昨日達筆の筆がきのお手紙をいただいた。ご寄付が同封されていた。どういうお付き合いのかたであるのかは割愛するが、もう何年以上もお会いしていないかたからである。
一言で言えば芸術家、残るお仕事をされておられるかたである。私よりもお若い。私が岡山にやって来てからあれやこれやの企画を、ガンガンやっていたときに、何度も足を運んでくださったかたである。
私がシェイクスピア作品の音読を始め、企画から遠ざかることになって、お会いする回数が途絶えていた。今回の10年ぶりの企画は、すでに何度か打っているが、旧交再開的な意味合いを、結果的に色濃く持つ企画になってしまった、その感慨はおそらく私にしかわかり得ぬものである。
今回の企画は、再会(再開)と新たな出会いを私にもたらす一方で、お別れの意味合いも生じさせた、感がある。それはご病気であるとかいろんな諸事情が、この間の歳月のなかで、嫌でも人生の季節のなかで訪れたがゆえでのことであるからに相違ない。皆歳を重ねる。
風雪はあらゆる人間関係を相対化し、洗い直し非情にも流れ進んでゆく。けっして後戻りはしない。だから、だからこそきちんと日々を大事に送ることの、生活することの大切さを、今さらのように、古希を迎えてわたしは思い知らされている。
今回の突然の企画者復帰は、自分でもどこかあまりにも無謀であるかのようにも思えたのも事実ではあるのだが、言うに言えぬコロナパンデミック渦中での世相の閉塞感が、老いのみを忘れさせるほどに、なにかせずにはいられないほどに、高まっていたのはまず間違いない。
家族のことはおいておくが、私が今回の企画で一番ありがたく、嬉しく感動していることは、かくもこんなに支援してくださる方々が、多くいてくださったのかということへの謙虚な気づきと驚きである。
臆面もなく打つ。わたしは田舎者である(田舎を愛してやまないものである)、田舎の風土が私の感性のほぼすべてを育み、もたらしてくれたのだと痛感する。そしていま深く感謝している。死ぬまでかく在りたいと自負している。要するに田舎の自然への偏愛が私なのである。だから、必然的に育った環境で身に付いた自分らしきものから、限りなく不自由な存在である。だが時代とはずれている私の感性での企画を支援してくださるかたがた、こんなにもいてくださる事実は、私をして限りなく謙虚に希望を育むのだ。。
素晴らしい毛筆のお手紙 |
(多くの今風の都会的な環境に生きていることを由とするかのような、アスファルト洗練民族、白色蛍光灯民族とは肌が合わないのである。わたしは闇の静けさをこよなく愛する。だからわたしは都会を離れ、限りなく闇の濃い田舎的鬱蒼とした森などのある場所へと、老いる度に回帰するのである)
田舎者的な感性(それが私の宝である)の持ち主である私の企画をこんなにも応援してくださるかたがいる事実は重く嬉しい。ウクライナの音楽家の企画であったことが、こうも熱い反応になったのだとは思うけれど、私のなかの田舎的感性が企画へと導いたのだ。ウクライナに私はどこか懐かしい田舎の風景を感じる。
ともあれ、思考がまとまらないが、今回の古希再出発企画は、これまでの30年間、ささやかに積みあげてきたことが発酵して企画となって結実したことは、間違いない。
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