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2022-04-29

GW、限りなく静かに青空の下、菜園場で土と戯れて過ごす。

 小さな旅をGWの後半に変更したので、五十鈴川だよりが打てる。ありがたき朝を迎える喜びの感覚は、きっと体が健康だからである、と思う。そのからだの中のどこかにあるのであろう心が、私に五十鈴川だよりを打たせる。

さて、チャリティ演奏会の翌日から私は肉体労働のアルバイトに復帰している。体を動かすことで、おりのようにたまった心地よい疲れを、青空のしたで天に感謝しながら癒しているのである。体が動き、意識が動かないと企画はできないので、体を動かしお腹を空かせて、ハングリーな状態で頭を空っぽにして。

妻が活けた我が家のバラ

世の中GWだが、私自身は今のところどこへも出掛ける気にもならないし、チャリティ演奏会でお世話になった方々にお礼状を書いたり、細々とした生活雑事、普段なかなかやれないことをやろうと考えている。とにかくこの2ヶ月、チャリティ演奏会にかかりきりだったので、いつも通りの普段の生活のリズムを取り戻すべく静かにすごしたいのだ。(ウクライナのことを心のどこかに留め置きつつ)

昨日午後仕事を終え、アルバイト先の菜園場が、草ぼうぼうになっていたので雑草とりをしたのだが、今日は堆肥を撒いたりして後、ミニの耕運機で撹拌したりして、トマト等の野菜を植える準備を午前中はやろうと思っている。午後は少し休んでお礼状を、万年筆で一筆いれて書く。昨日までに20通投函したので、今日明日で目処がたつ予定だ。

今時、万年筆で文字を書く人は少ないと思うが、私は万年筆をこよなく愛する。タブレットで五十鈴川だよりを打つことは常態化したが、やはり万年筆で書くということも大切にしたいのだ。手間隙をかける楽しみを、へそ曲がりの私は肉体労働をすることで学んだからである。

楽あれば苦あり、である。手間隙をかけない生活の危うさを、どこかで私は戒めたいのだ。昔は、若いときは怠惰で、根気のいることが限りなく苦手であったのだが、青春時代の最後を足掛け3年を過ごした富良野での体験が根底から私を変えたと思う。本質的なものはそうは易々とは変わらないが、中世夢が原での22年、リタイア後のこの10年で、少しずつ少しずつ根気強くなってきたように思える。

その経験上、一番根気がいる雑草とり(腰が痛くなる)は今だ私を鍛える。だが、土の香りは私を無心状態へと導いてくれ。草と戯るかのように、尺取り虫のように腰を時おり伸ばしながら持続する。その事の喜びをつかんだ感覚は、体得したものだけが知りうる世界とでも言うしかない。全く企画にも通じる世界なのである。

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