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2015-08-07

セバスチャンサルガドをかすかに意識しながら竹韻庵で体を動かす。

S氏が所有している山荘の管理を午前中のみフリーで、働くようになってから今日も含め、7日間ほど竹韻庵に通っている。

なにしろこの暑さなので、普段の半分も体が動いてくれないといった中での作業なのだが、とりあえずはやれるところから、自分なりに自分の体を動かしながら進めてゆくしかない。

山荘の周囲が雑木に覆われてきており、その撤去とその雑木の焼却がしばしの間の作業ということになる。カズラがまとわりついていて、なんともはや手ごわい中での作業。

この暑さの中で、生木を燃やすのは、ほとんど苦行のような感じ、初老の体に汗がふき出してくる。だが、ひとりでの山作業がどことはなしに、私は気に入っている。

まったく自分のリズムでできるからである。仕事という意識は私にはない。一人里山で遊んでいるといった塩梅で過ごさせていただいている。

ところで、セバスチャンサルガドの自伝を読み終えた。今回の旅でサルガドという存在を知りえたことの喜びは、日に日に増してきている。

旅から帰った日に、市の図書館に彼の写真集を探しに行ったら、一冊だけ1994年に出版された、人間の労働をテーマにした写真集があり、それがいま私の手元にある。すごいというしかない。

15000円の写真集、岩波書店から発行されている。図書館の本は返さないとけないので 、いずれ私はサルガドの写真集は、全部手元に置きたいと考えている。

これほどまで、に私はサルガドの世界に魅了されている自分を、どこか有難く、この年でサルガドの存在を知りえたことの嬉しさは、なんと表現してよいのか、格別の出来事というほかはない気がしている。

昔、西アフリカの太鼓のリズムに触れた時、何としても生きている間に、現地に行きたいと思ったものだが、久方ぶりに可能なら元気なうちに、中南米に行ってみたくなっている。

わけても、セバスチャンサルガドを生んだブラジルに 。五十鈴川だよりを開いた方は、チャンスがあったら是非サルガドのドキュメンタリー映画を見てほしい。

わずか2時間で、サルガドの軌跡を、奇跡的に描くことに成功している。このような離れ業は、ヴィムベンダースと、息子のジュリア―ノサルガドによる共同監督だからこそ、成しえたのかもしれない。

それほどまでに私にとっては、魂の奥底まで踏み入ってくるとしか言いようのない作品に、私は出会ってしまった。

うれしくもいまだその余韻に浸りながら、竹韻庵で体を動かしているといったところなのだ。純粋な魂の持ち主だからこそ。このような奇蹟というしかない写真集が年代別(40年間の、今も新しい作品に挑んでいる)に時代と格闘しながら生み出されているのだろう。

私が、昨日今日知ったサルガドの大いなる仕事に 、寸評を書く愚は控えたい。ただたった一つ書いておきたいことは、今後死ぬまでサルガドの写真集を眺めて過ごしたいということである。

生命の源の土というものと触れ合える竹韻庵で、地面を踏みしめながら汗をかき、大いなる魂の持ち主である、サルガドの世界とどこかで、意識がかすかにつながっていると勝手に思えるということは、ささやかな今を生きる私の幸せである。

それにしても、何度も何度も絶望を潜り抜けたからこそこのような奇跡的というしかない、黙示録的写真集が提示されているのだろう。

映画を見ながら涙がにじみ出てきたが、本を読んでも同じように涙が出てきた。自分という器がまだ何かに揺り動かされるということ、が確認できる夏を私は生きている。



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