起きてから残り湯を浴び、前日の新聞をゆっくりとよんだ。私の場合は何事も体が純粋な時間帯に、特に読み書きはしないと駄目である。
文字を書いたり、読んだりすると私の場合はかなり脳の奥底の想像力が刺激されるような気がしている。
若い頃、読んだり書いたりすることがあれほど苦手であった自分なのだが、どういうわけでこういう自分が育ってきたのかが、判然とはわからない。
ただ若い頃に、特にロンドンで異国体験をしたことで、自分を否応なく客観的に眺めざるを得なくなった事実にすべては起因しているのだと、この年齢になってみて思い知らされる。
もしあの時、何かに突き動かされて海外に出ることがなかったら、きっとこんなにも書いたり読んだりする自分は決して生まれなかったことは断言できる。
小さき自分の中の可能性をささやかに掘り続けてゆくことが、実はかなり面白いことなのだという気づき、実感を与えてくれたのが、初めての海外英国 体験であったのだ。
そしてわたくしごとき、知れば知るほどにこの世は混沌としてきて、真実は限りなくかなたに存在しているのではないかという茫漠的な思いにとらわれる。
真実は、もつれた糸のように複雑怪奇面妖な歴史の上に、私の眼の前に広大無辺無味乾燥な砂漠のように在る、とときに新聞を読んで思うのだ。
さて、M新聞の記者の目という署名入り、伊藤和史記者の一文を(戦後70年歴史に向き合う経験)読んで、しかりとうなずき切り抜いた。
末尾にこうある、歴史を知るとは過去を知り、つまりは自分の今の成り立ちを知り、自分の位置を確かめること。誤った事実を叫んだり、自分に有利な話を探してつまみ食いしたるする場が歴史ではない、と。
そのためには、虚心に学び続ける以外にないと締めくくられる、同感だ。不都合な真実に向き合う以外に、半永久的に幸福な未来時間は人類には訪れない。つたなき一文を書きながら、だからこそ知性、勇気が私には必要だ。
読み書き、時にいまだなにかに突き動かされて行動する。 心ある少数者、先人たちはすべて私のお手本、先生である。
新聞、特に戦後70年の今年、戦争体験者の方々の、今わの際の声(今まで語らなかった)が紙上に多く寄せられたことを、私は私なりに受け止めた。戦争と平和。
想像力全開で、戦争の愚には何としても 異を唱えないと、戦後民主主義教育を受けた私としては納得がゆかないのだ。なんとも穏やかな朝のひと時は、忽然と生まれたものではない。先人たちの血の上に築かれた、尊いというしかない平和。
いきなりだが、セバスチャンサルガドの【人間の労働・大地】という写真集は、限りなく人間への尊厳、人間への賛歌を啓示する。
狭い範囲での愛国者の妄言、妄想的、空疎な言論に惑わされてはならない。あらゆる心からの表現活動、文化芸術、スポーツ、すべて私に働きかけてくる今を生きる感動は、ちゃちな愛国者精神などを遠くはるかに超える、何かだ。
人類は同じルーツから出発し、国などという概念が出来上がってくる太古の世界ではつながっていた。どうしてかくも人類はバラバラになり武器と武器で衝突するようになったのか。知らないことの罪と罰。
再びいきなり、ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟という小説の中で、【大地にひれ伏し、大地に口づけすることを愛しなさい 】とゾシマ長老に言わせているそうだ。竹韻庵で一人、大地にたたずむ。
ドストエフスキーを全訳している亀山郁夫先生は、この言葉を引用し、おごりを捨てて正直になることに救いを見出し、救いを求める心こそが生命力の証だと述べておられる。
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