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2026-09-17

9月17日の爽やかな朝に想う、五十鈴川だより。

起きると、秋を告げる虫の音が我が家の庭できこえる。落ち着いてもの想うのは、私の場合朝しかない。したがってほとんど五十鈴川だよりは朝打っている。喉元過ぎれば暑さ忘るる、正直あの夏の暑さは忘れたい。

今朝はサイコーに静かで穏やかな朝である。今日は所要で仕事はお休み、その分昨日働いた。時間があるので、個人的老人記録、又は自分で自分の気持ちを前向きにするための、お念仏的五十鈴川だよりを、打ちたくなる、74歳の秋を生きる私である。

素直に知ることから始まる

69歳で大きな手術をし、古稀を過ぎてあっという間に丸4年、無常迅速と言う言葉が身に染みる。染みるけれども、染みつつも充実した生活が、何はともあれ個人的には送れている。有難いと思う。(世界の報道には斜めに触れるようにしている)

これが孔子言う所の、足るを知る生活ならば限りなくそれに近い。(かもしれない)。シンプルな生活を61歳から心かけ、お金、グローバル資本主義には惑わされない(普段は生活費のみで暮らす)、消費生活ではなく、理想には遠くとも、鴨長明や、良寛、その他畏敬する先人たちの書物から、学ぶ生活を心かけている。(つもりである)

とは言っても、私はストイックな生活だけを心かけているのではもうとうない。先の12年ぶりのドレスデンへの旅もそうだが、ここぞというときにこそ、お金を使う生活をしているだけである。

あくまで普段の生活での話である。そこかしこに面白い楽しみを見つける(のだ)。臆面もなく打つ。今いちばん苦楽し、面白がっているのは仕事場での草取りである。一昨日午前中かなりの雨の中、カッパ着てやったのだが、炎暑の夏とは異なり、面白いようにはかどった。あの夏を乗り越えたからでの果報である。

数年前までは、どちらかと言えば腰に負担がかかるし苦手な作業であったのだが、音読で鍛えた丹田呼吸を敢えて意識し、尺取り虫スクワットと命名、実践したところ、さほど苦もなく継続できるように、この年齢で成ったのである。体調もキープ出来ている。

このことは私のなかで老いの希望をもたらしている。この体の希望無くしての企画は、私には出来ないのである。8才の孫はボルダリングをやって喜んでいる。お爺の私は草取りや草刈をやって喜んでいる。大差ないのである。あるとすれば私にはいくらかの実入りが、お手当てがもらえることである。このお手当て無くして企画は成せない。東京での上映会にも余裕の参加は無理である。

下記に記します

そのようなことを、徒然想うとき、老いてはいても、無理のない範囲でのギリギリ感を、きっと先人たちは生きていた、面白がる術を体得していていたのではないかと、最近は考えている。

命を永らえる食い物と、家族、もの想う自由、健康な体と多少のお金があれば、面白いことは成せる。プラス信のおける仲間がいれば企画も生まれる。

さても、読書の秋である。先の旅、ロンドンは涼しく本を手にするのが喜びであった。岡山に戻って、暑さで集中力が弱まっていたが、このところ一気に本がスムースに読めるのが本当に有難い。アリストテレスが無知の知と(間違っているかも)言っている。知れば知るほど無知なるをしる、私である。以前はその事に茫然自失していたが、齢を重ね厚顔になってきている。

限られた範囲で先ずはしっかり生活しながら、そこから素直に自分と広い世界を(繋がっているのだから)見つめ、折々五十鈴川だよりを打ちたい。

PS 9月11日の長周新聞の書評です。日本列島は水の邦である。あらゆる生命体は水無くして存在出来ない。中部電力の上層部の堕落、命への思慮の思いのなさは、自分の中にも知らず知らずに、、、。その事が恐ろしい。




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