ほぼ毎日のように五十鈴川だよりを打っているが、このようなことは五十鈴川だよりをうちはじめて初めてである。たぶんこの10年間ではじめてのことではないかと想う。きっとウクライナで戦争が勃発しなかったら、打ち続けることはなかったであろう。
あれから、一月以上がたつが陰惨な映像報道が、報じられたりしてまったくめをおおいたくなるほどだが、事実であればこの世の地獄がキーウほかのかの地で展開されていることに、おもいを馳せるときに、私の心は嘘寒く言葉も枯れて沈黙の春とかしてしまう。
今自分が生活している岡山での安穏とした牧歌的陽気の春と、ウクライナの民とのおかれている状況の、あまりもの相違と乖離に、無力感のようなもの、におそわれないといったら嘘になる。そのような感情のうつろいを、どこかに感じながら、しかし私は平和だからこそ企画できる身の上の幸せを想いながら、絶対矛盾的な自分を抱えながら、4月24日に向けて、情熱を注ぎながら静かに動いている。
古希を過ぎ、限りなく死者の視点で生きようとしている私がいる。たぶんこの年齢で意外性と言う他はない企画を発心できたのは、限りない死者たちの不条理極まる理不尽さを抱えながら生きざるを得なかった無数の民の魂、声なき声が、かすかに私の琴線を支えてくれているからだろう。
なにもしなければ、なにか申し訳がたたない、いたたまれないという感情がいかんともしがたく、揺れ動く。このままでいいのかいけないのかと。いたいけな子供の哀しみに、なにもしない、なにもできない自分とは、いったいどういう存在なのかと、問うのである。綺麗事をいっているのではない。善人面をした悪人にだけはなりたくないというおもいがある。なにかよいことをしているといった思いは、私のなかには皆無である。
話を変える。カテリーナさんとのコンタクトがとれず、少々困っていることもあるのだが、私はどこかなるようにしかならないと腹をくくっている。きっとよんどころのない余裕なき日々をおくっているのだと。連絡がつかないのは元気に活動しているからだと想うことにしている。
たぶん、ギリギリ近くなってカテリーナさんから連絡があることを、私は信じている。指切りしたのだから。私は私のやれることをちに足をつけてやるだけである。当日来られ当日お帰りになってもまったく問題ない。できるだけよきコンディションでのチャリティーでの歌と演奏会が能楽堂ホールで実現すれば、とそれだけを私は望んでいる。
ウクライナの民の声に耳を澄ませたい |
それまでは、私も五十鈴川だよりを打ち続けたい。
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