以前、佐藤優さんのことを勝手に先生だと思っていると書いた記憶がある。初めて氏の本を読んだのは【国家の罠】だからもう10年以上も前のことになる。
10年以上前といえば、まだ私は遠距離通勤しながら普通に忙しく働いていたし、落ち着いてじっくりと本を読むなんて暮らしもまだまだできなかった頃に、佐藤優さんの本が私に与えた影響は、やはり大きいと、いまあらためて感じる。
外務省をやめられて、作家として再出発してから今年で丸10年になるという。この間の氏の書かれた著作の数はいったいかほ どの冊数になるのかは見当もつかないが、ただただ半ばあきれ、多面的な左右なんて概念を軽々と飛び越える仕事ぶりには驚かされる。天才的。
氏が国策捜査で逮捕勾留されなければ、ひょっとして佐藤優という稀な作家は誕生しなかったのかもしれないと考えると、まさに神のみがつかさどるこの世の有為転変の流れというしかない。
たまりにたまった火山が爆発したかのような仕事ぶりというしかないし、時代の寵児のように氏に仕事を頼む編集者がひきも切らないということは、何故か?
まさに時代が氏の著作を求め、支持する読者層が増えているということなのだと思う。私もまたその中の一人ということだと思う。
一見簡単に読める対談集から、読んだこともない本(哲学書、宗教書,はじめ多岐の分野の)がわんさか出てくるちょっと難解なまさに佐藤優 を佐藤優ならしめている知の世界の豊饒さが私を、先生といわしむるのである。(キリスト教神学を大学から学び続けている氏は、ある種どこか超越した世界に到達していると、私は感じる)
このような先生がいたらなあ、と自分の年齢を忘れて思わせられるほどに魅力的だ。読んだこともない未知の本が次々と出てきても(出てくるから)氏の本は私には面白い。
キリスト教神学という学問があることすら私は知らなかった。氏はわくわくするくらい未知の世界の扉を開いてくれる。目先の効率的勉強(それはそれで認めてはいる)などには目もくれない。
勝手に私が思うには、氏は自分の頭できちんと読みこなして、自分の文体、(読者層によって文体を変えている)言葉にしているからこそ、つまり言葉に真摯さが満ちあふれているから心に響くのではではないかと。硬軟併せのむ愛と寛容の純粋性。
知的教養のない私が、(心から私はそう思っている)かってに先生としてわずかでも独学するには、とくに読んだこともない分野の、苦手な本を読んでみたいと思わせられる未知の世界の水先案内人としては、氏はまさにこれから先を生きる上で、最適の信頼できる人である。
私の読書は偏っているという自覚があるが、これから少なくなる人生時間の限られた読書j時間は、読んだことのない分野の本を読み、繰り返し読みたくなる本に囲まれて、生きたいとと願う。
ところで10代の終わり世の中にでて数年間、私は五木寛之さんのエッセイ、ゴキブリの歌とか風に吹かれてに、かなり影響を受けた。世界中のアウトロウ、難民デラシネに対する思いも。私が初めての海外放浪留学から1978年、12月、モスクワ鉄道で帰ってきたのは、霧のナホトカ航路の影響だ。
そしていま、この10年近く最も読んでいる作家のひとり佐藤優さんと五木寛之さんが期せずして対談している新書版の本が出た。なぜこの二人がいま対談するのかが、読んでみてすぐ腑に落ちた。
体験感性の作家とこれまた体験論理力の作家の世代を超えたやりとり、謙虚にお互いを認め合っての知的刺激に満ちた対談は、簡単に読めるが、その知的胆力視野の深さ広さは、両者とも遠く日本列島を離れた地点から、世界の行く末を見据えている。
親子ほど年齢が離れているが、博覧強記の55歳の佐藤さんに語り掛ける82歳の五木さんも時に青年に還る若々しさ、そして頼もしく慈愛に満ちた言葉をあとがきでお書きになっている。
佐藤優さんも対談のはじめ、先輩の五木さんにお会いできて光栄ですと語り掛ける。すがすがしい対談集だ。そしてその内容は驚きに満ち、あらためて自分の無知蒙昧を知らされる。
佐藤氏は、今の日本人の責任世代の知的教養の、先進国のなかでのあまりの低さを、深刻に憂いておられる。政治家、官僚、経財界人、教育界含めたあらゆる大切な、国の根幹を担う分野の人材の欠如に。
この国の一人の民として、かすかにではあれ、本物のインテリと思える信頼できる方たちから素直に学びたい。
2015-08-20
2015-08-17
お盆は連詩の朗読会とトロイラスとクレシダの観劇に出かけました。
お盆にはいると同時に、何やら急に涼しくなってきたような気がして少しほっとしています。お盆なのでじっとしていようと思ったのですが、結局は2日ほど大阪までめったに見るチャンスがないものを見に出かけました。
一つは生まれて初めて聞く詩の朗読会と、文学座公演のシェイクスピア作品、トロイラスとクレシダの舞台を見に。
まず詩の朗読会は、戦後70年の節目に、日本、韓国、中国の詩人が母語で連(歌のように)詩を読むという新聞記事を読み、何か気持ちが動いたので、気分転換がてらでかけたのです。
日中韓を代表する4人の詩人、四元康裕・MING DI(中国)・金惠順(キムへジュン)・谷川俊太郎(谷川さんは所用で来られず山田さんという方が代わりに朗読した)が、最初の方の書いた詩から、イメージを大胆に飛翔し新たな詩を限りなく即興に近い形で生み出してゆくという画期的な試み。
詳しくは記しませんが、【海】と【米】と【太陽】をテーマに4人の詩人が連詩を母語で詠まれるのを、生まれて初めて体感しました。大阪は谷町にある大阪文学学校(初めて知りました)という小さなビルの一部屋でその会は行われました。
参加者は関係者以外30人くらいでしたが、九州から来られている人もいました。私みたいな門外漢はおらずいかにも詩が大好きな方たち(言葉を大切にする)の集まりという雰囲気の会でした。
書いた本人がその場で母語で朗読するのを聴けるなんてことはそうはありませんし、何より日中韓がギクシャクしている、まさにこのような時代に、折しも戦後70年の談話を安倍首相が発表するという日に合わせて、あえて大阪(14日)と東京(15日)の片隅でひっそりと行われているということに、詩人の魂を垣間見ました。
一言行ってよかった。ささやかにシェイクスピアの塾を立ち上げたものとして、声を出して朗読するということに、以前にもまして関心が増してきた私です。遊声塾を立ち上げていなかったら出かけなかったかもしれません。
物語とはまた異なる詩人の言葉をもっと読みたくなったし、 遊声塾の面々と時折詩を読んでみたくなりました。いずれにせよ言葉による詩の宇宙は広大無辺、限りなく非日常に我々を解き放ってくれます。まさに詩人は言葉の魔法使いです。このような存在は貴重というしか言葉がない。
さて、翌日再び私は今度は兵庫県立芸術劇場に、トロイラスとクレシダのマチネーを見に出かけました。この芝居はめったに上演されません。文学座で初演されたのは1972年アトリエでのシェイクスピアフェスティバル。
ハムレット・ロミオとジュリエット・そしてトロイラスとクレシダの3本。当時私は二十歳、何という幸運、私はその3本をすべて観ています。ロミオは木村光一さんの演出。残り2本が現在もシェイクスピアシアター を率いる出口典雄さんの演出。3本とも斬新なアイデアあふるる演出でした。
時代の動きがビビッドに反映された現代的でスピーディーな演出は、3作品に共通していて、若かった私は興奮を抑えることができないくらい感動しました。いまでも江守徹さんのハムレット、太地喜和子さんのジュリエット、クレシダの倉野章子さん他、いろんな役者の顔が瞼に浮かびます。
さてもさても、うれしかったのは初演の時トロイラスを演じた小林勝也さんが序詞役と召使いを演じ、あの文学座の試験の時の試験官江守徹さんが、トロイ王・プライアムを演じていたこと。脇をがっちりと固めていました。
あとはもう知らない俳優さんばかり、当たり前あれから43年経つのですから。主役の二人はもちろん、両軍の俳優がマッドマックスばりに自由に気持ちよく感性のおもむくまま演じます。見ていて実に気持ちが良かったです。
文学座ではあれ以来の再演、ほとんど上演されないトロイラスとクレシダという作品。シェイクスピアの作品の中でも多様な評価を持つ多面的解釈が可能な問題作です。
たまたま、今日本のこの時代に再演されている意味が、演出家鵜山仁の意図がこの舞台には濃厚にこめられているのを、私は私なりに実感しました。トロイとギリシャの長い長い戦争の中で繰り返される人間の宿命的ともいえるカルマ、業の世界。
その中で愛を求め、愛に翻弄されるトロイラスとクレシダの不確かな愛の不毛性、そして戦士たちの狂気性は まさに現代の今だからこそ、その作品の豊饒さが際立つとさえいえる内容をもって私には伝わってきた。
ほとんどは文学座の俳優と外部からの俳優の混成で、あの問題作トロイラスとクレシダを演劇化するのに成功していた。俳優の力量がないとシェイクスピアの作品はまず成功しない。なにせあの膨大なセリフを血肉化しないことには、聴いている方の想像力が続かないのだから。それにしてもシェイクスピアの人間を見つめるまなざしの深さには恐れ入る。
とまれ,連詩の朗読会とトロイラスとクレシダの観劇で私のお盆が終わった感がある。この間のブログで8月は死者に想いを馳せる月と書いたが、この朗読会と観劇は私の中では無意識に深く私の中ではつながっている気がしている。
一つは生まれて初めて聞く詩の朗読会と、文学座公演のシェイクスピア作品、トロイラスとクレシダの舞台を見に。
まず詩の朗読会は、戦後70年の節目に、日本、韓国、中国の詩人が母語で連(歌のように)詩を読むという新聞記事を読み、何か気持ちが動いたので、気分転換がてらでかけたのです。
日中韓を代表する4人の詩人、四元康裕・MING DI(中国)・金惠順(キムへジュン)・谷川俊太郎(谷川さんは所用で来られず山田さんという方が代わりに朗読した)が、最初の方の書いた詩から、イメージを大胆に飛翔し新たな詩を限りなく即興に近い形で生み出してゆくという画期的な試み。
詳しくは記しませんが、【海】と【米】と【太陽】をテーマに4人の詩人が連詩を母語で詠まれるのを、生まれて初めて体感しました。大阪は谷町にある大阪文学学校(初めて知りました)という小さなビルの一部屋でその会は行われました。
参加者は関係者以外30人くらいでしたが、九州から来られている人もいました。私みたいな門外漢はおらずいかにも詩が大好きな方たち(言葉を大切にする)の集まりという雰囲気の会でした。
書いた本人がその場で母語で朗読するのを聴けるなんてことはそうはありませんし、何より日中韓がギクシャクしている、まさにこのような時代に、折しも戦後70年の談話を安倍首相が発表するという日に合わせて、あえて大阪(14日)と東京(15日)の片隅でひっそりと行われているということに、詩人の魂を垣間見ました。
一言行ってよかった。ささやかにシェイクスピアの塾を立ち上げたものとして、声を出して朗読するということに、以前にもまして関心が増してきた私です。遊声塾を立ち上げていなかったら出かけなかったかもしれません。
物語とはまた異なる詩人の言葉をもっと読みたくなったし、 遊声塾の面々と時折詩を読んでみたくなりました。いずれにせよ言葉による詩の宇宙は広大無辺、限りなく非日常に我々を解き放ってくれます。まさに詩人は言葉の魔法使いです。このような存在は貴重というしか言葉がない。
さて、翌日再び私は今度は兵庫県立芸術劇場に、トロイラスとクレシダのマチネーを見に出かけました。この芝居はめったに上演されません。文学座で初演されたのは1972年アトリエでのシェイクスピアフェスティバル。
ハムレット・ロミオとジュリエット・そしてトロイラスとクレシダの3本。当時私は二十歳、何という幸運、私はその3本をすべて観ています。ロミオは木村光一さんの演出。残り2本が現在もシェイクスピアシアター を率いる出口典雄さんの演出。3本とも斬新なアイデアあふるる演出でした。
時代の動きがビビッドに反映された現代的でスピーディーな演出は、3作品に共通していて、若かった私は興奮を抑えることができないくらい感動しました。いまでも江守徹さんのハムレット、太地喜和子さんのジュリエット、クレシダの倉野章子さん他、いろんな役者の顔が瞼に浮かびます。
さてもさても、うれしかったのは初演の時トロイラスを演じた小林勝也さんが序詞役と召使いを演じ、あの文学座の試験の時の試験官江守徹さんが、トロイ王・プライアムを演じていたこと。脇をがっちりと固めていました。
あとはもう知らない俳優さんばかり、当たり前あれから43年経つのですから。主役の二人はもちろん、両軍の俳優がマッドマックスばりに自由に気持ちよく感性のおもむくまま演じます。見ていて実に気持ちが良かったです。
文学座ではあれ以来の再演、ほとんど上演されないトロイラスとクレシダという作品。シェイクスピアの作品の中でも多様な評価を持つ多面的解釈が可能な問題作です。
たまたま、今日本のこの時代に再演されている意味が、演出家鵜山仁の意図がこの舞台には濃厚にこめられているのを、私は私なりに実感しました。トロイとギリシャの長い長い戦争の中で繰り返される人間の宿命的ともいえるカルマ、業の世界。
その中で愛を求め、愛に翻弄されるトロイラスとクレシダの不確かな愛の不毛性、そして戦士たちの狂気性は まさに現代の今だからこそ、その作品の豊饒さが際立つとさえいえる内容をもって私には伝わってきた。
ほとんどは文学座の俳優と外部からの俳優の混成で、あの問題作トロイラスとクレシダを演劇化するのに成功していた。俳優の力量がないとシェイクスピアの作品はまず成功しない。なにせあの膨大なセリフを血肉化しないことには、聴いている方の想像力が続かないのだから。それにしてもシェイクスピアの人間を見つめるまなざしの深さには恐れ入る。
とまれ,連詩の朗読会とトロイラスとクレシダの観劇で私のお盆が終わった感がある。この間のブログで8月は死者に想いを馳せる月と書いたが、この朗読会と観劇は私の中では無意識に深く私の中ではつながっている気がしている。
2015-08-13
大槌町再訪の旅・雑感。
もう何度も書いたことを、繰り返し書いたりすることが歳と共にますます増えることがあるかもしれないが、きわめて個人的な自己満足ブログなので、限りなく寛容なお気持ちで、御容赦いただきたく思う。
昨日の自分とは、明らかに今日の自分は どことはなしに変化してゆかざる負えないのが、私には真実である。そのことを踏まえながらも、どこかしら普遍的な大事なことを、日々忘れながらも忘れたくはないという、絶対的な矛盾をいまだ生きているような感を否めない私である。
さて、3年半ぶりに訪ねた、大槌町のことをわずかではあれ新鮮な思いのうちに書いておきたい。花巻といえば宮沢賢治であることは、熱心な読者ではない私でも知っている。
そこの近くの、遠野という地名の響きは、私の東北のイメージの代名詞、いつか訪れてみたいという気持ちを私の中に育てていた。59歳の時に起きた未曾有の東北津波原発大震災。
還暦を迎えるにあたりこれまでの人生を振り返るには、どこか異境の地で迎えたいというわがままな感情が私の中に、震災後起きていた。そこでたまたま選んだのが遠野だった。
極端だが、意味もなくただ単に遠野への憧れにも似た旅人感覚が、私を初めての東北への旅に導いたのだ。
当時調べたら、遠野に復興を支援するボランティアセンターがあるのを知り、わずかな時間ではあれ(当時まだ私は夢が原で働いていた)何かしたいと思い初めてボランティア活動の地として、遠野からバスで向かったところが(バスで1時間くらい)大槌町だったのだ。
たった二日間の瓦礫の撤去作業ではあったが、これをたまたま 偶然の思い付きで経験できたことは、私の中では今もって大きな個人的な思い出としてだけではなく、意味のある記憶として、しっかりと残っている。
3年半の歳月は、やはり大槌町の印象をまったく変えていた。厳冬期と真夏という違いも大きかった思うが、やはり瓦礫がまったくといっていいほど,なくなっただけで見た目こうも変わるのだ。
昼食をとった大槌復興食堂もなくなっていた。それが当たり前である。夕方ついて翌日のお昼までのわずかな滞在だったが、K氏と会う予定の時間まで、暑い中、私は朝早くホテルに荷物を預け、2000坪の土地に16年間樹木を植え続けておられ、宮沢賢治の世界観を具現化されているごS夫婦が創られた風のガーデンに向かって歩いた。
峠をこえ、鯨山のふもとにある風のガーデンまでたどり着くのに一時間弱かかった。汗が噴き出た。事前にお電話をしていたので、気持ちよく迎えてくださった。
場所が確認できたので、私は風のガーデンでゆっくりする前に、そこから歩いて30分ほどのところにあるという不動の滝にどうしても行ってみたくなった。今も鯨山の麓にあるという、震災前からかわらず存在するまさに不動の滝に。
私は滝に向かっての広い上り道を再び歩き始めた。山の麓の採石場から復興現場に石や土を運ぶダンプカーがひっきりなしにとおる。ダンプ以外、歩いている人間は私だけだ。登り道なので再び汗が噴き出してくる。歩いても歩いても滝の表示はない。
不安になって何回かダンプの運転手に訊いたのだがみんな県外からの出稼ぎの人で、滝のことなど知らないという。ますます不安になり、何回かあきらめかけたのだが、ここまで来て大槌を象徴する普遍的な滝を記憶に刻みたいとの私の思いは深まる。見ないと、今回の大槌町を訪ねた旅がちょっと物悲しい 。
私は意地でも滝に会いたく、足で地面を踏んだ。そうこうするうち山を削る巨大な採石場が視界に入った。動いているのは、パワーショベルやユンボのみ、あとは砕石や土を積むダンプカーのみ。
山を崩して、新しい住宅地や道路や、そのほかいわば復興計画のために使われるのだ。そのために山が大地が、削り取られてゆく現場を私は見た。途方もない面積、機械を人間が動かし、山は削られ無残というしかない姿をさらしていた。
都会に住む多くの都市人(びと)が、このような現場を見たらどのような思いにかられるだろうか。私は漸くダンプカーから解放され、無人の細くなった未舗装の山道を一人歩いた。
採石場から一気に景観が変わった、人間世界から神の世界へ。細い道のわきを清流が流れている。うっそうとした森の中に滝の存在を確信した。あちらこちらに祠がある。
採石場からさほどの距離ではない場所に、滝は在った。歩くこと一時間 不動の滝が見えた。私は再び大槌にやってきて本当に良かったとの思いに満たされた。
私以外は誰もいないし、人もやってきそうもない、汗だくの体を清めるべく裸になり沐浴をし祈ったた。10秒も浸かっていられないくらい冷たいが、身も心も洗われるとはまさにこのこと、清水がしみた。都合3回浸かった、生き返った。神の世界に帰依する沐浴になった。
たった一人の不動の滝沐浴は生涯忘れることはないだろう。大槌町にこんな素晴らしい滝がある、そのことが 私を穏やかにした。
戻りは下り、軽やかな足取りで風のガーデンに戻り、瓦礫の撤去仲間K氏とは風のガーデンで落合った。丹精された花々のなんとも素敵な風のガーデンで冷たいお茶をいただき、Sご夫婦とは短
い時間ではあったが 、気持ちのいい時間を過ごさせていただき、庭を散策させていただいた。
私はこの風のガーデンと不動の滝にはきっとまたやってくるとの思いを胸に秘め、K氏と共に初めて山形に向かった。
次回は、鯨山というなんとも素敵な名前の山に登りたいと思う。ところで大槌で私が泊まったところの地名が吉里吉里だった。あの井上ひさしさんの名作小説の吉里吉里人の。そして大槌町にはひょっこりひょうたん島のモデルになった島もあるということも知った。
きっと井上ひさし氏は何度も大槌町を訪ねたことがあるに違いない。鯨山の頂上からいつの日にか大槌町を眺めてみたいと私は思った。
夕方、山形の天童市に着いた。山形は井上ひさし氏が生まれたところである。賢治、啄木、太宰、井上ひさしさんがすべてお芝居にしている。きっとこれから元気な間、私は東北一帯を繰り返し旅することになる確信が深まる大槌町再訪の旅となった。
(大槌町から山形に向かう途中、遠野の仮設のボランティアセンターにK氏と立ち寄ったが、すべて取り払われ、跡地には夏の雑草が揺れていた、諸行無常だが山は動かじ)
2015-08-09
セバスチャン・サルガドの写真集は私に希望を植え付ける。
昨日、竹韻庵から帰って昼食後、、疲れていて少し悩んだのだが県立図書館に、セバスチャンサルガの写真集を探しに言ったら、市立図書館にはなかったSAHEL(THE END OF ROAD)という写真集があったので、借りてきた。
英語版の写真集である。1984年から86年にかけてのアフリカ、スーダンで生きる、日本人である私には程遠い環境に生きる人たちの、あまりに過酷というしかない日常、現実を映した写真集である。
このような写真集がなかったら、おそらくは永遠に、私はこの 同時代のはるかかなたの異国の現実を冷静に、じっくりと視ることは叶わなかっただろう。
お盆明けには図書館に返さないといけないが、この間も書いたように、いずれ 出版されているサルガドの写真集は、順次ゆっくりと全部手元に置きたいと思っている。
そのためには、まだまだ元気に動ける有難さ、どんな仕事でもいいから動けるる間はささやかに働いて、お金を有効に使いたい、と思う。一人でも多くの方に写真集を見てもらいたいと思わずにはいられない。
無知蒙昧の上、自分の怠惰な性格は小さいころから自覚していた。そのようなわたしの弱点を見抜いた父親は私を厳しく育てたのだろうと今にして思う。
本当に18歳までの私は、(とくに思春期)時代の波をもろに受け、安易な軟派路線をお気軽に生きてきた自分を世の中に出て初めて痛感した。生きてゆくためには、意に沿わぬ仕事もやらなければ生きてゆけないという現実を。
人間の大地 労働という写真集で、サルガドは世界中の過酷な現場で働く(働かざるを得ない)人々の姿を、映している。
セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画を見てからまだ10日しかたっていないが、今この文章を書いているそばにある、2冊の写真集は限りなくいい意味で重たく、私の奥深いところに働きかけてくる。
それはなぜなのかを、このお盆休みには2冊の写真集を眺めながら過ごしたいと考える私である。 それほどにこの2冊の写真集は普遍的な問いを私に投げかける。
おそらく今も過酷な労働現場を、日本も含め世界中の人々が、かなり労働スタイルが変わったとはいえ、生きているのだろう、そして紛争地域から人々は難民化しているのだろうと、私は推測する。
たかだかの私ごときの頭では考えたとて、お里が知れるとは思うもののサルガドの写真は、私に大切な何か重要な事柄を語り掛けてくる。
私がこれほどまでにサルガドの写真集に惹かれるのはなぜなのかを、今ここで考える気にはならないが、一つだけいえることは、何はともあれ18歳から世の中に出て労働をしながら、糊口をしのいで生き延びてきたということがあり、否応なく労働を管理される側に、身を置いてきたという現実があるからかもしれない。
今も、時折考える。汗をかきながら労働とは?働くとは?世界のあらゆる不条理、富の集中の異常性(に対するあまりの鈍感さ)。富むものとは真逆の生活を否応なく強いられる多くの無数の弱者。
このような世界戦争経済が続く間に、(核爆弾まで浴びた我が国)奇蹟のこの惑星は痛みに傷んでゆく。まさに、サルガドならずとも絶望したくなるが、そこで絶望せず荒れ果てた故郷の原点に立ち返り大地に樹を植え、十数年かけて、森を復活させる一大プロジェクトをご夫婦で立ち上げる。
すごいというしかない。一心同体のあまりに人間らしい夫婦の姿に心底打たれる。サルガドが少年時代を過ごした 生家の広大な土地は見事な森に生まれ還り滝も生まれ、多くの生き物が棲みジャガーも帰ってきたという。
心から絶望したものであるがゆえに、このような希望あふるるプロジェクトが実現したのだと思う。それと生来の気質。ラテンのおおらかさ。 竹韻庵に私もささやかになにか植えたく思う。世界の5分の1の人間が、一本の木を植え20年育てれば、ものすごい酸素が生まれる。奇跡の酸素。
若き日にシェイクスピアの国に行きたくなったように、サルガドを生んだ見果てぬ広さを持った邦に、行ってみたいという夢が私の中で膨らみはじめている。目的がないと私は動けない。
40年以上かけて漸く私は軟派路線からいくばくか、硬派になれそうな自分を感じている。何とかもう少し踏んばらないとあの世の両親に顔向けできないのだ。
英語版の写真集である。1984年から86年にかけてのアフリカ、スーダンで生きる、日本人である私には程遠い環境に生きる人たちの、あまりに過酷というしかない日常、現実を映した写真集である。
このような写真集がなかったら、おそらくは永遠に、私はこの 同時代のはるかかなたの異国の現実を冷静に、じっくりと視ることは叶わなかっただろう。
お盆明けには図書館に返さないといけないが、この間も書いたように、いずれ 出版されているサルガドの写真集は、順次ゆっくりと全部手元に置きたいと思っている。
そのためには、まだまだ元気に動ける有難さ、どんな仕事でもいいから動けるる間はささやかに働いて、お金を有効に使いたい、と思う。一人でも多くの方に写真集を見てもらいたいと思わずにはいられない。
無知蒙昧の上、自分の怠惰な性格は小さいころから自覚していた。そのようなわたしの弱点を見抜いた父親は私を厳しく育てたのだろうと今にして思う。
本当に18歳までの私は、(とくに思春期)時代の波をもろに受け、安易な軟派路線をお気軽に生きてきた自分を世の中に出て初めて痛感した。生きてゆくためには、意に沿わぬ仕事もやらなければ生きてゆけないという現実を。
人間の大地 労働という写真集で、サルガドは世界中の過酷な現場で働く(働かざるを得ない)人々の姿を、映している。
セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画を見てからまだ10日しかたっていないが、今この文章を書いているそばにある、2冊の写真集は限りなくいい意味で重たく、私の奥深いところに働きかけてくる。
それはなぜなのかを、このお盆休みには2冊の写真集を眺めながら過ごしたいと考える私である。 それほどにこの2冊の写真集は普遍的な問いを私に投げかける。
おそらく今も過酷な労働現場を、日本も含め世界中の人々が、かなり労働スタイルが変わったとはいえ、生きているのだろう、そして紛争地域から人々は難民化しているのだろうと、私は推測する。
たかだかの私ごときの頭では考えたとて、お里が知れるとは思うもののサルガドの写真は、私に大切な何か重要な事柄を語り掛けてくる。
私がこれほどまでにサルガドの写真集に惹かれるのはなぜなのかを、今ここで考える気にはならないが、一つだけいえることは、何はともあれ18歳から世の中に出て労働をしながら、糊口をしのいで生き延びてきたということがあり、否応なく労働を管理される側に、身を置いてきたという現実があるからかもしれない。
今も、時折考える。汗をかきながら労働とは?働くとは?世界のあらゆる不条理、富の集中の異常性(に対するあまりの鈍感さ)。富むものとは真逆の生活を否応なく強いられる多くの無数の弱者。
このような世界戦争経済が続く間に、(核爆弾まで浴びた我が国)奇蹟のこの惑星は痛みに傷んでゆく。まさに、サルガドならずとも絶望したくなるが、そこで絶望せず荒れ果てた故郷の原点に立ち返り大地に樹を植え、十数年かけて、森を復活させる一大プロジェクトをご夫婦で立ち上げる。
すごいというしかない。一心同体のあまりに人間らしい夫婦の姿に心底打たれる。サルガドが少年時代を過ごした 生家の広大な土地は見事な森に生まれ還り滝も生まれ、多くの生き物が棲みジャガーも帰ってきたという。
心から絶望したものであるがゆえに、このような希望あふるるプロジェクトが実現したのだと思う。それと生来の気質。ラテンのおおらかさ。 竹韻庵に私もささやかになにか植えたく思う。世界の5分の1の人間が、一本の木を植え20年育てれば、ものすごい酸素が生まれる。奇跡の酸素。
若き日にシェイクスピアの国に行きたくなったように、サルガドを生んだ見果てぬ広さを持った邦に、行ってみたいという夢が私の中で膨らみはじめている。目的がないと私は動けない。
40年以上かけて漸く私は軟派路線からいくばくか、硬派になれそうな自分を感じている。何とかもう少し踏んばらないとあの世の両親に顔向けできないのだ。
2015-08-07
八月は死者に対して想いを馳せるつきです。
私が夏休みの旅に出かけている間に、鶴見俊輔さんがお亡くなりになり、個人的に大好きだった俳優加藤武さんが往ってしまわれた。
鶴見俊輔さんとは、数年前京都の美術館で偶然お目にかかって、恥も外聞もなくサインをいただいたことがある。その時のなんとも言えないたたずまい、恥じらいの表情が思い出される。すごい人はさりげない。
多くの識者がその存在の希少さにおいて、すぐれたコメントを寄せられているので、私には何も書くことはないのだが、自分の中の悪を見据えながら絶えず民主主義とは何かを、考え続けられた生き方には、これからも私は素直に学び続けたいと思う。
一方加藤武、文学座の重臣であられたこの方の舞台作品を、たまたま昨年三越劇場で見ることができた幸運を私は終生忘れることはないだろう。浮世絵師葛飾北斎の年齢を感じさせない若々しさには、度胆を抜かれた。
とくに、あの年齢で飛び上がったしぐさの表現には芸人のど根性を見ました。脳裏に焼き付いています。(アンケートを書いたらお葉書をいただきました宝です)
私もいい年齢なのですから当たり前ですが、今後ますます私にとっての同時代を生きているからこそ知りえた、出会えた素晴らしい方々が、天に召されるのを聞くことが増えてゆくのは必定だと覚悟しています。
他人ごとではなく、こればかりは自分にもいつお呼びの声がかかるか、こればかりはわかりません。だからこそ一日一日、この世で生きられる奇蹟を、私は私なりに悔いなく生きねばと、思っています。
とはいうものの、そんなに七面倒臭く考えなくともいいのでは、とも思います。死んだ後のことまではしりません。要はその人らしく人生を全うできること(覚悟)こそが肝要と私は思います。
還暦過ぎてからは、なにゃら一段と昔に還ったかのように、自由自在とはいきませんが、わがままに、人にどう思われようが、自分の内なる声の赴くままにとの思いです。
読んではいないのに、これもお亡くなりになった赤瀬川源平さんがお書きになった老人力というタイトルが頭に浮かびます。人間は生きている限りにおいて、悩める姿をさらしながらも、この世の素晴らしさにしがみついてゆく側に立ちたいと 、私は思います。
それにはどうしたらいいのかを、また悩みつつ楽しむのです。悩まなかったら人生とは、何とつまらないことであることか、小生にとって、まさに悩める子羊をやめないことが、生きてゆくということかもしれません。
ともあれ、八月は日本人にとって死者に思いをはせるつきです。この暑さの中、地獄を徘徊した方々の言葉に耳を傾け、今を生きられる平凡極まる幸福をかみしめないわけにはゆきません。
安全保障法案の行く末が、初老の私には気がかりです。なるようにしかならないと、安易を決め込む前にブログを書くことも含めて、日々揺れ動き名がながらも、各々が自分のやれる範囲で示威行為をする。
戦後70年の節目にこの法案が可決したら、先々やっぱりあの時などといわないように、どのような未来を自分が望むのかを、私はひとりの人間として考えたく思います。
利己的自分にはおさらば、かけがえのない人類の未来の他者のことを、想像するとかすかに自分に何ができるのかが見えてくるような気がします。
8月最後の金曜日は 、もうひと踏ん張り国会議事堂前に駆けつけようか思案中です。大きなうねりにならないとメディアは取り上げてくれないし、熱い人々と共に現場にいたい、初老の私です。
鶴見俊輔さんとは、数年前京都の美術館で偶然お目にかかって、恥も外聞もなくサインをいただいたことがある。その時のなんとも言えないたたずまい、恥じらいの表情が思い出される。すごい人はさりげない。
多くの識者がその存在の希少さにおいて、すぐれたコメントを寄せられているので、私には何も書くことはないのだが、自分の中の悪を見据えながら絶えず民主主義とは何かを、考え続けられた生き方には、これからも私は素直に学び続けたいと思う。
一方加藤武、文学座の重臣であられたこの方の舞台作品を、たまたま昨年三越劇場で見ることができた幸運を私は終生忘れることはないだろう。浮世絵師葛飾北斎の年齢を感じさせない若々しさには、度胆を抜かれた。
とくに、あの年齢で飛び上がったしぐさの表現には芸人のど根性を見ました。脳裏に焼き付いています。(アンケートを書いたらお葉書をいただきました宝です)
私もいい年齢なのですから当たり前ですが、今後ますます私にとっての同時代を生きているからこそ知りえた、出会えた素晴らしい方々が、天に召されるのを聞くことが増えてゆくのは必定だと覚悟しています。
他人ごとではなく、こればかりは自分にもいつお呼びの声がかかるか、こればかりはわかりません。だからこそ一日一日、この世で生きられる奇蹟を、私は私なりに悔いなく生きねばと、思っています。
とはいうものの、そんなに七面倒臭く考えなくともいいのでは、とも思います。死んだ後のことまではしりません。要はその人らしく人生を全うできること(覚悟)こそが肝要と私は思います。
還暦過ぎてからは、なにゃら一段と昔に還ったかのように、自由自在とはいきませんが、わがままに、人にどう思われようが、自分の内なる声の赴くままにとの思いです。
読んではいないのに、これもお亡くなりになった赤瀬川源平さんがお書きになった老人力というタイトルが頭に浮かびます。人間は生きている限りにおいて、悩める姿をさらしながらも、この世の素晴らしさにしがみついてゆく側に立ちたいと 、私は思います。
それにはどうしたらいいのかを、また悩みつつ楽しむのです。悩まなかったら人生とは、何とつまらないことであることか、小生にとって、まさに悩める子羊をやめないことが、生きてゆくということかもしれません。
ともあれ、八月は日本人にとって死者に思いをはせるつきです。この暑さの中、地獄を徘徊した方々の言葉に耳を傾け、今を生きられる平凡極まる幸福をかみしめないわけにはゆきません。
安全保障法案の行く末が、初老の私には気がかりです。なるようにしかならないと、安易を決め込む前にブログを書くことも含めて、日々揺れ動き名がながらも、各々が自分のやれる範囲で示威行為をする。
戦後70年の節目にこの法案が可決したら、先々やっぱりあの時などといわないように、どのような未来を自分が望むのかを、私はひとりの人間として考えたく思います。
利己的自分にはおさらば、かけがえのない人類の未来の他者のことを、想像するとかすかに自分に何ができるのかが見えてくるような気がします。
8月最後の金曜日は 、もうひと踏ん張り国会議事堂前に駆けつけようか思案中です。大きなうねりにならないとメディアは取り上げてくれないし、熱い人々と共に現場にいたい、初老の私です。
セバスチャンサルガドをかすかに意識しながら竹韻庵で体を動かす。
S氏が所有している山荘の管理を午前中のみフリーで、働くようになってから今日も含め、7日間ほど竹韻庵に通っている。
なにしろこの暑さなので、普段の半分も体が動いてくれないといった中での作業なのだが、とりあえずはやれるところから、自分なりに自分の体を動かしながら進めてゆくしかない。
山荘の周囲が雑木に覆われてきており、その撤去とその雑木の焼却がしばしの間の作業ということになる。カズラがまとわりついていて、なんともはや手ごわい中での作業。
この暑さの中で、生木を燃やすのは、ほとんど苦行のような感じ、初老の体に汗がふき出してくる。だが、ひとりでの山作業がどことはなしに、私は気に入っている。
まったく自分のリズムでできるからである。仕事という意識は私にはない。一人里山で遊んでいるといった塩梅で過ごさせていただいている。
ところで、セバスチャンサルガドの自伝を読み終えた。今回の旅でサルガドという存在を知りえたことの喜びは、日に日に増してきている。
旅から帰った日に、市の図書館に彼の写真集を探しに行ったら、一冊だけ1994年に出版された、人間の労働をテーマにした写真集があり、それがいま私の手元にある。すごいというしかない。
15000円の写真集、岩波書店から発行されている。図書館の本は返さないとけないので 、いずれ私はサルガドの写真集は、全部手元に置きたいと考えている。
これほどまで、に私はサルガドの世界に魅了されている自分を、どこか有難く、この年でサルガドの存在を知りえたことの嬉しさは、なんと表現してよいのか、格別の出来事というほかはない気がしている。
昔、西アフリカの太鼓のリズムに触れた時、何としても生きている間に、現地に行きたいと思ったものだが、久方ぶりに可能なら元気なうちに、中南米に行ってみたくなっている。
わけても、セバスチャンサルガドを生んだブラジルに 。五十鈴川だよりを開いた方は、チャンスがあったら是非サルガドのドキュメンタリー映画を見てほしい。
わずか2時間で、サルガドの軌跡を、奇跡的に描くことに成功している。このような離れ業は、ヴィムベンダースと、息子のジュリア―ノサルガドによる共同監督だからこそ、成しえたのかもしれない。
それほどまでに私にとっては、魂の奥底まで踏み入ってくるとしか言いようのない作品に、私は出会ってしまった。
うれしくもいまだその余韻に浸りながら、竹韻庵で体を動かしているといったところなのだ。純粋な魂の持ち主だからこそ。このような奇蹟というしかない写真集が年代別(40年間の、今も新しい作品に挑んでいる)に時代と格闘しながら生み出されているのだろう。
私が、昨日今日知ったサルガドの大いなる仕事に 、寸評を書く愚は控えたい。ただたった一つ書いておきたいことは、今後死ぬまでサルガドの写真集を眺めて過ごしたいということである。
生命の源の土というものと触れ合える竹韻庵で、地面を踏みしめながら汗をかき、大いなる魂の持ち主である、サルガドの世界とどこかで、意識がかすかにつながっていると勝手に思えるということは、ささやかな今を生きる私の幸せである。
それにしても、何度も何度も絶望を潜り抜けたからこそこのような奇跡的というしかない、黙示録的写真集が提示されているのだろう。
映画を見ながら涙がにじみ出てきたが、本を読んでも同じように涙が出てきた。自分という器がまだ何かに揺り動かされるということ、が確認できる夏を私は生きている。
なにしろこの暑さなので、普段の半分も体が動いてくれないといった中での作業なのだが、とりあえずはやれるところから、自分なりに自分の体を動かしながら進めてゆくしかない。
山荘の周囲が雑木に覆われてきており、その撤去とその雑木の焼却がしばしの間の作業ということになる。カズラがまとわりついていて、なんともはや手ごわい中での作業。
この暑さの中で、生木を燃やすのは、ほとんど苦行のような感じ、初老の体に汗がふき出してくる。だが、ひとりでの山作業がどことはなしに、私は気に入っている。
まったく自分のリズムでできるからである。仕事という意識は私にはない。一人里山で遊んでいるといった塩梅で過ごさせていただいている。
ところで、セバスチャンサルガドの自伝を読み終えた。今回の旅でサルガドという存在を知りえたことの喜びは、日に日に増してきている。
旅から帰った日に、市の図書館に彼の写真集を探しに行ったら、一冊だけ1994年に出版された、人間の労働をテーマにした写真集があり、それがいま私の手元にある。すごいというしかない。
15000円の写真集、岩波書店から発行されている。図書館の本は返さないとけないので 、いずれ私はサルガドの写真集は、全部手元に置きたいと考えている。
これほどまで、に私はサルガドの世界に魅了されている自分を、どこか有難く、この年でサルガドの存在を知りえたことの嬉しさは、なんと表現してよいのか、格別の出来事というほかはない気がしている。
昔、西アフリカの太鼓のリズムに触れた時、何としても生きている間に、現地に行きたいと思ったものだが、久方ぶりに可能なら元気なうちに、中南米に行ってみたくなっている。
わけても、セバスチャンサルガドを生んだブラジルに 。五十鈴川だよりを開いた方は、チャンスがあったら是非サルガドのドキュメンタリー映画を見てほしい。
わずか2時間で、サルガドの軌跡を、奇跡的に描くことに成功している。このような離れ業は、ヴィムベンダースと、息子のジュリア―ノサルガドによる共同監督だからこそ、成しえたのかもしれない。
それほどまでに私にとっては、魂の奥底まで踏み入ってくるとしか言いようのない作品に、私は出会ってしまった。
うれしくもいまだその余韻に浸りながら、竹韻庵で体を動かしているといったところなのだ。純粋な魂の持ち主だからこそ。このような奇蹟というしかない写真集が年代別(40年間の、今も新しい作品に挑んでいる)に時代と格闘しながら生み出されているのだろう。
私が、昨日今日知ったサルガドの大いなる仕事に 、寸評を書く愚は控えたい。ただたった一つ書いておきたいことは、今後死ぬまでサルガドの写真集を眺めて過ごしたいということである。
生命の源の土というものと触れ合える竹韻庵で、地面を踏みしめながら汗をかき、大いなる魂の持ち主である、サルガドの世界とどこかで、意識がかすかにつながっていると勝手に思えるということは、ささやかな今を生きる私の幸せである。
それにしても、何度も何度も絶望を潜り抜けたからこそこのような奇跡的というしかない、黙示録的写真集が提示されているのだろう。
映画を見ながら涙がにじみ出てきたが、本を読んでも同じように涙が出てきた。自分という器がまだ何かに揺り動かされるということ、が確認できる夏を私は生きている。
2015-08-03
2015年、私の老春夏休みの旅が終わりました。
まるまる一週間の旅は十数年ぶり,63歳猛暑の中の記憶に残る旅となった。
出かける前の自分と、今この一文を書いている自分は,あきらかにかすかな変化が起こったと書けることが、やはり旅の重さなのだとあらためて感じる。
何度も書いているが、かすかに自分が変化し続ける間は、拙文ブログが書き続けられるのではないかとという、いわば生きている楽しみを、私は持続したく念っている。
出発日27日は、朝五時半西大寺発の電車、ずっと東海道線を乗継北上、車中で本を読んでは景色を眺め、疲れたら目を閉じて休むということを繰り返しながら大阪、名古屋、静岡、東京を通過、栃木県那須塩原駅に着いたのが、午後8時半。
若き日富良野で知り合い(彼は北大生でした)、彼の結婚式以来20年ぶりの再会、I氏が駅に迎えに来てくれていた。
彼の顔を見た瞬間、あっという間に若き日に還り、 まずやはり来てよかったとの思いが、こみ上げてきた。
独立して十数年、立派な獣医師となり一回り存在感が大きくなっていた。駅の近くに家があり、奥さんは大学生のお嬢さんのところに出かけられていてお留守とのことで、結局この日は彼の家に泊まることに。
彼の家で20年あっていなかったとは思えないくらい話が弾み、再会の祝杯時間はあっという間に就寝時間へ、続きは大槌の帰りにすることにしシャワーを浴びてすぐに眠りの世界に落ちた。
火曜日28日朝、5時47分の電車で黒磯を出発、I氏が駅まで車で送ってくれた。福島、仙台、一関、花巻と乗継、いよいよ釜石線に乗り換え釜石に夕方5時前に着いた。(二日間で25時間電車に揺られていたことになる)
そこからバスに乗り換え、30分、3年半ぶり大槌町に着いた。瓦礫は片付いていたが 町の人たちの暮らしはまだまだこれからだという印象、車とダンプが動いているばかりで、人の姿がまるで見えない。前回は真冬、今回は夏印象がまるで違った。
仮設のホテルを役場で探してもらいそこに直行した。翌日29日水曜日、仕事がお休みの、ともに瓦礫の撤去作業をしたK氏がわざわざ仕事先の山形から大槌まで(片道4時間)来てくださり、これまた3年半ぶりの再会。(大槌のことは、日を改めて 書きます)なんとも暖かいお人柄、東北は秋田のご出身、この方も一生お付き合いしたい方のおひとりです。
結局、この日はK氏とともに山形の天童市に彼の車で移動、泊まることに。天童市に着いたのが夕方5時過ぎ、K氏と温泉(NPOが経営する庶民行き付けの大衆浴場)に入り、二人で居酒屋で夕食。駅まで歩いて10分もかからないところにあるホテルに泊まったがやすくて広くて快適だった。
30日、木曜日朝7時27分の電車で天童から山形へ出て、そこから米沢へ。列車の待ち時間を利用し3時間ほど暑い中上杉神社などを歩き回る、落ち着いた良き街だった。だが、暑い夏にはやはり観光などはしない方が身のためだと再確認。東北も日中は本当に暑かった。
米沢から、福島、郡山、と乗継、再び5時前那須塩原駅へ。I氏が再び迎えに来てくださり、何とそのまま、塩原の300年間続いている古い温泉宿へ。その日は二人でそこへ泊るようにI氏が手配を済ませていた。
きれいな川を望みながらの森林浴露天風呂が最高でした。二人して裸でゆっくりと、旧交を温めることができた。20年ぶりであれ何であれ、お互いいい感じで再会のひと時を持てる相手なんて御仁はそうはあるものではない。
かなりハードな移動旅が続いてたので、この温泉宿の湯は63歳の体には、まさに骨身にしみました。寡黙なI氏の粋というしかない計らいと、(おもてなし) がひときわしみました。
二人しての宿での夕食、朝食とも申し分なく、語る話題も尽きることなく、たまさかの友との異次元の語らいは至福の旅時間となりました。結局3回私はこの湯につかり疲れをいやしました。またいつの日にか妻と共に訪れたく思いました。
翌日31日金曜日宿の玄関で記念撮影のあと、獣医師としての氏の仕事を午前中見学させていただいた。最初の農家では初めて種付けする氏の慣れた無駄のない動きに、驚きました。3件の家畜を飼っている農家を訪ねましたが、彼の誠実な仕事ぶりを、皆さんが頼りにしているのが伝わってきました。最後の農家では、乳牛がこの暑さで亡くなっている現場を見ました。
お昼前、塩原の駅まで送ってもらい I氏とお別れしましたが、このような意外性のあるうれしい再会はそうあるものでははありません。縁を大切に生きるしかありません。
氏は私より 一回り若いのですが、世代を超えてお付き合いできる貴重な友人です。温泉旅を私にプレゼントしてくれました。いつの日にか彼が仕事をリタイアしたら、私も何かお祝をしたいと思いながら、那須塩原を後にしました。
一転せわしない東京へ。東京には午後4時半ごろ、いつもの三田の宿に落ち着き、一休みしシャワーを浴びたのち国会議事堂前の集会に参加しました。毎週金曜日の夜は、SEALDsの方たちが安全保障法案に異を唱える集会を継続しているので、私も個人として応援に出かけたのです。
集会が終わるまで3時間現場にいましたが、前回よりはるかに多くの人たちが参加していました。6月の前回は雨でしたが今回はブルームーンの満月が出ていて見守っていました。夜になってもうだる暑さが続き、熱気と人の波で、想像以上の盛り上がりを体で感じました。
いちいち名前は書きませんが、著名なマスコミにもよく出る経済学者とか、大学教授、政治家も個人レベルで参加しながら、時折マイクを持ち語り掛けていました。高校生主催の集会(日曜日代々木で行う)の告知も高校生男女が二人で直接語り掛け、次々に自分の言葉で意思表示するのには感動しました。
若い方々がいよいよ本格的に動き始めているという波のうねりが起きつつある予感がしました。ここは軽薄を絵にかいたおじさんとしては、何らかの形で応援しないと、情けなき思いです。
一人の著名な方が、夏の終わりまでに、この国会議事堂を10万人が取り囲むくらいの人が、法案に反対の意思表示をすれば 、廃案にできるかもしれないと、声をあげていました。
五十鈴川だよりを開いてくださる方にもお声掛けしたく思います。何らかの形で参加していただければと。集会を終え、ひとり溜池山王駅まで歩き、そこから麻布まででて、宿まで東京タワーを背に歩きました。
遅くなり一人外食もする気が起きず、宿でゆっくりとお湯につかり、疲れた足をもみ、果物とおにぎりと、ビールとお茶の簡単な夜食を済ませました。このデモの模様をメディアが伝えていないかチャンネルを回したのですが、TBSがわずかにちょっと取り上げていただけで他局は全くNHKはじめ取り上げていませんでした。
横になったものの、疲れているはずなのになぜか目がさえて、珍しくなかなか寝付けませんでした。
旅最後の日、三田の駅に荷物を預け朝の銀座でゆっくり朝食。銀座の裏通りの並木座(昔今はありませんがよく映画を見ました)あたりが私は大好きなのです。
8月1日。この日は映画の日でした。この日私は3本の映画を見ました。銀座のみゆき座でチャップリンの贈り物、私の親友が出ている自主製作映画を渋谷のアップリンクで、そして夜7時から文化村の、ㇽシネマで、伝説の写真家、セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画(監督はヴィムベンダースと、サルガドの息子さんのジュリア―のサルガドの二人)
セバスチャンサルガドのドキュメンタリー映画を旅の最後に見ることができた,出合ったこと、が今回の旅の白眉、最高の出来事となったことをとりあえず五十鈴川だよりに書いておきます。
映画を見終え、セバスチャン・サルガドの本を買い、夜行列車に乗るために田町で荷物をだし東京駅に向かいました。11時10分発まで時間があり夕食をしていなかったので、八重洲の地下のレストラン東京で、旅の終わりの祝杯を自分ひとりで上げました。
もちろん生ビールで、つまみは定番の餃子のみ、あのビールのおいしかったこと。約1時間盛りだくさんの今回の旅を反芻しながら 、生きて元気だからこその老春旅、家族はじめあらゆることにに感謝しました。
数十年ぶりの夜行列車は思ったよりも快適でした。すぐに眠りにおち気が付くと名古屋でした。顔を洗い少し体を動かし、コーヒーをのみ、さっそくサルガド氏の自伝を読み始めましたら、一気に引き込まれ西大寺に着くころには三分の二は読み終えていました。
このような写真家が現存していることは、私を大いに勇気づけ何やらこれから先の時間を有意味に生きてゆくためのエネルギーをサルガドさんご夫婦は、私に与え続けてくれるような存在になりそうです。
朝少し書いて、山陽カルチャーから帰って昼食を済ませ、少し昼寝をしたのちうだる暑さのなか、いささか朦朧としながら書きました。どのような旅であったのかが、ささやかにお伝えできればと思います。
8月2日、日曜日午後1時西大寺駅に着き旅は終わりました。炎天の中妻が迎えに来てくれました。
出かける前の自分と、今この一文を書いている自分は,あきらかにかすかな変化が起こったと書けることが、やはり旅の重さなのだとあらためて感じる。
何度も書いているが、かすかに自分が変化し続ける間は、拙文ブログが書き続けられるのではないかとという、いわば生きている楽しみを、私は持続したく念っている。
出発日27日は、朝五時半西大寺発の電車、ずっと東海道線を乗継北上、車中で本を読んでは景色を眺め、疲れたら目を閉じて休むということを繰り返しながら大阪、名古屋、静岡、東京を通過、栃木県那須塩原駅に着いたのが、午後8時半。
若き日富良野で知り合い(彼は北大生でした)、彼の結婚式以来20年ぶりの再会、I氏が駅に迎えに来てくれていた。
彼の顔を見た瞬間、あっという間に若き日に還り、 まずやはり来てよかったとの思いが、こみ上げてきた。
独立して十数年、立派な獣医師となり一回り存在感が大きくなっていた。駅の近くに家があり、奥さんは大学生のお嬢さんのところに出かけられていてお留守とのことで、結局この日は彼の家に泊まることに。
彼の家で20年あっていなかったとは思えないくらい話が弾み、再会の祝杯時間はあっという間に就寝時間へ、続きは大槌の帰りにすることにしシャワーを浴びてすぐに眠りの世界に落ちた。
火曜日28日朝、5時47分の電車で黒磯を出発、I氏が駅まで車で送ってくれた。福島、仙台、一関、花巻と乗継、いよいよ釜石線に乗り換え釜石に夕方5時前に着いた。(二日間で25時間電車に揺られていたことになる)
そこからバスに乗り換え、30分、3年半ぶり大槌町に着いた。瓦礫は片付いていたが 町の人たちの暮らしはまだまだこれからだという印象、車とダンプが動いているばかりで、人の姿がまるで見えない。前回は真冬、今回は夏印象がまるで違った。
仮設のホテルを役場で探してもらいそこに直行した。翌日29日水曜日、仕事がお休みの、ともに瓦礫の撤去作業をしたK氏がわざわざ仕事先の山形から大槌まで(片道4時間)来てくださり、これまた3年半ぶりの再会。(大槌のことは、日を改めて 書きます)なんとも暖かいお人柄、東北は秋田のご出身、この方も一生お付き合いしたい方のおひとりです。
結局、この日はK氏とともに山形の天童市に彼の車で移動、泊まることに。天童市に着いたのが夕方5時過ぎ、K氏と温泉(NPOが経営する庶民行き付けの大衆浴場)に入り、二人で居酒屋で夕食。駅まで歩いて10分もかからないところにあるホテルに泊まったがやすくて広くて快適だった。
30日、木曜日朝7時27分の電車で天童から山形へ出て、そこから米沢へ。列車の待ち時間を利用し3時間ほど暑い中上杉神社などを歩き回る、落ち着いた良き街だった。だが、暑い夏にはやはり観光などはしない方が身のためだと再確認。東北も日中は本当に暑かった。
米沢から、福島、郡山、と乗継、再び5時前那須塩原駅へ。I氏が再び迎えに来てくださり、何とそのまま、塩原の300年間続いている古い温泉宿へ。その日は二人でそこへ泊るようにI氏が手配を済ませていた。
きれいな川を望みながらの森林浴露天風呂が最高でした。二人して裸でゆっくりと、旧交を温めることができた。20年ぶりであれ何であれ、お互いいい感じで再会のひと時を持てる相手なんて御仁はそうはあるものではない。
かなりハードな移動旅が続いてたので、この温泉宿の湯は63歳の体には、まさに骨身にしみました。寡黙なI氏の粋というしかない計らいと、(おもてなし) がひときわしみました。
二人しての宿での夕食、朝食とも申し分なく、語る話題も尽きることなく、たまさかの友との異次元の語らいは至福の旅時間となりました。結局3回私はこの湯につかり疲れをいやしました。またいつの日にか妻と共に訪れたく思いました。
翌日31日金曜日宿の玄関で記念撮影のあと、獣医師としての氏の仕事を午前中見学させていただいた。最初の農家では初めて種付けする氏の慣れた無駄のない動きに、驚きました。3件の家畜を飼っている農家を訪ねましたが、彼の誠実な仕事ぶりを、皆さんが頼りにしているのが伝わってきました。最後の農家では、乳牛がこの暑さで亡くなっている現場を見ました。
お昼前、塩原の駅まで送ってもらい I氏とお別れしましたが、このような意外性のあるうれしい再会はそうあるものでははありません。縁を大切に生きるしかありません。
氏は私より 一回り若いのですが、世代を超えてお付き合いできる貴重な友人です。温泉旅を私にプレゼントしてくれました。いつの日にか彼が仕事をリタイアしたら、私も何かお祝をしたいと思いながら、那須塩原を後にしました。
一転せわしない東京へ。東京には午後4時半ごろ、いつもの三田の宿に落ち着き、一休みしシャワーを浴びたのち国会議事堂前の集会に参加しました。毎週金曜日の夜は、SEALDsの方たちが安全保障法案に異を唱える集会を継続しているので、私も個人として応援に出かけたのです。
集会が終わるまで3時間現場にいましたが、前回よりはるかに多くの人たちが参加していました。6月の前回は雨でしたが今回はブルームーンの満月が出ていて見守っていました。夜になってもうだる暑さが続き、熱気と人の波で、想像以上の盛り上がりを体で感じました。
いちいち名前は書きませんが、著名なマスコミにもよく出る経済学者とか、大学教授、政治家も個人レベルで参加しながら、時折マイクを持ち語り掛けていました。高校生主催の集会(日曜日代々木で行う)の告知も高校生男女が二人で直接語り掛け、次々に自分の言葉で意思表示するのには感動しました。
若い方々がいよいよ本格的に動き始めているという波のうねりが起きつつある予感がしました。ここは軽薄を絵にかいたおじさんとしては、何らかの形で応援しないと、情けなき思いです。
一人の著名な方が、夏の終わりまでに、この国会議事堂を10万人が取り囲むくらいの人が、法案に反対の意思表示をすれば 、廃案にできるかもしれないと、声をあげていました。
五十鈴川だよりを開いてくださる方にもお声掛けしたく思います。何らかの形で参加していただければと。集会を終え、ひとり溜池山王駅まで歩き、そこから麻布まででて、宿まで東京タワーを背に歩きました。
遅くなり一人外食もする気が起きず、宿でゆっくりとお湯につかり、疲れた足をもみ、果物とおにぎりと、ビールとお茶の簡単な夜食を済ませました。このデモの模様をメディアが伝えていないかチャンネルを回したのですが、TBSがわずかにちょっと取り上げていただけで他局は全くNHKはじめ取り上げていませんでした。
横になったものの、疲れているはずなのになぜか目がさえて、珍しくなかなか寝付けませんでした。
旅最後の日、三田の駅に荷物を預け朝の銀座でゆっくり朝食。銀座の裏通りの並木座(昔今はありませんがよく映画を見ました)あたりが私は大好きなのです。
8月1日。この日は映画の日でした。この日私は3本の映画を見ました。銀座のみゆき座でチャップリンの贈り物、私の親友が出ている自主製作映画を渋谷のアップリンクで、そして夜7時から文化村の、ㇽシネマで、伝説の写真家、セバスチャン・サルガドのドキュメンタリー映画(監督はヴィムベンダースと、サルガドの息子さんのジュリア―のサルガドの二人)
セバスチャンサルガドのドキュメンタリー映画を旅の最後に見ることができた,出合ったこと、が今回の旅の白眉、最高の出来事となったことをとりあえず五十鈴川だよりに書いておきます。
映画を見終え、セバスチャン・サルガドの本を買い、夜行列車に乗るために田町で荷物をだし東京駅に向かいました。11時10分発まで時間があり夕食をしていなかったので、八重洲の地下のレストラン東京で、旅の終わりの祝杯を自分ひとりで上げました。
もちろん生ビールで、つまみは定番の餃子のみ、あのビールのおいしかったこと。約1時間盛りだくさんの今回の旅を反芻しながら 、生きて元気だからこその老春旅、家族はじめあらゆることにに感謝しました。
数十年ぶりの夜行列車は思ったよりも快適でした。すぐに眠りにおち気が付くと名古屋でした。顔を洗い少し体を動かし、コーヒーをのみ、さっそくサルガド氏の自伝を読み始めましたら、一気に引き込まれ西大寺に着くころには三分の二は読み終えていました。
このような写真家が現存していることは、私を大いに勇気づけ何やらこれから先の時間を有意味に生きてゆくためのエネルギーをサルガドさんご夫婦は、私に与え続けてくれるような存在になりそうです。
朝少し書いて、山陽カルチャーから帰って昼食を済ませ、少し昼寝をしたのちうだる暑さのなか、いささか朦朧としながら書きました。どのような旅であったのかが、ささやかにお伝えできればと思います。
8月2日、日曜日午後1時西大寺駅に着き旅は終わりました。炎天の中妻が迎えに来てくれました。
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