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2022-04-27

これからの人生をいかに生きて企画すればいいのか、今回の企画が教えてくれた朝に想う。

 夜明け前、たぶん五十鈴川だよりを打ちたくなる間は毎回お念仏のように打つだろう。私の大好きなニュートラル時間帯である。五十鈴川だよりを打つ、このわけのわからない自分といううつろいゆく器ととの、自問自答時間がなければ、きっと自分という器は停滞し、自分の言葉らしい表現を見つけることは、叶わない気がする。

40才で中世夢が原で企画者として、なんの実績もなく採用されてからの、この30年の時間の流れのなかで、時代の極端な変化のなかで、溺れそうになりながらも、なんとかギリギリのところで踏ん張って生きてこれたことの、証がこの度の意外性の企画となって実現できたの出はないかと思える。

ことさらな秘密も、能力もない私だが、なにか突然のお告げ感覚、こっちの方にいっては危ないとでも言うしかない、予知能力のような沸き上がるものがからだの中にあるからこそ、今回の企画もそれにしたがったまで、とでも言う他はない。

そして想うのだ。それはけっして私にだけ与えられたものではないという気がするのである。たまたまそういうことなだけである。自分という存在はいったい全体どこからやって来て、どこへ向かうのかという、永遠の哲学的な問いがあるが、小さな器ではあるが、そのことをきっと、答のない問いを、今も五十鈴川だよりを打ちながら、日々ささやかに打ちながら考えてきたからこそが、この度の企画となって顕れたのではないかと、思える。

10年ぶりの企画ではあるが、この10年間の積み重ねの時間があったからこそ、ある日突然企画することができたのだと自分では考えている。オーバーに言えば世の中に出て、この世の中にもまれもまれ半世紀、自問自答をやめなかったからこその果実がなったのかもしれないと、自己満足的に安堵するのである。

古希を迎えてはっきっりと想う。人生は短いのである。そのことを自覚するにしたがってやりたいことが増えてくるような気がするが、慌てても仕方がないのだ。どこか私はなるようにしかならないし、そのなかでの大切な事柄を見失わない範囲で、まずは生きて、生活しながらての届く範囲から沸き上がる思いを込めて、企画をうてれば幸せである。出会えた素敵な仲間と。

妻が飾った拡大チラシ

居場所と、消え入りそうな希望を求めて半世紀、なんとか辛うじて現在を生きてこれ以上は望めない家族に出会えた。きっと無数の死者のお陰なのだと、最近はとみに思え限りなく謙虚な私である。誰かの見えない犠牲の上に己の命があるのだということを、感じる。だからしっかりと生きてなにか希望がわいてくるような企画を、非力にも殊勝に想うのである。

カテリーナさんが歌ったふるさとが、私を呼ぶ。たぶんGWが終わるまで五十鈴川だよりを打つことはないと想う。暫し小さな旅に無性に出たい。可能なら五十鈴川に向かって巡礼の旅を。


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