8月31日は妻と出逢った日である。私が34歳、妻は26歳。おおよそ30年の歳月が流れたことになる。
いま、この一文を書きながら、やはりどうしてもいささかの感慨にとらわれる。そしてその思いは長女が結婚し、次女が就活をしている今、ようやく子供たちが巣立ってゆく時を迎え、ますます深まってゆく、といった次第である。
今この年齢になったればこそ臆面もなく、厚顔にも書けるのだが、この巡り合いがなかったらおそらく私は、当たり前だがまったく違った人生を歩んでいたにちがいない。
いまはまだ、本人に叱られそうだから書けないし、出会ったのがついこないだのような気がするくらいなので、もう少し枯れてからのこととしたいが、いつ何時、人生何が起こるかわからないので、書けるときにほんの少しでも、とおもうのだ。
いつも私の文章は即興的なので、あちらこちらするがお許しください。
私のこれまでの人生を大雑把にくくると、少年期から思春期はひたすら田舎で遊び夢を育み、青年期は都会で右往左往、人並みに煩悩的に恋と夢におぼれながら働き、妻と家庭を持って落ち着いてからは、ひたすら仕事をしながら家族と共に生き、そしてそれが終わり、芝居でいえば4幕、季節に例えるなら秋を迎えているといったところかもしれない。
このような心境での年齢を迎えられるなんて思いもしなかったが、人生これから先もまったく未知のゾーンなのである。心かけ次第、だからこそ面白いのだ、と私は考える。初めて経験できる世界を前向きに彩る。
何度も書いているが、ゆるやかに下ってゆくこれからを、せっかくの一度限りの人生、大切な人たちと共に、日々悔いなく送ってゆけたら 私にはほかには多く望むことはない。絶対矛盾を抱えながら、貧しくとも贅沢に生きる方法を考え続けたいと思う。
死というものを、どこか心の片隅に時折意識しながら生きるところに、感謝や生命の輝きを実感できる感性が培われてゆくのだと思える。
小学生低学年の頃、やがて死ぬのかと思うと恐ろしかったが、最近はちょっと違う。死はそんなに遠いところにあるものではなくいつも身近にあり、たまたま今日も無事に生きているのだという認識が私の中では深まっている。
死を身近に感じる感性はとくに大切だ、生と死はつながっている。だから、以前にもまして、歳を重ねるにしたがって生きていることに、平々凡々と生きられる今に感謝するようになってきた気がする。
人生をとも生きる伴侶としての妻に巡り合えた幸運は、私の場合たとえようもない。私にこれから先どのような人生時間が遺されているのか皆目わからないが、いよいよこれからは伴侶との時間を大切に過ごしたいとの思いが深まってゆく、秋を告げる雨の朝である。
0 件のコメント:
コメントを投稿