一週間の疲れがほぼピークをむかえる土曜日の夕方は、一人の労働者としてはなんとも言えない嬉しさに包まれます。主に、肉体労働を細身の体でこなしながら生きてきた私ですが、なんとか健康を害することもなく、還暦を過ぎ、いまも元気に働けることに関しては、なんとも嬉しいという、表現しか見当たりません。
休日の朝は、やはりゆったりと文章が紡げるので、どこかしら余裕があります。ところで最近特に休日にかぎらず、お湯を温めなおし、朝湯に入ることが増えてきました。特に今の季節は朝湯が最高です。
湯を浴びて、疲れを癒し、湯を浴びて、元気にスタートする。そのように気分を季節で切り替える、なんてのも、一つの生活の知恵として自分なりに工夫すると、何やら楽しくなるから不思議です。なるべく、自分で自分自身をのせてゆく、工夫のようなことが肝要だと思うのです。
人間ですから、あらゆる煩悩や、小さき悩みとうまく付き合う知恵が身につけば、暮し向きはうんとちがった相貌を見せる、そのように思えます。ほとんど毎日一見同じようなことをやっているかとおもわれがちですが、季節が微妙に変化してゆくように、おのれ自身も言うに言われぬ変化をなしている、そのように感じます。
その内なる、自分の身体が発する声なき声に、耳を傾ける余裕のようなものが、ようやくこの歳にして訪れているといった塩梅です。
取り立てて書くことも見当たらないのですが、頻繁に終わることなきかに見える、人間界のあれやこれやについては、一人の今を生きる人間としては、シェイクスピのいうように、片目でみて、片目は閉じているといった、いささかずるい現在の私です。
シリアでは、この3年の間に、3万人の子供が犠牲になったという事実が報道されています。あらゆる報道が、ほぼ24時間垂れ流し続けられると、私も含めて人間の感覚はマヒしてしまう。
人間は自分が当事者になり、血を流さない限り、他者の痛みを自分のこととしては感じない限界を生きる生き物であるということを、悲しいかな受け入れざるをえない、とは思います。
自分の眼の中に、小さなゴミが入っただけでも大騒ぎしますが、哀しいかな他者の眼の痛みは関知しない。シリアのニュースを報じる、能面のような痛みを伴わないキャスターの顔を見ていたら、何やら自分も普段あのような顔をして生きているのかもしれない、と思いました。
集団的自衛権の問題も、私の周りで話題にする人は、ほとんどいませんが、安部さんのいうような論理すり替え的勝手な解釈では、(いかようにも解釈できる)そのことはまずいのではないかというのが私のささやかな、考えです。もっともっと根本から時間をかけて、心ある責任をきちんと持つ大人が議論を尽くさないと、やがては大変な事態に至る、そんな危惧を持ちます。
今の時代、何か事が起きれば、シリアを含め、ウクライナ、アフガニスタン、エチオピア、ウイグル、北朝鮮、尖閣を含む、アジア領海域問題、あらゆる現在報じられる他国間の紛争は、瞬時に我が国の出来事にもなるというくらいに、世界は複雑面妖怪奇な時代に突入し、絡み合っている、そのような認識を私ごときも持っています。
一庶民としてもしっかり考えないと、またもや歴史の愚を繰り返すということになりかねません。先の戦争で数百万の方々の犠牲の上に築かれた、奇跡のような平和憲法を、守り抜くことは生半可なことではありません。
一口に平和を守るということは、日々の家庭の平和を築き守ることですらたいへんなのですから、まして国家的な、民族的宗教的問題を抱えた多国間との平和を築くのは気が遠くなるほどに、困難が伴うことだという気がします。
だからこそ、安易に急いだ解釈で事を進めてはならないのではないかという考えを私は持ちます。弱腰とか、万が一の有事に備えるというと、そうだそうだという考えにくみしがちになりますが、成熟した大人なら、そういった有事に至らないためにはどのようにしたら防げるのかということをまず第一に歴史から学ぶ、ということが肝要だと思うのです。
時代はミサイル核兵器の時代、核爆弾を被った世界最初の国として、平和憲法を核にして、なんとしても人類的見地から、紛争や戦争に至らないために、英知を絞るのが成熟した国の政治家たちに与えられている、役割ではないのかと、愚民の一人として、報じられるニュースを片目で見ながら
思ってしまいます。
ことが始まったら、すべては後戻りはきかないのは、歴史が証明しています。ああ、朝からまったく予期しないことを書いてしまいました。
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