五十鈴川だよりを打ち続ける朝が来た。恐らく演奏会が終わるまでは打ち続ける気がしている。おまじない、気付け薬なのであるから。病は気からなどというが、肉親が殺されたり、子供や、親、大切な人を失ったとしたら、果たして自分は、と考えると、とてもではないが、気の弱い私などは、きっと立ち直れないだろう。
そのようなことに想いを馳せると、現在の我が身の幸せは、どなたかの苦しみの上に在るのではとの想いにふとかられて、粛然たるたる想いに沈んでしまったりする,のだ。世界の混沌とカオスかは、私などの凡ぷの頭では到底理解できないほどに進み、善悪の境界がこれほどまでに曖昧模糊としてきた時代の渦中をまさに生きていると言う苦い認識である。
だが、まさに人生は綺麗事ではすまない、糾える縄、いつなんどき幸福などと言う幻想が裏返って、しまうかは誰にもわからない、まさにそのような時代を地球規模の手に余る感覚で持って、多くの人間が(私もその中の一人)どこかに漠たる不安を抱えて生きて行かざるをえないのかもしれない。
愛用しているパーカーのインク |
どこか、何時なんどき、何が起きても、可能な限り動じないですむような、いわば訓練のような日々を、特に足腰の弱っている私のような老人は、考えて普段から実践しておかないと、やはり不味いと想う。悲しいかな大人になったら、命は自分で守らないと誰も守ってはくれないのだと、平和なうちに自戒する生き方をすべきだとわたしは考えている。
マクベスの魔女は予言する。いいは悪いで、悪いはいい、と。よきことと悪いことは繋がっていて、交互にやって来る真実さから目をそらすべきではない。普段から自分の身体での思考訓練をすべきだと、これは自分に言い聞かせているのである。
でないと私のような付和雷同お調子者は、いざとなると危ないと言う自覚がかすかにあるのである。生きてゆくことは安易な綺麗事ではすまないのである。だが、だからこそ、ヒトはまた美しいものを求める、幻想を生きる絶対矛盾的存在なのだという認識をわたしは持つ。
畏敬する中村哲先生は、人間は信ずるにたるとおっしゃっている。爪の垢でもその言葉の側にすみたいというのが、今の私の思いである。朝から思いもかけぬ、ちょっと真面目な五十鈴川だよりになってしまった。話を変える。
早ければ、今日チラシが、遅くとも明日にはチラシが届く、企画復帰からわずか3周間で。カテリーナさんの交渉から、チラシ完成までが出来るとは。明日から老人はチラシ配布に動き回るのである。1500枚。時間がないので今まででもっとも枚数が少ない。
120席を埋めるための、1500枚のチラシ。目に見えない遠くの広大な大地の上に暮らす人々の困窮を想像し、動くしかない。チラシ配布行脚、ウクライナをはじめとする世界の多くの邦で起こっている出来事に関心を持っている人に出会うための、チラシ配布行脚である。
ガンジーは非暴力を唱え、布一枚で歩いた。爪の垢でもあやかりたい、のである。
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