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2026-10-18

妻不在の週末、家事の合間、未知の国に関する本を読み、想像力を拓き考える五十鈴川だより。

 時折の妻の不在は、私から一切の甘えを許さなくなる。当たり前のことだが、買い物掃除選択、花のケア、生活のすべてを一人でやらねばならない。だから時折の妻の不在は私を嫌でも活性化させる。今朝はいつにもまして早く起きて、普段は妻がやってくれている細々とした雑事を片付け、洗濯機のスイッチを入れた後、五十鈴川だよりに向かっている。(うち終えたら干す)

昨日も打った。だから特段に打つことはないのだが、年齢的に一日一日をきちんと過ごしたいという、老人願望が、(いいことなのかどうなのかと言うことは一先ずおいといて)きっと私をして、五十鈴川だよりに向かわせる。(のだ)

若い頃、演劇を学んだことが大きいのだなあ、と、時おりこの年齢で感じる。演劇の素晴らしさは、根源的にその一回生が全てである。生ではなく、録画や映画は繰り返し視聴が出来る。(もちろんその素晴らしさはある)が、今日という一日は今日だけである。その事を、老いつつ、ますます有難いことだと感じる私がいる。

想像力を鍛えたい

世相や世間のニュース報道などとは無縁の時間を意識的に過ごしている。無関心ではもちろんない、今の報道はあまりにも世界の真実には程遠いと想うからである。もっと言えば、聞こえてこない、見えない、未だ知らない、真実の叫びを伝えている、映画、ルポルタージュ、文学、論考、新聞などなど、を読み、見て過ごしたいのだ。

昨日も、夕刻の散歩以外は、終日部屋で本を読み、合間家事仕事をこなして妻不在の一日を過ごした。無痛、無感覚ではいられない。世界の至るところ特にパレスチナをはじめとする辺境の地で、(打つのがむなしいほどに)理不尽な特に宗教的な大義のもとにに信じられないくらい多くの人びとが、現代ハイテク無人機や弾道ミサイルで殺されている。

このようなことが続いて良いわけがない。それくらいの心情(信条)しか私にはない。一人一人が自分の事として考え、発言行動するしかない。突然の明日は我が身になってしまうくらいの想像力は持ちたいものだ。

夕刻の散歩、空には三日月🌛涼しくなった。行くところは運動公園がほとんどである。せいぜい30分もいない。泰山木の樹の近くのベンチで靴を脱ぎ、裸足で15分くらい歩く。その間二回、鉄棒にぶら下がる。本を読むと背中が丸くなるので、努めて背筋を伸ばす。懸垂も試みる。できなくてもいいのである。ただ意味もなくぶら下がり試みる。

無理はしない。一回の懸垂を続けたいという願望が湧いてくる。裸足散歩は真冬と真夏以外の季節の良いときに、手術以後継続している。他にも書いてはいないが手術以後、ささやかに老いゆく体に負担のない範囲で続けていることがある。健康に老いてゆきたいという願望は、やはり孫の存在が大きい。


昨日上京している妻から、三年生、ノアの運動会の動画が送られてきた。成長してゆく孫たちの姿は、老いてゆく者の眼福である。が、一方では理不尽極まる環境、第三世界という言葉でくくられる世界を、生きている子供たちのことが、時おり脳裏をかすめる。

脳裏をかすめる体が健在である間は、何か企画したい私がいる。絶対矛盾を抱えながら、ウカマウフィルム作品を企画自主上映したい。

PS 右の写真の本、ガブリエル.ガルシア.マルケスの評伝今年出たばかりの本である。元気な間、一冊でも、未知の国の特にラテンアメリカの作家の本を読みたくなったのは、ウカマウフィルム作品の伴走者、太田昌国先生の本を読んだからである。

コロンブスがアメリカ大陸に上陸して後、500数十年の世界の歴史を先生の本でほんのわずか知っただけで慄然とする私がいる。


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