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2014-05-21

じたばたと、かといって急がず、自分という小さき川を流れたく思います。

ようやくにして、なにか自然体で、私らしくありのままに呼吸できる、うまくは表現できいないが、いわゆる無理のないいい感じで生きている感覚が、身体の中を横溢している。

この感覚は、やがては老いとともに、または思わぬアクシデントで、確実に無くなってゆくことが、意識では分かっているので、自覚できたときに、可能な限りこの感覚を持続できるように、日々を送りたいと念を押すような感じで、ささやかに刻みつけたい思いにとらわれる。

砂が、握りしめた手から、どうしても落ちてゆくように、いかんともしがたきことが、おおよその人生ではないかとの思いは、両親の生き方や、わたしの好きな方々の生き方を見ていると、そういう想いにとらわれるが、それでも安きに流されないような、生き方を選んだ方達にわたしは惹かれる。

ほんのわずかでもいいから、いわゆる少数素敵な方々を、お手本にしたいとの思いを、しっかりと歩ける間は、手放したくはないとの思いだ。

今夜は遊声塾の日である。発表会が近づいているので、ブログを書く時間がなくなるかと思っていたら、あにはからんやそうでも無くて、かき続けることで、より鮮明に一日のリズムが生まれてきつつある、ように思える。

かといって、何も無理をしているわけでは全然なく、書くことが好きになりつつあるというか、書いていると勝手に思考が動き出す面白さがあって、そういう自分を楽しめているのではないかと、考えている。

シェイクスピアを読んでいても、自分の予期しない思わぬ声が、出し続けると出たりするのである。そのことが、つまりは楽しいから、続けられるのではないかと、私自身は考えている。

つまり、自分が思っている以上に自分という器は、移ろいやすくはかない存在だということではないかと思う。だからこそ、素晴らしく面白い存在だという側に、私は意識的に立とうとしているのではないかというのが、現時点での年齢での、正直な告白である。

いかに、今生きている人生時間を受け入れて、自在に楽しめるかというところが、肝要なことだと思うのだ。確かに、現代においてはお金がないいと、たいへんなことは、重々承知するけれども、それが、絶対条件ではない、といわば思いたいのかもしれないが。

だって、大昔にはお金などは存在しなかったわけだし、そのような時代の方がはるかに長きにわたって、在ったということを、私を含めた現代人はもっともっと知って、今のがんじがらめ時代に対して、少しでも緩やかに呼吸できるような感覚を取り戻さないことには、アブナイと、五十鈴川だよりは、考えるのです。

自分という川は、自分流に流れてゆくことこそ、望ましいのではないかと、考えてしまう私なのです。いくらあこがれ、お手本にしたくとも、自分にその力がなかったらいかんともしがたいわけで、その力を日々貯ええる持続力をどうしたら保てるのか?

天を仰ぎ、土に触れ、深い呼吸をしながら声を出し、今しばらくジタバタ考えたく思います。最後に遊声塾の発表会のチラシを送った方々から、すこしずつ、ゆきたいというありがたいご返事をいただいいています。どうかいらしてください、今朝はこれくらいいで。(今日の写真は雨の中昨日より開き始めた、夜明けの蔓バラです)

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