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2022-04-28

限りなくシンプルに思考し、老いてジャンプする企画を打ちたく修行したい、と思う朝。

咲き始めた我が家のつるバラ

 予定変更、小さな旅に出るのを少し延ばした。今回の企画でお世話になった方々にお礼のお手紙をだすのは、身も心も休めてからにしようと想ったのだが、すこしでも早いうちに出しておかねばならないということで延ばすことにしたのである。

特に古い友人知人は、東京や遠方に住んでいて、今回の企画を観ることも聴くことも叶わなかったし、その方々の素早い支援が、どれ程私に勇気を与えてくれたことか計り知れない。そしてそれは、これから先何回企画することになるのかは分からないが、なにか次も企画することができる、という確信を私のなかに与えている。

それは今回の企画を支えてくれた、裏方スタッフにも言える。これほど無私で利害関係なくその上楽しんでくれるスタッフの存在があれば、なにがしかの楽しくて、意義のある企画が打てるという確信のようなものが私のなかに、生まれてきたのである。

中世夢が原で企画していたように、最低年に一二度、大小の企画が、私が健康で五十鈴川だよりを打てる間はやれるという確信が、生まれてきている。年齢的に引っ込んではいられないほどの、危機感のようなものが、今だ私のなかに消えずに激しく存在しているからである。

カテリーナさん、マリアさんの歌声は、私のなかの老いゆく血を、まだまだ老け込んではいけないと叱咤激励してくれたし、ウクライナが生んだシェフチェンコの詩は、私を鼓舞する。国籍を問わず、人の命を踏みにじってやまない権力者の横暴無慈悲な行為に対して、ノーの声をあげ続けるささやかな企画者で在りたいと強く想うのである。

なにしろもう充分に生きて。社会的な親としての責任を果たすことがことができた、老いゆく企画者なのであるから、もうなにも怖いものはないのである。もっと打てば、なにも声を挙げない自分が怖いのである。笑い声のない、笑顔のない生活、ユーモアもない暮らしなんて、私はごめんである。

五十鈴川だよりを打ちはじめて、丸10年、ささやかという日本語を、いったいどれ程打ったことだろう。人間は喰って寝るところと大切な存在さえあれば、充分に生きてゆくことができるのである。身の丈の合わない生活や、自分自身の欲望に負けなければ。他者を思いやる余裕がどこかにあれば。余裕のあるものは、余裕のないものに対して責任がある、と考えるのが私の考える民主主義である。暴力をもってなにかを守ろうとするのは、本末転倒、やがて暴力で滅ぼされるというのが常である。

大事なものを見失って、もうなにがなんだかわからないような時代状況のなかで、突然起きて今だ続いているウクライナでの目をおおう惨状は、限りなく平凡で一日をなんの不安もなく過ごせることの在りがたさを私に知らしめる。

一年前の3回の手術から生還した私は、以前にもまして、シンプルこの上ない身軽な生活を心がけている。老いた身の上、身軽でないと時おりジャンプする企画など打てるはずがない、のだ。


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