時間もないので、簡略的に何か書きたい。昨夜私が心を動かされる沖縄の画家、桑江良健氏の珍しい小さな絵の(葉書の大きさ)個展がが、岡山市の友人宅で土日のわずか二日間行われたので行った。
20点展示されている作品の一点を、私は求めた。絵のことには(も)とんと門外漢だが、氏の醸し出す、えも言われぬ雰囲気の一部を作品を求めることで共有したかったのである、沖縄を。
その結果、私の一月のお小遣いは飛んでしまったのだが、私にとっては普段通りの、お金の使い方をしたにすぎない。これまでの歩みの中でも、余裕のない中で、何点かの絵を買い求めてきた。
それらの作品は、建て替えた後の我が家にそれなりに収まっている、2000年に西インドで買った、ハクシャさんという高名な方の絵は、旅の思い出とともに、つくずく今となっては、買ってよかったと思っている。
あれから、14年近くたっているが、ハクシャさんの家の雰囲気は穏やかで素晴らしかった。人生は、つくずく人との出会いに尽きると、歳を重ねるに従って思い知らされる。
お金はある年齢になれば、いかように使うかが、その人の生き方を集約的につまった形で、如実に示される。身の細る思いではあれ、お金をいかに有効に使える大人になるか、いまだ私は若輩者である。
無理をして買うことはないのだが、本当に欲しいもの、(本当に見たいもの、本当にやりたいことなど、あらゆることに言えるのだが)は買えるときには買っておいた方がいいというのがわたしの考え。
自分がが思っているよりも、人生はずっと短いし、再三ブログで書いているが、可能な限り、後悔先に立たず、にならないように私は人生をおりおり大きな選択もしながら、日々小さな選択も行っているという按配なのだ。
そういう意味では、絵は(もちろん作品にもよるが)高くはないと、私は思っている。ところで話を少し変えるが、たまにしか会えない桑江氏と話がしたかった私は、夜再び友人宅にお邪魔した。車で行った私は、お酒を飲むことをしないで、わたしを含めてきわめて少人数の宴席にお邪魔して、4時間近くを、素面で過ごした。
飲んでいないせいもあるかも知れないのだが、話はおりおり合わせながらもす進むのではあるが、正直宴席の雰囲気に溶け込めない、何かがようよう私の中に育ってきているのを感じてしまった。
それは、どなたにも何ら問題はないのだが、明らかに自分が何かしら、変わってしまいつつあるといった自己認識なのである。
A専務との出会いも大きいのだが、乾いた関係性を構築したといいますか、これまでの交友関係性を、捉えなおしたいといった欲求のようなものが、生じているのである。
友人とは何か、このことは今後も歳を重ねながらも、自分に正直に考えてゆきたく思う。そのことはひとまず置く。
それにしても桑江氏のえも言われぬ存在感は、私に無言で奥深い何かを感じさせる。氏との交遊は、これからも続けたい。
氏の絵は、沖縄の魂の存在をずっと、私の家の中で放ち続けると思う。
(写真は私が求めた絵です。文章は朝書いたのですが、写真を入れる時間がなく、夕方のアップになってしまいました)
0 件のコメント:
コメントを投稿