昨夜は遊声塾の一年間続いた面々と、ささやかな祝杯を岡山の焼鳥屋さんで上げた。
とにもかくにも一年間続いた方々と、私はきわめて個人的にお酒を飲みたかった。自分が立ち上げた塾に参加される方がおり、かなりたいへんなレッスンに一年間も通って来られる方がいるなんてことに、正直よく続いたと驚いているのである。
ともあれ、この面々で6月7日発表会をやりそれで一区切り、その後は、私自身がいまだ元気で、継続できる間は区切り区切りをつけながら、やれるまでやりたいと、今は考えている。
今、ハムレットを35年ぶり読み返しているのだが、若いころとは違って、また作品が新たな光を私の中にもたらしてくれているのを感じている。
私自身が塾を立ちあげたことにより、あらためて膨大なェイクスピア作品の素晴らしさを、再認識しているのだ。この歳であらためてシェイクスピア作品を声に出して読むことで、何やら日々の暮らしが、より一層充実してくる感覚を取り戻し始めたのだ。
そういう意味で、生徒さんの多寡ではなく、私の思いを共有してくれる方々との出逢いは、貴重というしかないし、その方々となにはともあれ、軽く一杯飲みたかったのだ。
共通の時間を熱く過ごす面々は、かなり内面をさらけ出すこともあり、身内的近しい感情がどうしても、私の場合湧いてくるのである。
呼吸(いき)を吐ききって、声を出すことの素晴らしさを、私自身が深く身体で再認識することができた一年間だったということを感じている。そういう意味では、参加してくれるメンバーがいるかどうかも分からず、何やら不安を抱えたスタートではあったのだが、いまはこの方向でやってゆけばいいのだという自信が、私の中にしっかりと根付き始めている。
声を出し続けるには、あらゆる意味で心身が健やかでないと、シェイクスピアは手ごわいのである。そういう意味で、身体を見失いつつある現代人の私が、なんとか今しばらく声を出し続けることで、日々の自分自身の暮らしを、声を出しながらおのれの身体と向き合い、豊かなリズムが流れるような感覚を、持続したいのである。
そのことができるということが、この一年継続してくれた面々のおかげで、何やらはっきりと私自身のなかで確認できたのだ。そのことが遊声塾を立ち上げて一番私の中で嬉しいことである。
私自身も含めて、人はどうしても安きに流れやすき生き物ではあるとは思うものの、何やらギリギリのところで踏ん張る、快感のようなものも日常時の中で、時に必要ではないかとの認識が私には抜きがたくある。
そのことを、宝石のようなシェイクスピア作品を週に一度声を出して読むことで、今を生きることを確認する場として、遊声塾は私にとって今しばらく大切な空間として存在する。
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