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2022-04-19

今回の10年ぶりの企画は、これからいかにいきてゆくべきかを、私自身に問いかける。

 小さきは・小さきままに花を持つ・庭の小草の静けさを見よ。亡き父が好んだ歌だが、この季節になるとよく思い出すし、この数年のコロナ渦中、閉塞感渦中、そしてニュースのかなりがウクライナの報道で加熱する今、平衡感覚を持続し失いたくはないという、アンチ感覚も働きながら、今現在ウクライナで起こっていることの、全体を身体的に把握するのは、私には無理である。どうしても悲惨さの一方的な報道に終始してしまう。その事に関しての一抹の不安もまた、どこか私のなかにあるということもまた、誤解を恐れずに打っておきたい。

ただ私はどちらがどうのという戦争の大義そのものが、まったく信じられない。困窮におかれる側、極めて普通の私のような大多数の民の側から、理不尽極まる殺戮暴力にたいして、嫌だと声をあげ続けている、初老男というにすぎない。深い論考や大所高所にたって発言しているのではまったくない。

ウクライナの絵本、素晴らしい

まだ言葉や考えを持てない子供や、ご病気の方や、お年寄りや、あまたの弱者の側からの、極めて普通感覚の、常識的発言を打ち続けているだけである。このような非常時戦争報道がが2ヶ月ちかくも続くと、感覚が麻痺してしまうのが、やはり一番恐ろしい。だから麻痺しないように心かけている。そのための方法は打たない。自分のなかで静かに行えればいいことだからである。

これはあくまで自分の問題なのであるから、もうこのことに関しては努めて打たないことにするが、弱者の、罪もなく不条理に命を奪われる人々の声を、五十鈴川だよりを打ち続けられる間は忘れたくははない。

そして、その事に関してささやかに、世界の痛みに関してどこかで共感力を失っていない感性感覚を持続している方々と、どこかで繋がりあえたら、と想うのである。自分がされたら嫌なことは他者にはしないという、ただそれだけという単純極まる思考の持ち主の私だが、世の中はまったくそのような常識感覚が通じない方向へと、いつのまにか流れていってしまっているのでは、ないかと単細胞初老凡人は危惧するのである。

炭鉱のカナリアという言葉がある。知らず知らずのうちに危機を危機と感じられなくなるのがいちばんの危機ではないかと、私などは想うのだが、いかがであろうか。子供の声が、笑顔が、お年寄りの居場所があるような、けっして物質的には豊かでも華美でもなく、なにか平凡さのなかに愛が満たされているような国に私は棲みたい。

そういう意味では、我が国はだんだんと住みにくい。もっと言えばあまり住んでも楽しくははないような国になりつつあるように私には思えるのだが、いかがであろうか。私は今回の10年ぶりのウクライナ人、カテリーナさんの歌と演奏会を企画してゆくなかで、いよいよこれからの私の老いゆく時間を、いかに生きてゆけばいいのか、私自身にといかけている。

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