私が夏休みの旅に出かけている間に、鶴見俊輔さんがお亡くなりになり、個人的に大好きだった俳優加藤武さんが往ってしまわれた。
鶴見俊輔さんとは、数年前京都の美術館で偶然お目にかかって、恥も外聞もなくサインをいただいたことがある。その時のなんとも言えないたたずまい、恥じらいの表情が思い出される。すごい人はさりげない。
多くの識者がその存在の希少さにおいて、すぐれたコメントを寄せられているので、私には何も書くことはないのだが、自分の中の悪を見据えながら絶えず民主主義とは何かを、考え続けられた生き方には、これからも私は素直に学び続けたいと思う。
一方加藤武、文学座の重臣であられたこの方の舞台作品を、たまたま昨年三越劇場で見ることができた幸運を私は終生忘れることはないだろう。浮世絵師葛飾北斎の年齢を感じさせない若々しさには、度胆を抜かれた。
とくに、あの年齢で飛び上がったしぐさの表現には芸人のど根性を見ました。脳裏に焼き付いています。(アンケートを書いたらお葉書をいただきました宝です)
私もいい年齢なのですから当たり前ですが、今後ますます私にとっての同時代を生きているからこそ知りえた、出会えた素晴らしい方々が、天に召されるのを聞くことが増えてゆくのは必定だと覚悟しています。
他人ごとではなく、こればかりは自分にもいつお呼びの声がかかるか、こればかりはわかりません。だからこそ一日一日、この世で生きられる奇蹟を、私は私なりに悔いなく生きねばと、思っています。
とはいうものの、そんなに七面倒臭く考えなくともいいのでは、とも思います。死んだ後のことまではしりません。要はその人らしく人生を全うできること(覚悟)こそが肝要と私は思います。
還暦過ぎてからは、なにゃら一段と昔に還ったかのように、自由自在とはいきませんが、わがままに、人にどう思われようが、自分の内なる声の赴くままにとの思いです。
読んではいないのに、これもお亡くなりになった赤瀬川源平さんがお書きになった老人力というタイトルが頭に浮かびます。人間は生きている限りにおいて、悩める姿をさらしながらも、この世の素晴らしさにしがみついてゆく側に立ちたいと 、私は思います。
それにはどうしたらいいのかを、また悩みつつ楽しむのです。悩まなかったら人生とは、何とつまらないことであることか、小生にとって、まさに悩める子羊をやめないことが、生きてゆくということかもしれません。
ともあれ、八月は日本人にとって死者に思いをはせるつきです。この暑さの中、地獄を徘徊した方々の言葉に耳を傾け、今を生きられる平凡極まる幸福をかみしめないわけにはゆきません。
安全保障法案の行く末が、初老の私には気がかりです。なるようにしかならないと、安易を決め込む前にブログを書くことも含めて、日々揺れ動き名がながらも、各々が自分のやれる範囲で示威行為をする。
戦後70年の節目にこの法案が可決したら、先々やっぱりあの時などといわないように、どのような未来を自分が望むのかを、私はひとりの人間として考えたく思います。
利己的自分にはおさらば、かけがえのない人類の未来の他者のことを、想像するとかすかに自分に何ができるのかが見えてくるような気がします。
8月最後の金曜日は 、もうひと踏ん張り国会議事堂前に駆けつけようか思案中です。大きなうねりにならないとメディアは取り上げてくれないし、熱い人々と共に現場にいたい、初老の私です。
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