどのようなおもいで、今の世界を眺めておられるであろうかと、私は想像する。(虚無感と無力感にさいなまれる)

死者たちの無念に、耳を傾ける体力をつけ、シェイクスピアの音読で鍛え、死者の側の作品を一滴的に音読したいという思いが湧いてきた、五十鈴川である。

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