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2022-03-16

予断を許さないウクライナ情勢に思いを馳せ思考する今朝の五十鈴川だより。

 昨夜NHKのクローズアップげんだいをみて、あまりの痛ましさに言葉がなくなってしまった。まさにこの世の地獄が、ウクライナでは起きている現実がにわかには信じられない、末恐ろしいという他に私には言葉がない。

日本で暮らしている私たちには、あまりにも皮膚感覚として痛みの伴わない、感覚ではあるにもせよ。ともかく、今の私は言葉よりも行動アクションを起こすことが何よりも大事である。私自身のなかでは、対岸の火事的感覚、無関心は罪悪感のようにさえ思える。

だが、人の心は千差万別なのだから、にたような思いの方々と繋がりながら、各々が考えながら、多種多様な、紋切り型ではなく、これまでとは異なるデジタルウエイブ、アナログウエイブの入り交じった、新しい波を各世代で起こして繋がりたいと、私は願う。

もう私などは十分に生きたのだから、アクションは若いかたにお任せしたいのだが、そうもいっていられないほどに、事態がとんでもない方向にゆかないように、こうやって老いの五十鈴川だよりを打たざるをえないのである。

ウクライナの命を懸けた人々の発言を映像で耳にすると、粛然とした気持ちになる。命を懸けて守るべき何が自分の中にあるのかと、嫌でも問いたださざるを得なくなるのである。なぜ緊急支援ライブをやるのだろう。

今朝の我が家の庭のちんちょうげ

音楽の力、芸術の力を信じるものとしては、なんとしてもカテリーナさんの歌声を岡山の地に響かせたいのである。人は、少なくとも私は最後の断末魔では祈るしかないのだ。その前にアクションを。銃などでは絶対に平和にはならない。報復の連鎖、憎悪の連鎖怨念が深まり続くだけである。

畏敬する中村哲先生は、丸腰素手の平和を、用水路を建設しながら終始一貫唱えられていたが、私などは爪の垢でも学んで、地べたを這いずり回って心のなかでつながる、文化的用水路を作りたく、夢想する。

中村先生は、アフガニスタンの過酷極まる大地の上から人類の未来を絶えず憂いておられたが、最後まで人間の善性を信じておられた。私もかくありたいと、かく学びたいとおもうのである。都市の豊かで快適な環境で思考するのではなく、過酷な辺境の大地の上で発言し続けた中村先生の言葉は、私の心の奥深くに届く。

このデジタル時代、ティケットを一枚一枚手から手に手渡しで売るなんて、時代錯誤も甚だしいのは、重々承知しているが、入場者120人の今回の企画。できれば直接お顔と会いたいし、少年時代の面影に帰り行商したいと老いのみが騒ぐのである。

そのきっかけとなる出来事が、昨日午前中バイト先で起こった。一人の異なるエリアで働くKさんにお声かけしたら、その場でティケットを買うとおっしゃったのである。そこで私は考えた。義理の息子が作ってくれた旧遊声塾の名刺がたくさんあったので、前売りティケットにすることにしたのである。

デジタルの申し込みであれ、手売りであれ🆗👌、これこそが多様性ではないか。まだまだ4月24日まで時間はある。一日一枚売れたとしてもかなりの枚数である。ご連絡くださればお届けに上がります、ってな調子で、格差や分断紋切り型思考に一滴を投じたいのである。

深刻な時にこそ、ユーモアを。ウクライナでは非常事態の戦禍のなか、キエフの路上で音楽家有志があつまり演奏していた。日本の心ある音楽家もこの際ギャラなしでも、アクションを起こしてほしいと願っている(すでにアクションを起こしているかたもいるとはおもうが、ほとんどはリモート、デジタル)

生身の人間の体よ、どこにいったと私などはどこかしら憂愁の念にとらわれるのである。体をはって行動した、中村哲先生から学ながら蟻のように動いて、思考したい。

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