気持ちよく疲れているというのも変な表現だが、そういった気持でブログを書き始めている。平日は働いているので、なかなか落ち着いては一文がつづれないのだが、その中で変換ミスをおかしながらも,何やらつづりたいのは、いわば自己満足的業の深さかもしれない。
でもまあ、いたしかたない。書けるときに書く、それ以外の余計なことは、とんと考えなくなってきつつある、というのはいいことなのか、あるいはそうではないのか、自分でも判然としない。
最近は、かなりいろんなことがリセットされてきて、自分で言うも気が引けるが、なんだか薫風が体をふきぬけつつあるというのか、精神の風通しが実にいいのである。大げさに書けば、人生で初めて、つつましき幸福感のようなものに包まれて、日々が送れているといった、按配なのである。
それは、ようやくにして本当にやりたいことしか、やっていないからではないのかということが、私なりに思うことである。畑ではしんどい作業も続くのだが、それは気持ちのいい仲間との作業なので、なんだか、楽しいのである。
何しろサンナンの、農業理念は、楽しく働くということが基本なのだから、いまどきこのようなことを掲げる、企業が在るのが不思議である。そのような会社に晩年巡り合った、我が幸運をなんと形容したらいいのか。
ともあれ、昨日もサンナンから、遊声塾に直行。一日をほぼ完全燃焼し、あっという間に朝を迎え、今日もこれから、サンナンに向かう。今日も気温が上がりそうだ。だが体調はとてもいい。もう少し寝たいような気もするのだが、寝ているよりもなにやら綴りたいのである。
さて昨日夜、塾を終えるころ、親友のK氏から玉ねぎが届いたとの、メールが入った。短い文章の中に、心からの感謝がこめられていた。
わたしには、数は少ないのだが、県外の遠方に住む、わたしの企画を見にもこれないのに、応援してくださる奇特な方がたがいる。その方々に、少しずつ初めて収穫した玉ねぎを送っているのである。
今年は、娘が嫁ぐのでそのことに集中したく、企画は区切りをつけ、いったん廃業宣言を出した。
だが、終わりは又始まりでもあるのだから、一生活人として、何かが自然に企画できたらといった、見果てぬ夢のような感覚は、いまだ体のどこかに眠っている。(今日の写真は、車の中でお昼をしながら、フロントガラス越しに撮った畑の風景)
ほとんどヒトには期待しない、なんとか自分に期待するといった感覚でこれまでも生きてきたし、これからも可能な限り自分の可能性を、どんなにささやかでもいいから、見つけてゆきたいという煩悩は、いわばなるだけなくしたくはない。
お世話になった方々に、自分が植えた玉ねぎを送れるなんてことは、一年前まで思いもよらなかった。いい意味での楽しき思わぬことが実現できる可能性が、一寸先には在るのである。だからこそ新しい今日を、おそらく無数の歴史に埋もれた世界の民は人知れずそっと、生きていたのに違いない。そんな気がする。
自分次第で、世界の相貌はまったく違った姿を見せる。そのためにはどうしたらいいのか、自分で考えるしかない。
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