こういうところにも、古希を過ぎた自分がいるなあとは思い始めている。つまり無理をしなくなっている自分がいる。これが若さと老いの違いなのだろう。妻や娘のいうことを、きちんと聞いて受け入れる自分が、育ってきているというとおかしいが、山を登っているのではなく、下ってゆく感覚、摂理を受け入れながら、その下山時間に見えてくるいまをこそ、生きている、大事にしたいとの思いの深まりである。
義理の息子S平さんが作った |
冷静になって考える。古希でこのような企画を、まして10年ぶりなのに、発心するとは自分でも思いもしなかった。自分でも自分の内的発動の根拠はあいまいで、うまく言葉かできないのだが、何か老いゆく自分のなかに、我が儘な情熱とでも呼ぶしかないものがいまだ蠢いているとでもいうしかない。
一日一日を限りなく人に迷惑をかけず、我が儘に生きてゆく、気持ちよく老いてゆく方法のようなものを、どこか前向きに見つけたいという、老いの足掻きのようなものが、私をして突き動かしているのは、まず間違いない。
還暦を過ぎてからは、限りなく我が儘に自在に、手の届く範囲での生活最優先で生きていた。この先企画するなどということはもうないだろうと思っていた。
静かに、しかしどこか熱く移ろいゆく日本語音読生活に耽りながら生活していたのだが、コロナパンデミック渦中に起きた、魑魅魍魎リアルとバーチャルが混在するまさに今現在進行中の、ウクライナの大地での戦争は、いまを生きる私の現在を、ざわつかせ老いを忘れさせずにはおかない。悪夢のような人類の未来を嫌でも想像してしまうのだ。大義だなんだの理屈はいいから殺戮地獄から目をそらさず、人道的におかしいことはおかしいという、当たり前な感覚での発言をあげる人たちと、私は繋がり連帯したい、と切に念う。
ざわつく間は、なにかアクションを起こし、日々なにがしかを打ち続け、思考の停滞を防ぐためにも、企画者は謙虚であらねばと自戒する。雨音に耳を済ませ、3000キロ先の大地の邦、ウクライナの大地の上でのおぞましき現実を想像するのである。
夜の闇は、初老男の心を鎮め、つたなくはあっても小さき声をあげ続けさせる。
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