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2026-11-03

ふるさと帰省旅を終え、文化の日の朝に想う五十鈴川だより。

 一昨日夕刻六時半に家に戻り、昨日働いて、11月最初の五十鈴川だよりである。門川に3日泊まり、31日(結婚記念日)は、先月から、福岡県の飯塚で働いている、遠友Kちゃんのところに泊まった。

その前に30日のことを少し触れておく。30日は登紀子さんの、朝食を済ませ、午前中マクドナルドで五十鈴川だよりを打ち、門川の港を散策、お昼を83歳の姉と二人でお寿司をたべた。姉には、高校生の頃から可愛がって貰っている。後期高齢者になっても愚弟の私が帰省すると、なにやかにやと声をかけてくれる。いくつになっても弟は弟なのである。その事が有り難く、ただ嬉しい。

我が心の小倉が浜

姉や兄がいなくなったら、おそらく私はもうふるさとに還ることはないだろう。その様なことを打つとなにやらもの悲しいが、厳粛に受けとめ、摂理に従う勇気を養いたい。侘しく寂しいのが日本の文化だと想う。

姉にランチをご馳走になり、私は一人兄の車でこのところ帰省の度に、ゆきたくなる小倉が浜に向かった。あいにくの雲り空だったが、サーフィンをしている人たちがいるのは変わらない。引き潮で広い砂浜を約一時間以上歩いた。歩いている人は誰もいない。私はガンジーの自伝、文庫本を二宮金次郎のように読みながらあるいた。

午後四時兄の家に戻り、門川の温泉に行き戻ると、日向市の庶民的な中華の店に兄夫婦が連れていってくれた。美味しい餃子と野菜炒め他を、ビールと焼酎と共に頂きご馳走になた。義理の姉の運転で戻って荷造りをし、横になる。

31日、午前6時に起き、登紀子さんの純和風の美味しい朝食を頂き、姉にお昼用の鯖寿司を頂きお別れした。兄が日向まで送ってくれた。7時44分の日輪に乗り、Kちゃんのいる飯塚に向かう。午前11時半行橋で降りる。飯塚から約一時間、車でKちゃんが迎えに来てくれた。行橋から飯塚まで小さな川沿いの道を走る。土手のすすきが私の琴線を揺さぶる。土手には桜並木が続いている。葉は全て落ちているが春の景色を想像する。

途中山本作兵衛さんの絵が展示されている。炭鉱博物館に立ち寄る。二人でゆっくり見いる。見終え館のそとのベンチで、姉の鯖寿司を食べる。美味しかった。遅めのお昼を終えKちゃんのマンションに向かう。Kちゃんの住まいは飯塚駅のすぐ近くにあった。荷をほどき洗濯をさせてもらった。(一晩乾いていた)

午後3時過ぎ、散策に出る。寂れた市内の商店街を歩き、遠賀川に出て沈下橋を(上には立派な橋があるのだが)2つ渡って対岸に出て、午後三時からやっているという海鮮居酒屋で、Kちゃんと再会の祝杯を上げる。天ぷらやお刺身がとても美味しく、普段は控えているビールをKちゃんと杯を重ねた。

何せほぼ40年近い交友である。性格がまったく異なるのもあるかもしれない。深入りしなくも切れぬ交友の持続に嫌でも祝杯を上げたくなる。この年齢になると、今こそが全てなのである。

一期一会、君子の交友は続く。

全てKちゃんが主導する。再び遠賀川を(今度は大きな橋)渡る。河原ではたくさんの手作りの明かりが灯り、ハロウィーンのイベントが行われていた。マンションの近く、二件目のお店に入る。おばあちゃんが一人でやっていて、昭和男二人にふさわしいお店であった。

二件目で十分であったのに、なんとそこから三軒目、ワインバーにKちゃんは向かった。そこに行った事は覚えているが、その後のマンションまでの記憶がない。気がついたら、1日の朝であった。(74歳でこんなに飲むとは、Kちゃんは私よりも2歳とししただが、その健啖家ぶりには驚かされる)不思議意外やさっぱりと目覚めた。Kちゃんがコーヒーを入れてくれ、椅子をだしてベランダで飲む。

私は瀬政さんから借りている、ウカマウフィルム作品の[地下の民]を見る事が可能か訊くと、事務所で観れるとの返事、事務所の近くに美味しいパン屋さんがあるので、ブランチがてら見ることに決定。何とプロジェクター他全部そろっていて、二人だけでの上映会をすることが出来た。Kちゃんの所でひょっとしたら観れるかもと思ったので、持参して本当によかった。

結果、上映を終え、Kちゃんの事務所を後にして、飯塚から直方、折尾経由で小倉に出てそこからさくらに乗り岡山へ。帰省旅の最後、Kちゃんの事務所で地下の民を観ることが出来た事の有り難さを五十鈴川だよりに一行打っておく。

PS Kちゃんは退職後も、現役で働いている。頭も体も若い。ウカマウフィルム作品にも反応するセンス、感覚がある。年齢を重ねて輝く人徳、味がにじみ出る。このような友を持てたわが人生に言葉がない。

2026-10-30

30日午前中、ふるさとのマクドナルドで打つ五十鈴川だより。

 昨日と一昨日のkpと28日午前10時ぴったりに熊本駅で、次兄が私をピックアップし、高速を一路走り人吉で降り、宮崎に入り、えびので昼食(お蕎麦屋で)をとり、午後2時、私が中学校に3年間通った四家中学校に着いた。四家中学校はもうずいぶん前に廃校になっている。私が元気なうちにどうしても四家中学校に行きたかったのには理由がある。父は当時四家中学校の校長をしていた。父の歌碑があるのでどうしても見て、写真に収めたかったのである。次兄は生家の近くの中学校で四家中学校には縁がまるでないにもかかわらず、遠路私を四家中学校まで案内してくれた。

秋空に、ひっそりたたずむ、夢の跡。

13歳から15歳まで通った四家中学校はまさに廃墟、夢の跡地と化していた。いまから、57年から59年前まで私は確かにこの中学校で学んでいたのである。生徒数は一学年50人、一学年二クラスの、田舎は僻地の中学校であった。

私はこの3年間、父から剣道でみっちり鍛えられた。当時与えられた官舎から往復7キロを、父はバイク私は走って通った。思い起こせばこの成長期の3年間鍛えられたおかげで、今も元気に働けているのは間違いない気がする。一心不乱の3年間、まさに鉄は熱いうちに打てである。廃墟の校舎の周りを一周、校舎の入り口に父の歌碑が風雪に耐えて立っていた。ずいぶん苔に覆われていたが、文字は読めた。しばし佇み、無言で見いった。


歌碑と次兄
歌碑には、(大いなる、のぞみをもちて、ひたすらに、つらぬきとおせ、ひとすじのみち)と刻まれている。次兄は私より3歳上、元気である。めったにはない場での貴重な写真なので、その父の歌碑と共に五十鈴川だよりにその雄姿を載せておく。

念願を叶え、門川へ走る。途中木城にある温泉施設に立ち寄った。兄共に入る。さっぱりして日向灘を右に眺めながら、日向市の入り、夕刻、門川の手前にある江藤酒店に立ち寄る。ここに嫁いだT代さんはおさなかりし頃、共に遊んだ(向こうが5歳年上)思いでの女性なのである。現在もかくしゃくとして、ほとんど赤字のお店の暖簾を下ろさないで、高齢の身でありながらも、いたずら坊主であった私のことを覚えていて、なつかしがっておもてなししてくれた。次兄との3人での立ち話は尽きず、立ち寄って本当によかった。

(昨日午前中私は再びT代さんに会いにゆき、ドイツドレスデンのぺーターさんに送る焼酎を3本買かった。長いこと棚に置かれた焼酎は風合いが箱に現れていた)

午後五時過ぎ長兄の家についた。当たり前、帰省の度にみんな歳を重ねている。が義理の姉と共に穏やかに迎えてくれた。手作り、心づくしの夕飯を頂き、3人での会話もそここに、午後9時に私はふるさとの匂い、空気に包まれてよこになった。



2026-10-28

お墓参りに帰省する朝、寸暇打つ五十鈴川だより。

 夏休みの異国旅から戻った翌日から労働に復帰、それから何かと忙しくしていたので、お墓参りに帰ることにした。夏の大きな地震で大変な思いをしている人びとの住む熊本、駅まで、何と次兄が愚弟の私を迎えに来てくれる。その事が今回の帰省で一番嬉しい。その事が打てれば、もう今朝の五十鈴川だよりは打つことがない、のである。


熊本駅まで、岡山から新幹線でおおよそ三時間、(門川から熊本駅までもそれくらいの時間がかかる、が次兄は迎えに来てくれる)予定では10時には着く。出発まで少し時間があるので打っている。外は夜明け前まだ暗いが、この何とも言えない起きたての静かな時間帯が、こよなく私は好きである。

夜明けの太陽をこのところ雨の日以外、毎日眺めている。毎日日は昇る。お正月の初日の出を詣でることはなくなった。日々詣でるのである。昨日は西の空に満月がぽっかり浮かんでいて、思わず写真を撮った。

情報漏洩に関する報道、イスラエルの選挙、などなど、重要なニュースにのみ、そっと耳を傾ける。それ以外はほとんどテレビを見ない生活である。が、私の生活には支障がない。ただひたすらの、超シンプル老夫婦生活が送れている、平和とは心が穏やかに過ごせることである。

月の明かりは、人を穏やかな気持ちにさせる。だから古びとの歌人たちは月に心情を託し、歌を詠んだのであろう。根気のいる労働からのお墓参り帰省旅は、この十数年のルーティンである。五人姉兄弟未だ健在である、その事が嬉しくめでたい。がやがて嫌でもお別れが、、、。だからこそ、帰れるときにかえるのである。

PS  今朝の一句、起きたての.体に沁みる.月あかり。親ありて.兄弟ありて.今がある。

2026-10-24

妻から村上龍の訃報を、昨日知らされる。そして想う、土曜日の朝の五十鈴川だより。

 妻から聞いて知ったのだが、村上龍が(同じ年齢なので敬称略します)亡くなった。会ったこともきちんと読んだこともない作家なのである。が、氏が24歳で、限りなく透明に近いブルーという作品で芥川賞をとり、一躍時の人となったときの事はよく記憶している。

当時私は、水道橋にかってあって今はない、旭屋書店で昼働きながら英国に自費留学費用を貯めるために、夜は小さな出版社の宿直を週に3日、ただ働いていた。書店で働いていたのは4年近い。

(この4年間の日本脱出の為の貯金引きこもり生活がその後の人生を変えたことは間違いない)村上龍の芥川賞文壇フィーバーは同じ歳の私にはまぶしいというしかない、ほどのもので、生活するだけで必死の私は、ただ対岸の別世界の出来事だ、くらいの認識しかなかった。

すでに何度か打っているかとは思うが、私がある程度落ち着いて本を読む、てばなせない生活のなかでの時間が持てるようになったのは、40歳で岡山に移住してからである。が、例外時間がある。25歳から26歳にかけての一年4ヶ月の英国自費遊学である。この時間のおかげで私は日本語に目覚めたというか、本を読むようになったのは間違いない。異国で、あの遊学時間日本の文字を読む、書く(お恥ずかしくも拙い語彙で)時間を過ごさなかったらと想うとゾッとする。

話を村上龍氏の訃報に戻すと、2005年の半島を出よ以後書き下ろし長編を書かれていたのかどうかを、私は知らない。だが分野はことなっても、またどのようなお仕事をされてはいても同世代、まして同じ年齢の人の訃報はズシンとくる。

下記に記します

私も来年早々には後期高齢者である。一寸先の命運等は予測無しにやってくる。その事に思いを馳せる。

人生100年時代などとメディアはかまびすしいが、私を含めた日本の高齢者が、内実いかほどに充実した晩年を生活されておられるのかは、一切数値で計れるものではない。

私は想う、生老病死の中でも、老いて病を抱えながら充実した生活を送ることは極めて難しい、との認識が私にはある。世相、世の流れは、長生きを奨励しているが、臥せっての長生きは、臥せってもいない身での発言は控えたいが、

(本音、思考もままならい寝たきり老人になったら、私は静かにあの世へ旅立ちたい、死はあの世、宇宙への回帰である。進んだ現代の医療での延命措置は不要である。その事をきちんと五十鈴川だよりに打っておく。来年後期高齢者を迎えたら最低の遺書は長女に文章で伝えるつもりである。あくまでも思考、意思伝達ができ手足が動く間は寿命を全うしたい、と現時点では考えている)

いずれにせよ、同世代の訃報は、過ぎし来しかたを嫌でも考えさせずにはおかない。その事に思いを馳せる時、これからの未知の老いの領域をいかに一日一日過ごし、生きてゆくのかをこそ大切にしたい。

PS 村上龍氏の2005年の書き下ろし本、本棚にあった。時間を見つけて読もうとおもう。心から冥福を祈る。

2026-10-21

ガブリエル.ガルシア.マルケスの講演録を読んで想う、老いの伸び代、今朝の五十鈴川だより。

 起きてコーヒーを淹れようかとおもったらコーヒーが切れていた。そこで夏ロンドンで買ってきた紅茶を淹れ飲みつつ、五十鈴川だよりタイムなのだが、いつものようにはすんなり一文が紡ぎ出せない。

五十鈴川だよりを打ち出して、15年になるが、打つだけで、だんだん文字が書けなくなってきつつある、ような気が最近とみにする。頃合い、潮時というものが何事にもある。ものぐさな私だが、毎日ではないにせよ、よく15年も五十鈴川だよりを打ち続けてきたものである。

そろそろもう、ここらで一区切りを、という内なる声がしてきている。手で文字を書きたいというおもいが一段とましてきている。どちらもバランスをとって続ければいい、とも考える。が、もう現段階では、五十鈴川だよりは充分に打ち尽くしたというおもいが私にはある。

先日、次兄と電話でちょっと長い話をしたさい、親父が残した書があるので、私にくれるという。次兄には子供がいないので、子供のいる私に手渡したいらしい。次兄とは私が小学校六年生から(父の転勤で)転校し、高校2年生で実家にもどるまで別の生活を余儀なくされていたし、性格もまるで異なるので、会話の接点がすれ違い、要するに、あまり密な関係性は築いていなかったので、ちょっと驚いている。


だが、その事、亡き父の書が契機になり、次兄との関係性が、互いに古稀をすぎて意外な展開になりそうな気がしてきている、のだ。長くなるので簡潔に打つ。五十鈴川だよりを打つ時間を手放し(完全には無理だが)、来年後期高齢者になるのを機に、手で文字を書く、わけても筆で文字を書く、老いゆく時間が過ごしたくなったのである。

上手いとか下手であるという次元ではなく、ただ手で自分の感触、他のだれのものでもない自分の筆跡の文字で、お便りを書いたりするひとときをこよなく大切にしたい、のである。だからこれから、五十鈴川だよりを打つ回数は減ってゆくことは間違いない。

書を始めることと、ウカマウフィルム作品を上映会を企画することは、まったく私のなかでは矛盾せず、どちらかと言えば繋がっている。もう何度も打っているので控えるが、一冊の本を読む、一回のフィルムを見る、前と後で、老いゆきながらも何かが自分のなかで変化している、のだ。老いの伸び代、とよいほうに考えたい自分がいる、のだ。

確かにあらゆる事が(生来のものぐさ)、億劫になりつつある自覚があるのだが、今まで関心が無かった領域への読書の幅の広がりや、書をやりたいという情熱が湧いてきたりもしている。その事にただ正直に生きたい、ただそれだけなのである。猪風来美術館の土手の草刈りなどの情熱も、老いゆくなかでの変化なのである。

話に脈絡がなくなるので、ここいらで止すが、今日の夕刻レディオモモに出演する。74歳にもなって、ラジオ出演への依頼があるなんて、面映ゆいが、何と20分おしゃべりする時間があるという、身から出た錆びだと引き受けたが、多分最後になるだろう。

話は変わる。昨日、ガブリエル.ガルシア.マルケスの(講演が苦手だったという)貴重な講演記録の本を読み終えた。百年の孤独を始め、ラテンアメリカの作家の本を私はこれまでの人生で手にした事がない。心から手にしてよかった。本物の文学者の声は異国の老人の私にも、翻訳日本語で届くのである。本物の文学者の希望の声は国家、国境を自由に越え届くのである。

2026-10-18

妻不在の週末、家事の合間、未知の国に関する本を読み、想像力を拓き考える五十鈴川だより。

 時折の妻の不在は、私から一切の甘えを許さなくなる。当たり前のことだが、買い物掃除選択、花のケア、生活のすべてを一人でやらねばならない。だから時折の妻の不在は私を嫌でも活性化させる。今朝はいつにもまして早く起きて、普段は妻がやってくれている細々とした雑事を片付け、洗濯機のスイッチを入れた後、五十鈴川だよりに向かっている。(うち終えたら干す)

昨日も打った。だから特段に打つことはないのだが、年齢的に一日一日をきちんと過ごしたいという、老人願望が、(いいことなのかどうなのかと言うことは一先ずおいといて)きっと私をして、五十鈴川だよりに向かわせる。(のだ)

若い頃、演劇を学んだことが大きいのだなあ、と、時おりこの年齢で感じる。演劇の素晴らしさは、根源的にその一回生が全てである。生ではなく、録画や映画は繰り返し視聴が出来る。(もちろんその素晴らしさはある)が、今日という一日は今日だけである。その事を、老いつつ、ますます有難いことだと感じる私がいる。

想像力を鍛えたい

世相や世間のニュース報道などとは無縁の時間を意識的に過ごしている。無関心ではもちろんない、今の報道はあまりにも世界の真実には程遠いと想うからである。もっと言えば、聞こえてこない、見えない、未だ知らない、真実の叫びを伝えている、映画、ルポルタージュ、文学、論考、新聞などなど、を読み、見て過ごしたいのだ。

昨日も、夕刻の散歩以外は、終日部屋で本を読み、合間家事仕事をこなして妻不在の一日を過ごした。無痛、無感覚ではいられない。世界の至るところ特にパレスチナをはじめとする辺境の地で、(打つのがむなしいほどに)理不尽な特に宗教的な大義のもとにに信じられないくらい多くの人びとが、現代ハイテク無人機や弾道ミサイルで殺されている。

このようなことが続いて良いわけがない。それくらいの心情(信条)しか私にはない。一人一人が自分の事として考え、発言行動するしかない。突然の明日は我が身になってしまうくらいの想像力は持ちたいものだ。

夕刻の散歩、空には三日月🌛涼しくなった。行くところは運動公園がほとんどである。せいぜい30分もいない。泰山木の樹の近くのベンチで靴を脱ぎ、裸足で15分くらい歩く。その間二回、鉄棒にぶら下がる。本を読むと背中が丸くなるので、努めて背筋を伸ばす。懸垂も試みる。できなくてもいいのである。ただ意味もなくぶら下がり試みる。

無理はしない。一回の懸垂を続けたいという願望が湧いてくる。裸足散歩は真冬と真夏以外の季節の良いときに、手術以後継続している。他にも書いてはいないが手術以後、ささやかに老いゆく体に負担のない範囲で続けていることがある。健康に老いてゆきたいという願望は、やはり孫の存在が大きい。


昨日上京している妻から、三年生、ノアの運動会の動画が送られてきた。成長してゆく孫たちの姿は、老いてゆく者の眼福である。が、一方では理不尽極まる環境、第三世界という言葉でくくられる世界を、生きている子供たちのことが、時おり脳裏をかすめる。

脳裏をかすめる体が健在である間は、何か企画したい私がいる。絶対矛盾を抱えながら、ウカマウフィルム作品を企画自主上映したい。

PS 右の写真の本、ガブリエル.ガルシア.マルケスの評伝今年出たばかりの本である。元気な間、一冊でも、未知の国の特にラテンアメリカの作家の本を読みたくなったのは、ウカマウフィルム作品の伴走者、太田昌国先生の本を読んだからである。

コロンブスがアメリカ大陸に上陸して後、500数十年の世界の歴史を先生の本でほんのわずか知っただけで慄然とする私がいる。


2026-10-17

太田昌国先生の本を、早朝と夕刻、ちびりちびり読み進む、そして想う秋真っ盛り、朝の五十鈴川だより。

 18歳から、いわゆる知的労働とは無縁の、どちらかと言えば肉体労働に従事してきた私は、お休みの日の朝、特に午前中は意味もなく嬉しい。木曜日から来週水曜日まで、妻が娘たちのところに上京しているので、猫の花との生活である。娘たちが家庭を持ち、とくに両家庭に孫が生まれてからは、犬のメルがいたので二人での上京は叶わなかった。

メルの遺影、夜妻は蝋燭を灯す

9月20日メルが召され、妻としては久しぶりの上京である。妻のことを五十鈴川だよりに打つことを、妻は嫌がる。

だからほとんど妻のこと、とくにメルが5月体調をくずしてから召されるまでの、私がそばにいて感じたことを打つことは控える。が、一行どうしても打っておきたいのは、メルに対しての、その愛情の深さである。一言、私は感動した。

共に暮らして40年、メルの最後を二人で見送る事が出来て、本当に良かったと想っている。妻は私の不在の間(夏休みの旅もウカマウフィルム作品を見るための上京も許してくれた)もメルの介護に献身した。共に暮らした生き物を看とる崇高さを私は目撃した。

猫の花も相当に老いているが、今も元気である。メルほどには手がかからない。だから、そんなに長い旅でなければ、これから二人での旅を、生活の範囲でやりたいと私は考えている。が、妻は動き回るのが好きではないので、どうなるかは彼女次第にゆだねたい。別行動をしてはいても、どこか信頼感で繋がっている。それが私には自然である。

夜、いつも側にいる花

さて、話を変える。あくまでも生活をしながら、この秋、まさに読書をして過ごす時間が増えている。7月4日、ウカマウフィルム作品に初めて接して、50年以上ウカマウフィルム作品に伴走して来られた、太田昌国先生と面識をえたことで、30年以上前に書かれた先生の本をちびりちびり読んでいる。先生の本はあだやおろそかに読める類いの本ではない。

この年齢で、あらためての無知を知らされ、どこか愕然とする自分がいる。高齢ではあれ、愕然とする自分にすがり、ちびりちびり読み進む。私の貧しい知的な胆力では、時に読み進むのが険しさがを増すのだが、先生の文章は私を撃つ。

(知らない名前の政治家、文学者、人類学者、宗教家、そして中南米の未知の邦の地名が随分出てくる)自分のあまりの無知にどこかたじろぐ、このような視点での論考を今まで読んでいなかった、こなかった自分が時に恥ずかしくなる。(先生の論考は際立って鋭い、安全な居場所で高所から発言する識者には容赦がない、ストイックなまでに自分にも厳しい)ノンポリの私を撃つ。

が、高齢遅まきではあるが、先生の文章に引き込まれる自分がいる、のが救いである。その感情は何処から湧いてくるのかは謎にしておく。視座を変えれば、かくも世界は相貌を変えるのである。長くなるので控えるが、先住民アイヌの歴史、北米インディアンの歴史、中南米の歴史、パレスチナの作家、ガッサン、カナファニーのこと、などなど、眼からうろこの論考に驚かされる。学ばねばと想う。企画をすることは未知の世界に謙虚に耳を傾ける勇気を養い、現在の自分の総体を問い直すことである。



2026-10-14

ウカマウフィルムフィルム作品に出会えたことで、未知の世界の蒙が拓かれる今朝の五十鈴川だより。

 昨日は、午前中働き、午後ちょっと家庭の事情があり、午後3時から5時まで再び労働した。もう行くのをよそうとも思ったのだが、私の足はバイト先に向かった。午前中やり残した所のつづきの片をつけた。相棒に任せてあまり乗らない大型の草刈り機で広い敷地を刈る。人っ気のない中で、一人機械を動かし予定の面積を刈り終えた。日の入りがずいぶん早くなり、日本人としての私の情緒を、揺れるすすきがくすぐる。


基本普段、午後9時過ぎには床につき、朝4時か5時には起きる私の高齢者生活、日が暮れるととたんに、体もおやすみモードになり、思考力も働かなくなる。が、ぐっすり眠ると、不思議なほどに疲労回復、五十鈴川だよりを意味もなく打ちたくなる。いまやひとつのリズムを刻む健康法と化している。

話は変わるが、私は宮崎の日向の高校を卒業し上京、大学で学んでいないせいかも知れないが、健全な知的コンプレックスのようなものが、未だ私のなかに根強くあるのを否定しない。

おそらくそのトラウマ的な心性が、無意識に今も私を何かに駆り立てる原動力になっているのかも知れない。誤解されても構わないが、この年齢になって大学に行かなかったことが、私の場合よかったのではないかと、最近とみに考える。

学歴が無かったことで、特に世の中にでての数年間、ずいぶん悔しいおもいをしたことがあるのも、今となっては塞翁が馬である。世の中、世間に鍛えられ、何とかいまも生きている。元気なうちに思い出のあれこれを書いておきたいという気持ちもあるけれど、いまはまだ企画したいこともあり、振り返るのは今しばらく先送りしたい、気持ちのほうが強いわたしである。

話が変わるが、来年ウカマウフィルムを自主上映する場所として禁酒会館の予約が出来た。その事の安堵を先ずは五十鈴川だよりに打っておく。40歳から自己満足企画をはじめて、(途中10年は企画していない)70歳から再び企画を再開しているわたしである。

我が家のスダチ

おそらく、ウカマウフィルム作品でなければ、自分でもこれほどの情熱は湧いてこないであろう。厚顔無恥、手前味噌を承知で打つが、7月4日ウカマウフィルム作品を観てからというもの、老いの身に新たなエネルギーが注入されたかのような日々を送っている。

これまで手にしなかった本を、この3ヶ月以上、炎暑の夏も今も、ちびりちびり読む生活を持続している。疲れると、気分転換にウカマウフィルムの存在を知らしめた長周新聞を切り抜く。人工AIデジタルライフとは真逆の生活(絶対矛盾を抱えながら)である。正直、後期高齢者直前、このような知的刺激を受けるフィルムに出会うことになろうとは想いもしなかった。

くどくどながなが綴ることは控えるが、ウカマウフィルム作品は、私の老いの細道の足元を照らす、哲学的希望を示唆する、といっても過言ではない。秋が来て、岡山の県立図書館にゆくようになった。太田昌国先生の本をちびりちびり読みつつ、未知のラテンアメリカに関する本も、限られた時間にちびりちびり読みたい、わたしである。


2026-10-12

天高く、秋晴れのなか猪風来美術館の野焼き祭りにスタッフとして参加、翌日記録を打つ五十鈴川だより。

 昨日は猪風来美術館の秋の野焼き祭りに、終日スタッフとして参加してきた。その細々、一部始終を綴り打つには、今朝の私は限りなく疲れている。やがては高齢者細々、五十鈴川だよりになるであろう。が今は、疲れてはいても、いちぎょうでも五十鈴川だより記録として打っておきたい、わがまま老人の私がいる。

天地に咲く焔

前回、我が相棒と雨の中での草刈りをやった際に、行く手を阻んであまりある蔓の強靭極まるしたたかさに、ある種の恐れを抱いた私は、密かにわずかではあれ、次回の草刈りがいくばくかでもスムーズにできるように、根は採れないににしても、蔓を取るべく、ギザギザの付いた小さな鎌と、手のこぎり、剪定バサミを持参した。

着いたのが8時15分、すでに野焼き場、のろには火が入っていた。私はスタッフ、野焼きが終わり、片付け、撤収まで時間があるので、午前中休み休み、急斜面の蔓とりに勤しんだ。さいわい急斜面にはだれもいないので、ひとりでトレーニングをするような案配で手強い根と格闘した。老人と海ではなく、老人と斜面の蔓である。

バイト先でも何回かフェンスを覆う蔓と格闘した経験があったのがさいわいした。きっと縄文人は生活の中で蔓を重宝し、編んで石を運んだり、あらゆる用途に想像力をフルに発揮していたに違いない。私のような紋切り型現代人には及びもつかないようなやりかたで。

正味二時間程度で作業を終えたが、思った以上に作業が捗り、お腹がすいてのお昼のカレーが本当に美味しかった。法曽焼き同好会の会長kさんが冷えたノンアルコールビールをそっともってきてくださった。その美味しかったこと、快晴の秋晴れの下で、飲むその旨さは、心使いとともに染みた。

午後1時には野焼き作品が焼き上がり、作品を取り出し、何名かの作品が表彰され、最後は参加者の縄文ダンスで野焼き祭りは滞りなく終えた。私はスタッフとして見届け、すぐに会場の片付け撤収に動いた。猪風来美術館を21年間スタッフとして支えてきた法曽焼き同好会の会長他、その場に居合わせた、参加者も含め、皆さんが黙々と動いた。テントを丸め、テントの骨組みをばらして縛る。椅子や机を倉庫にしまう。皆の動きが素晴らしい。

生まれでた縄文スピリット作品

一丸となって動いたので、予定よりずっと早く片付いた。午後3時前、忙しくしていた猪風来さんとよし子さんに、挨拶だけはして(よし子さんがお弁当やお菓子、ブドウをくださった)猪風来美術館を後にし、家には5時前に着いた。妻はまだ仕事から戻っていなかったので、簡単に二人分のパスタを作っていると妻が戻ってきた。お風呂を済ませ二人で夕飯、午後8時夕飯を済ませると、瞬く間に睡魔がやってくる。

ところで猪風来さんは私より年上、来年80歳を迎える。北海道時代、新見の法曽での今回も含め、50年で300回以上の縄文野焼きを継続している。縄文造形世界に神秘的なまでに魅いられている稀人である。手ほどき、教えた人はのべ4000にも及ぶという。

野焼きのクライマックス、炎が十数メートル吹き上がる。猪風来さんの雄叫びが天地に木霊する。そっと見守るよし子さん。スタッフとしてお声がかかる。光栄である。一年でも長くスタッフとして参加したい、私がいる。


2026-10-10

昨日、太田昌国先生から2通のお葉書を頂き、長周新聞に寄稿された、学園坂スタジオ主宰、Tさんの記事を読んで想う、今朝の五十鈴川だより。

 昨日午後、瀬政さんと二人でウカマウフィルム作品自主上映のための、禁酒会館の使用申請に行った。指定用紙に使用日の諸々を二人で書き、確認し、担当のかたは不在であったが所定の場所に置いてきた。申請日は12月8日の午後(機材持ち込み事前に試写をする)と来年の、3月13日、5月8日、7月3、9月4日、11月6日いずれも土曜日午後である。全ての日にち、予約が叶う事を祈るのみである。

Tさんの長周新聞の記事

瀬政さんに、岡山駅まで送ってもらい、家に帰ると、何と太田昌国先生から封書に2通のお葉書と、2027年の上映フライアーが入っていた。また、東京小平の学園坂スタジオで、ウカマウフィルムの全作品を隔月でしている主宰者であるTさんが10月7日に寄稿した、読みごたえのある記事が掲載された長周新聞も届いていて、嬉しい二重の喜びが重なった。

学園坂スタジオを主宰するTさんとは、7月、9月連続2回学園坂スタジオでの上映会で面識を得、ショートメールをやり取りする関係性になっていて、近々長周新聞に記事が掲載されるのを知らされていたので楽しみにしていたのである。一読、このような記事を書けるほどの内実があればこそ、自分のスタジオで、ウカマウフィルム全作品が隔月で上映できるのだと得心した。

有志による岡山での上映会にも全面的にバックアップしてくださっている、のが心強い。相棒瀬政さんとも話し合い、小さいスペースで、学園坂スタジオで上映しているように隔月で岡山でも全作品の上映会を、何とか実現したいのである。沖縄のGさんとの出会いで長周を購読することがなければ、ウカマウフィルム作品をみることは遠退いていた(無かったかも)かも知れない。


そのような偶然性も、都合よく必然的に考えたいと思う、高齢厚顔なわたしである。Tさんのご年齢は存じあげないが、おそらく私よりはずっとお若いと思う。そのような方と世代を越えての連帯、関係性を深められるのは、企画した、行動したものにのみあじわえる果福である。

だが、まだ施設使用申請を終えたばかりである。施設受理の知らせがないと決定した事にはならない。全てはそれからである。が、いずれにせよ、私のなかでは(おそらく瀬政さんも)肝は決まっている。

学園坂スタジオのTさんとの連帯感、信頼感の深まりは、ちょっと言葉にはならない。一滴の輪の(和の)拡がりは、フィルムを上映することでしかない、と考える。

私自身がウカマウフィルム作品をみることを通じて、ちびりちびり、謙虚に学んでゆきたい。よき高齢、晩年時間を仲間と共に過ごしたい。。



2026-10-07

太田昌国先生、1991年刊行の本[鏡のなかの帝国]を、ちびりちびり読み進めつつ想う、今朝の五十鈴川だより。

 水曜日、今年から労働はお休みにした事で、後れ馳せながら、あらためての無知を知らされ、学ぶ読書時間が増えている。一口に学ぶといっても多岐にわたる。経験し、体で学ぶ。例えば先日も打ったが、雨の中で急斜面の草刈りをする、何てのも、私にとっては、実践的な学びと認識している。両方、私には必須である。

雨の中でも働いている方などを、たまさか眼にしたときなど、我が身の想像力が及ぶのは、自分もやった経験がいささかあるからだろう。厚顔に打つが、古稀を過ぎての労働はさておき、知的渇望、本を読み学ぶ悦楽は一段と深まっている気がする。(のろのろ亀のように読む)

狭い範囲の本しか読んでこなかったという反省、気付きが最近とみにしている。読書世界の水先案内人としての先生は、松岡正剛先生である。これはという本は再読する効用を先生は説いている。同じ本を年齢を重ね再び手にすると、以前読んだときには、全く心が動かされなかったとところが、染み入って来る。あたかも脳内ニューロンのシナプスが、老いつつも活性化し、幸せホルモン、セロトニンが分泌される気がする。

下記に記します。

話は変わるが、ウカマウフィルム作品を見たことで、以前だったら手にして、まずは読まなかったであろうと思う、太田昌国先生の本、1991年に出版された[鏡のなかの帝国]を労働の前にちびりちびり読み進めている。草取りするような案配でのバイト先の倉庫での読書である。

今やこの倉庫は私の方丈の庵と化している。家で読む本と倉庫で読む本はことなる。これまで私は、勝手に政治的に思えるような分野の本(先生の本は全く政治的ではない)はほとんどといっていいくらい手にしてこなかった。痛く反省する。

ウカマウフィルム作品に出会ったことで、必然的に先生の本を読みたくなったのである。(今半分ほど読んだところだが、今さらに蒙が拓かれている)手にして良かったというおもいが五十鈴川だよりを打たせる。

私は政治にはアレルギーがある。(世の中に出てから、今もめするこの国の政治家の顔はなんとも魅力に欠けるのだ、多くを語りたくないほどに)。40歳、都会暮らしに決別し、岡山での第2の新しい生活のなかで、気がつくと、主にアフリカ、アジア、エリアの音楽を企画することで、ちびりちびり学んできた、と思える。

先生の本、ページをめくるごとに、自然な人柄がにじみでる真摯な文章に、学ぶことの大切さを深く教えられる。先生は若い頃から埴谷雄高著、[幻視のなかの政治]などを読破しているのだから、恐れいる。世代、生まれは異なるが、出会ったのである。難解な本も読もうと思う。怖れる必要はない。自分が変われば、出会うべき人や本に出会える。そんな風に最近思える。

いずれにせよ、ウカマウフィルム作品を通じて、太田昌国先生と出会えたことで、ラテンアメリカ世界の本を読みたくなったことは確かである。著者の声が、聞こえて来るかのような本、先生推薦の本を読みたい。(時間は有限なのだ)企画をすることは、私の場合学ぶ事と同義である。だが、肩に力のはいった読書は私には出来ない。草刈りと同じように駆り立てる、苦楽の喜び読書である。

PS 太田昌国先生の思考の軌跡が辿れるご本である。岡山で、ウカマウフィルム作品を製作順に、東京小平の学園坂スタジオと同じように自主上映しながら、先生のご本もまた、順次、ちびりちびり読みたい、と考えている。



2026-10-04

猪風来美術館の周りの裏、急斜面の草刈りを相棒kさんと共にやる、そして想う。

 朝7時前、相棒kさんが私を迎えに我が家にやって来る。荷物を積み込み新見の猪風来美術館に向かう。2号線から岡山空港への道を走り9時前に着いた。幸い雨は降っていない。

即挨拶もそこここに、草刈り開始。物凄い蔓と笹が急斜面を覆い尽くしていて、行く手を阻む。それでも、斜面に踏ん張って、捗らないなか、刈り続ける。45分もやったら痩せたからだから、じんわり汗が吹き出してきて、休憩し肌着を取り替え、休憩をちょっとして第2ラウンドに突入する。よし子さんが優しく、お茶お茶と気遣ってくれる。嬉しい。

2ラウンドの終わりくらいからかなりの雨が降ってきたが、相棒も私もひたすら草刈り機を動かす。燃料がきれた。もう30分二人でやればほぼ目処がたつ。即決断、カッパを着て燃料を入れ、3ラウンドに突入する。結果、11時15分頃、ほぼ(きれいには刈れなかった)斜面を終えることができた。

下記に記します

濡れた衣服を全て着かえ、さっぱりして、お昼(よし子さんがお弁当を用意してくれていた)を頂き、少し猪風来さんらと語らい、相棒と美術館をあとにした。相棒と高梁でざるそばをいただき、相棒の運転で、西大寺の我が家に着いた。

家に戻って、再びリラックス、部屋着に着かえ、寸暇五十鈴川だよりを打っている。kさん、我が相棒との二人での、あの後半の雨の中での草刈り、体験したもののみの共有時間の一部始終の、一部を、五十鈴川だよりに刻まずにはいられない私なのである。臆面もなく打つ。あの急斜面の足場の確保が難しい中、よくぞ今回も雨の中刈れたことの嬉しさは、例えようもない。

相棒あっての快挙なのである。決して私ひとりでは無理である。二人とも古稀を過ぎている老人である。普通の今時の感覚では、無謀なのかもしれないが、ある程度の自己満足的な草刈りができたことの、老人の達成感、喜びは半端ではない。まだ三回しかあの斜面の草刈りをしていないのだが、私は一回でも長く、あの急斜面を刈り続けたいと、今思っている。

私の現在を活性化させる、猪風来美術館の縄文の力を私がどこまで理解しているのか、いないのかは私には皆目わからないが、あの急斜面の草刈り位のお役には立てる、その底意地がおそらく私を刈り立てるのである。土器は創れずともである。相棒との草刈りは、文句なしに愉しい。だからこそできる。

平坦な場所と、斜面の草刈りとでは、はまるで体にかかる負荷は異なる。引力、重力との限りない格闘が草刈りの間続く。これは老人の私を限りなく、鍛えるのである。突然考える。この程度で顎が上がるようでは、ウカマウフィルム作品の自主上映はやれない。

PS 午前中、猪風来美術館の斜面の草刈りを相棒とやれ、正直くたくたですが、五十鈴川だよりを打つ、74歳のあまのじゃくの私がいる。このようなときは打ち終えて、ハイボールをのみ、読んでもちんぷんかんぷんの本が読みたくなる。今夜は松岡正剛先生と津田一郎先生の本を読もうと思う。読んですぐに分かる本(だが実践するのは至難)と哲学書、難解な本を交互に読み、老いゆく現在を過ごすのが、一人時間の老いの悦楽なのです。

2026-10-03

読書する秋、老いの悦楽時間を生きる、そして想う五十鈴川だより。

 今週も無事に4日、午前中だけだが労働をしゆっくりと五十鈴川だよりを打つ(打てる)、私にとってのささやかなお楽しみの土曜日の朝がやってきた。似たようなこと、日々の雑録的な、だが私にとっては、大事なことを、まあ飽きもせず綴り打っている。

61歳から始めた五十鈴川だより。もう丸14年以上打っている。単なる自己満足的な、老人よれよれ日録になりつつあるのを、どこかで自覚しつつも、労働ができる間は続けたく思うわがままな私がいる。

何度か打っているとおり古稀以後の炎暑は、私の労働意欲を削いであまりあるが、途中の夏休みをいれ何とかすれすれのところで踏ん張り、大好きな秋を迎え、午前中涼やかな秋空の元での労働は、例えようもなく気持ちがいい。この喜びはやっている、つまり私だけが知る喜びである。それもこれも、体が動くから為せることである。命の物種、森羅万象への感謝は歳を重ねるごとにふかまる。

さて、いつものように話題を変える。本を手にするには最適な季節の到来である。私は全てにおいて、気付きが遅く、自分でも晩熟型であるとの認識を持つ。私が本格的に本を手離せなくなったのは、お恥ずかしくも40歳で岡山に移住、中世夢が原で働き始めてからである。

下記に記します。

西大寺から新倉敷までの往復電車での時間は、私を決定的に本好きに変えてしまった、と今想える。いまもそうだが、私は遅読である。がすう十年の継続で脳内のシナプスがずいぶん反応するようになったのか、 老いつつも、本にもよるが速くなってきている。(錯覚かも知れない)

ますますもって、本好きになってきているのは間違いない。本は次の本を生む。読めば読むほどの無知蒙昧を結果知らされる。老いつつも次々に手にしたい本が現れる。だから私はありがたくも退屈しない。前回日本語の未来について、危惧されている識者の本をアップしたが、拙い私ごときが、五十鈴川だよりを打ち続けられるのは、幾ばくかの身に付いた日本語のお蔭である。

テレビが普及、我が家にテレビがやって来たのは10歳、小学3年生の時である。以来64年、世はますます映像優位時代、本を手離せないような人間は、今や絶滅危惧種といっても過言ではない。映像洪水の中、思考力を養う日本語読書離れは由々しい事態を招くのでは(すでに招いている)ないかと、私ごときでも案じてしまう。

日本の未来を担う、日本の子供たちには(孫たちには)、最低限の日本語の、先人たちが紡いできた、言葉の素晴らしさ、豊かさを伝えねばと、お爺の私は危惧するのである。絶滅の危機にあるのは動植物ばかりではない。私を含めた、日本語力低下の、同世代のあまりの危機感の無さは、時に私を呆然とさせる。(自国の文化を尊重できなくして、他国の文化を尊重できないのは当たり前である。)

日本語で思考する力を日々養うためにも、先人たちの紡いだ鍛え込まれた日本語に触れ、己の日本語を磨ぐ訓練を積まねば、と今更ながらに学びたい私である。(気づきに年齢は関係ない)

PS 最後の碩学、漢字の成り立ちを生涯かけて解明した大家、白川静先生に私淑された方の本、読みやすいのでどなたでも読める。素晴らしい。このような学者が居られたことが日本人として誇らしい。松岡正剛さん(と呼ばせていただく)にも白川静先生について書かれた本がある。



2026-09-30

ウカマウフィルム作品、自主上映会場に岡山市内の中心部にある禁酒会館に、瀬政さんと決め、翌日の朝に想う五十鈴川だより。

 昨日午前中、雨の中草刈りをし午後赤穂線で岡山へ。駅で瀬政さんがピックアップして、その足で岡山生涯学習センターほかを、ウカマウフィルム作品自主上映会場探しに二人で動いた。

下記に記します。

禁酒会館、小さなスペースではあるが、あくまでもウカマウフィルム作品を、岡山で上映する場所としては、私にはぴったりだと思えたので、最後、瀬政さんにも見てもらいたく案内した。

やはり仲間である。結果すんなり二人でここでやろうと決断した。50人もはいればいっぱいだが、まもなく築100年を迎える禁酒会館は、ウカマウフィルム作品を上映するのにふさわしく私にはおもえる。岡山市内の中心部、アクセスも知名度も申し分ない。

相棒瀬政さんと私はとりあえず、上映場所が決まったのでほっとした。場所さえ決まれば後は少数の仲間で、一つ一つクリアしてゆけばいいのである。その後二人して瀬政さんの北方の庵に向かった。その小さくも諸設備が充実した庵で、すでに瀬政さんが購入しているDVD,ウカマウフィルム作品の[鳥の歌]を二人きりで見る。

ひっそりと二人だけでの試写会である。私は鳥の歌で長編は五本目である。内容は割愛する。(五作品の中で一番面白く見ることができた、カラー作品、仕掛けが随所に)テーマは共通しているが、表現方法、スタイルは創られた時代と共に変化している。作品を見るごとにあらためて、私にとって未知のフィルム世界であることを突きつけられる。内容はあまりにも重いのだが、あくまでもフィクションなのである。

瀬政さんは初めて私が鳥の歌を見るので、大きいゆったりした椅子を譲ってくれ自分は小さいいすに。始まって間もなく、美味しいお茶も淹れてくれた。このような思わぬ方丈の庵で鳥の歌を見ることが出来て、私は幸せである。試写を終え、何と瀬政さんは私を家まで送ってくれた。至れりつくせりでの感謝を五十鈴川だよりに打たずにはいられない。


晩年時間、確実に死を意識せざるをえないような年齢になると、長年の関係性の蓄積による、信頼感の上での揺るがない仲間がいるという在り難さは例えようもない。

やすきに流されず、表現活動を持続するのは普段から気心の知れた仲間がいないとまず無理である。北方から西大寺までの車中、とりとめなき話を、気楽に語り合え、苦楽を共にできる仲間がいなければ、ウカマウフィルム作品の自主上映会は出来ない。

小さい場所で、ウカマウフィルム作品を自主上映する。仲間は私を含めほとんど高齢者である。企画をするのに年齢は関係ない。高齢者が絵を描くように、小さくも大きい志の企画はやれる。企画に賛同する仲間を持て私は幸せである。

PS 上の写真は齋藤孝さんの本。読み終えたばかりである。関心のある方は手にして欲しい。すぐに読めるが内容はとても重い。齋藤さんは数十年前から音読の必要性、日本語の危機を説いて来られた、知的教養人である。

下の写真は、たまたま図書館でみつけたのだが、齋藤さんと共通する危機意識をお持ちである。折々、私も一個人として、孫たちには爺なりに日本語の面白さを伝えたい。二冊ともとても読みやすい。的確な提案、知見満載である。

日本語は大きな国に言葉を奪われた歴史がない。齋藤さんのウイグル自治区で中国政府が行っているウイグルの言葉のジェノサイドは気持ちが悪くなるほどのものだ。長くなるので割愛するが、ウカマウフィルム作品は私の能天気に生きて来れた、これまで歩みを、根底からくつがえすといって憚らないほどに、反省、再考を迫るのである。

2026-09-28

倉本聰先生の訃報を知る。雨の日の夕刻の五十鈴川だより。

 

31歳の私

午前中仕事を終え戻ると、倉本聰先生がお亡くなりになったニュースを伝えていた。富良野塾一期生として、31歳から34歳まで富良野で過ごした、足掛け3年近くの日々がなければ、現在の自分はない。その事に想いを馳せると、、、。

とここまで打っていたら、山陽新聞の文化部の方から、私が富良野塾の一期生であること知って、電話での取材が入って、しばし話をした。明日の新聞に掲載されるらしい。やく、一時間近く40数年前の富良野塾での体験や、岡山に移住してからのことなどを、質問されるがままに、受け答えし、電話を置いた。五十鈴川だよりを打つ気が消えた。慎んでご冥福をお祈りする。

PS 上の写真は本当に貴重な一枚である。廃屋の前で。この廃屋を宿舎棟に改築した。何枚かしか私には富良野塾での写真がない。だがあの塾地で過ごした青春の終わりの3年間は、私の体の奥深くに数多く記憶の宝として刻まれている。卒塾して40年、無常迅速、あの体験が今の私を支えている。

2026-09-26

ウカマウフィルム作品自主上映会場探しに、2日にわたって動きました。そして想う。

一昨日午後2時、仲間と3人で長島愛生園に、ウカマウフィルム作品の自主上映会場の下見もかねて、施設の方にお話をしに出掛けた。長くなるので割愛するが、施設のなかでの上映会は無理だが、園内にある喫茶店で時折ライブなどもやっているからと、そこを紹介していただいた。お店はお休みだったのだが、その喫茶店で働いている女性がおられ中を見ることができた。


私としては、土曜か日曜日の午後の上映会を考えているので、喫茶店の営業があるのでこれまた難しいという結論になった。(それ以外にもいろいろな問題を考えるとハードルが高い)しかし、働いている女性から、岡山市内に今年3月にオープンしたばかりの中央公民館を教えていただいた。

一旦家に戻り、まだ時間があったので、私は瀬政さんと二人でその公民館をみに岡山市内に向かったのだが、あいにく祭日の翌日で公民館はお休み、中を見ることが叶わなかった。私は電車で家に帰った。

そして昨日、午前中仕事をし、午後3時過ぎ私は再び中央公民館に向かった。中を見ることができた。長くなるのでこれまた割愛するが、場所としては申し分ないのだが、音響設備もなく、ちょっと上手くは説明出来ないのだが、ウカマウフィルム作品を自主上映する場所として、企画する私のなかの琴線に触れるものが何も感じられなかったのである。

とまあこのような塩梅なのだが、ようやく涼しくなり、家庭生活も落ち着いてきた。始動してまだ2日、はやる心体を抑えつつ、ここならやれるという場所に巡り遭うべく、私は動くつもりである。長島愛生園でやりたい、という私の個人的なおもいは、頭が切り替わり消えた。

瀬政さんにいただいた蜂蜜

原点、7月4日東京小平の学園坂スタジオで見た際に、びっくりしたのが始まりである。あくまでウカマウフィルム作品の自主上映会を、岡山の手の届くエリアでやりたいのである。それまでは、働き生活し、時間を見つけて会場探しに動き周りたい。動き回っていると、棒に当たる。それが企画を始めてからの私の信条である。ウカマウ集団のフィルム作品群が、動く私を支えている。先ずは小さい場所で、学園坂スタジオのようにスタートしたい。

期日を決めず上映会の場所に巡り遭うまで、動き回るだけである。(それと新しい人、面白い人にであいたい)

PS 今朝の写真は松岡正剛先生の本、疲れているときに手にすると、確実に元気になる。間違いなくの本物の知識人。その多岐の分野の本を網羅、編集する尽きぬ(お亡くなりになるまで知的思索は続いた)好奇心には平伏脱帽する。間違いなく天才である。千夜千冊の、僅かでもこれからの晩年時間手にし読むつもりでいる。楽しみである。下の写真、瀬政光彦養蜂家の蜂蜜、ロンドンで求めた紅茶に入れて飲めば、エネルギーが湧いてくる。



2026-09-24

ウカマウフィルム作品の自主上映に向けての第一歩が始まる朝、寸暇打つ五十鈴川だより。

 目が覚めたのでおきた。老人は早起きである。今日は午後長島愛生園に行く予定である。ウカマウフィルム作品の自主上映会の場所として、思い付いたので説明に行くのである。同行するのは、盟友瀬政さんと共に労働仲間としてこの3年以上働いているkさん、と私の3人である。

とにかく先ず3人、身近に自主上映仲間がいれば動き出せる。福岡に住むkちゃんも仲間に入ると名乗りをあげているし、実働は不可能でも企画実現に向けて、援助を惜しまない長い交友関係が持続している方たちは、全て仲間である。

下記に記します

ウカマウフィルム作品、岡山自主上映企画実現に向けての、第一歩が今日から始まるので、五十鈴川だよりに記録として打っておきたいのである。

7月4日にウカマウフィルム作品を初めて見てから、2ヶ月と3週間である。東京小平の学園坂スタジオでの2回目の上映会にも参加し、全作品を見てはいないのだが、上映会をやりたい私がいる。

私の想いに賛同してくれる仲間がいるのは、甚だもって心づよい。企画をすると言うことは、他者に見てもらうということなので、絶対的に煩雑なあれやこれやの手続きを、最低限は踏まないと実現しない。

ひとりでは出来ないからこその面白さが企画を生むのである。実現するまでの過程を苦楽する信頼する仲間が不可欠である。

9月5日、学園坂スタジオでの上2回目の映会の後、短い時間であったが、太田昌国先生に岡山でこれまで自主上映はしていない、ということを直接お聞きしちょっと驚いた。それならというわけではないが、余計私が企画したくなったのは間違いない。

いずれにせよ、折々五十鈴川だよりを打ちながら、仲間と共に、ウカマウフィルム作品の、自主上映会を必ず岡山で実現させたい。

PS 愛犬メルが9月20日、8時23分永眠し、妻が墓標を22日庭に作りました。

2026-09-22

休日、菜園場の草刈りと草取りをし、(終えて倉庫で読書)秋の空を眺め、そして想う。

 連休だが何処にも出かける気が起こらない。あれだけの充実した夏休みが過ごせたことの余韻は、未だ老いた体の中に色濃く残っている。機が熟する。タイミングを逃すともう2度と取り返しがつかない、と言うことがまま人生にはあるような気がする。


そういう意味でのこの度の夏休みは、私にとって、きっと後年もっと老いて、いろいろな事がやれなくなったときに、鮮やかに脳裡に浮かびあがり、穏やかに老いを受け入れるられる、と思えるほどに、よき旅が実現した。そのことのささやかな極みの幸福感を、打たずにはいられない。

昨日午前中、仕事場の倉庫(いまや私の隠れ庵でもある)で、読書と草刈りと草取りをした。基本、老いたら手の届く範囲での時間の過ごし方をひたすら充実したい、というふうに想う。ドレスデン、レイさんのお父さん、ペーターさんのガーデンで過ごした、僅か数日の時間の気持ちよさは格別で忘れられない。その事一つをとっても、黄金の実りの旅であった。



私もあのような時間を基本に生活を組み立てたいと、今切に思い始めている。娘がレイさんと結ばれなかったらこのような意外性の極みのような旅は叶わなかったであろう。まさに人生は思うようにはプログラミングできないのである。何がしゅったいするか予測できない、からこそ人生は辛くとも、しかし面白いのである。(とおもう側を私は生きたい)

心体の発する奥底の声に従い、基本的に家族や価値観を共有する仲間との時間を最優先し、あらゆる関係性を順次手放しつつ、どうしても手離せない物に囲まれて生活する。よほどのことがない限りである。企画もこれが毎回最後という気持ち、移ろいゆく体で精一杯成せる事に、エネルギーを集中したいのである。

草を抜きつつ考える。本を読みつつ考える。雲の流れを眺めもの想う。未知の世界を知る勇気を養いたいと、切に念う秋である。

PS 見渡せば、スマホばかりのこの世かな、幸せは、スマホの中に、有るや儚む。(松岡正剛先生から教えていただいた歌、見渡せば、花も紅葉もなかりけり、浦の苫やの、秋の夕暮れ、をもじってみました)




2026-09-19

一昨日、畏友大兄、猪風来さんを法曽まで送り、3ヶ月ぶりに車中語り合えた幸福を思う、今朝の五十鈴川だより。

 一昨日、所要で岡山にいた猪風来(新見の法曽の猪風来美術館、館長)さんを午前11時半ピックアップし、そのまま法曽の美術館までドライブした。3ヶ月ぶりだったので、車中でいろいろなお話をお互いにしていると、あっという間、13時半法曽に着いた。よし子さんが笑顔で迎えてくれ、すぐ簡単にお昼をする。

下記に記します

よし子さんがお吸い物を用意してくれ、おむすび昼食をしながら、ちょっとだけ3人でお話時間をもてた。慌ただしかったが、久しぶりに3人で言葉を交わせた事が、何よりも良かった。その事をまずは記録として、五十鈴川だよりに打っておく。

6月の草刈以来の法曽、美術館の回りは当たり前、こないだ刈ったエリアは再び草が繁っていた。話はいささか手前味噌だが、幸い私が元気なので、娘たちから孫の相手とか、とにかくどのような些細なことであれ、信頼され、頼み事に応えられる喜びは、私の場合格別である。

分けても、猪風来美術館の草刈は、取り柄のない私がもっとも(上手くはないが)苦にならない、健康維持にも欠かせない、やりがいのある労働なので体が動く間は、続けたいと決めている。

ご子息の原野さん(正に天才的な、私の理解の及ばない、未踏世界、コンピューターメタプログラミング、小説、縄文造形の若きパイオニア、本当に惜しんで余りある才能、この混迷の時代の希望とも言える存在であった。その事を車中の猪風来さんから、あらためて聴く事ができた)が他界されてからの、ご夫妻の歩みを想像すると、私は言葉を失う。

美術館がオープンして21年、この間年に二回の野焼き祭りを裏方として、純粋に支えてきた法曽焼き同好会の方々も高齢化し、草刈スタッフもままならない現実がある。私も高齢者だが、幸い草刈りは今や私の生き甲斐そのもの、猪風来美術館草刈り隊の一員になりたいのである。

この連休に読む


やがては草刈りだって、何であれロボットが代用されるだろうが、ただではロボットは買えないだろう。とりあえずの間、草刈器と燃料と動く体があれば、美術館の周りの草刈りはできるので、猪風来美術館ファンの草刈り隊、私を含め五人位が理想だが、とりあえず最低3人は必要である。

私は高齢生活者である。生活者の視点で企画もする。猪風来美術館の草刈り隊もやる。つまり無所属自由自在高齢者でただ在りたいのである。

私が桑江さんご夫妻、猪風来さんご夫妻、今また企画したい、ウカマウフィルム作品を50年以上支援している太田昌国先生には、揺るがぬ民衆的視座がある。(私は民衆のひとりである。お役に立てる事ならばやりたい。それだけである)

私ごときには及びもしない、前人未到世界、人類の行く末を見据え、あらゆる権威に媚びへつらうこともなく、意義のあるお仕事をされている。そんな方たちに信頼されるのは身にあまるのだが、謙虚に有難い事だと思うことにしている。

PS 上の写真は遺された、村上原野さんの縄文造形作品集の80ページの写真です。折々ページを捲りみいる。本物の作品を見続けるためにも、一年でも長く草刈りをしたい。


2026-09-17

9月17日の爽やかな朝に想う、五十鈴川だより。

起きると、秋を告げる虫の音が我が家の庭できこえる。落ち着いてもの想うのは、私の場合朝しかない。したがってほとんど五十鈴川だよりは朝打っている。喉元過ぎれば暑さ忘るる、正直あの夏の暑さは忘れたい。

今朝はサイコーに静かで穏やかな朝である。今日は所要で仕事はお休み、その分昨日働いた。時間があるので、個人的老人記録、又は自分で自分の気持ちを前向きにするための、お念仏的五十鈴川だよりを、打ちたくなる、74歳の秋を生きる私である。

素直に知ることから始まる

69歳で大きな手術をし、古稀を過ぎてあっという間に丸4年、無常迅速と言う言葉が身に染みる。染みるけれども、染みつつも充実した生活が、何はともあれ個人的には送れている。有難いと思う。(世界の報道には斜めに触れるようにしている)

これが孔子言う所の、足るを知る生活ならば限りなくそれに近い。(かもしれない)。シンプルな生活を61歳から心かけ、お金、グローバル資本主義には惑わされない(普段は生活費のみで暮らす)、消費生活ではなく、理想には遠くとも、鴨長明や、良寛、その他畏敬する先人たちの書物から、学ぶ生活を心かけている。(つもりである)

とは言っても、私はストイックな生活だけを心かけているのではもうとうない。先の12年ぶりのドレスデンへの旅もそうだが、ここぞというときにこそ、お金を使う生活をしているだけである。

あくまで普段の生活での話である。そこかしこに面白い楽しみを見つける(のだ)。臆面もなく打つ。今いちばん苦楽し、面白がっているのは仕事場での草取りである。一昨日午前中かなりの雨の中、カッパ着てやったのだが、炎暑の夏とは異なり、面白いようにはかどった。あの夏を乗り越えたからでの果報である。

数年前までは、どちらかと言えば腰に負担がかかるし苦手な作業であったのだが、音読で鍛えた丹田呼吸を敢えて意識し、尺取り虫スクワットと命名、実践したところ、さほど苦もなく継続できるように、この年齢で成ったのである。体調もキープ出来ている。

このことは私のなかで老いの希望をもたらしている。この体の希望無くしての企画は、私には出来ないのである。8才の孫はボルダリングをやって喜んでいる。お爺の私は草取りや草刈をやって喜んでいる。大差ないのである。あるとすれば私にはいくらかの実入りが、お手当てがもらえることである。このお手当て無くして企画は成せない。東京での上映会にも余裕の参加は無理である。

下記に記します

そのようなことを、徒然想うとき、老いてはいても、無理のない範囲でのギリギリ感を、きっと先人たちは生きていた、面白がる術を体得していていたのではないかと、最近は考えている。

命を永らえる食い物と、家族、もの想う自由、健康な体と多少のお金があれば、面白いことは成せる。プラス信のおける仲間がいれば企画も生まれる。

さても、読書の秋である。先の旅、ロンドンは涼しく本を手にするのが喜びであった。岡山に戻って、暑さで集中力が弱まっていたが、このところ一気に本がスムースに読めるのが本当に有難い。アリストテレスが無知の知と(間違っているかも)言っている。知れば知るほど無知なるをしる、私である。以前はその事に茫然自失していたが、齢を重ね厚顔になってきている。

限られた範囲で先ずはしっかり生活しながら、そこから素直に自分と広い世界を(繋がっているのだから)見つめ、折々五十鈴川だよりを打ちたい。

PS 9月11日の長周新聞の書評です。日本列島は水の邦である。あらゆる生命体は水無くして存在出来ない。中部電力の上層部の堕落、命への思慮の思いのなさは、自分の中にも知らず知らずに、、、。その事が恐ろしい。