死んでいたかのようなからだが、朝になるとまるで生き返ったかのように、五十鈴川だよりを打ちたくなる、いや打たざる終えないのだ。精神のバランスを保つために打ちつつ文字化して考えないと、私の場合はダメなのである。ともあれ、からだが五十鈴川だよりを打ちたくなるあいだは、何がしかのアクションを仲間と共にとの思いが日々深まっている。
昨日嬉しいお電話をいただいた。異なるエリアで働いているKさんからティケット5枚申し込みのお電話だった。一昨日お声かけをしたばかりなのに、なんと素早い反応と、正直驚いた。演奏会までまだ一月以上、チラシもできていない。カンパ(ご招待)予約ですでに20枚、残りは100席である。カンパ呼び掛けお便りを昨日までに30通以上投函したので、22日までに何らかの反応がいただけると勘案すると、個人的な繋がりだけで50枚はさばける手応えをかんじている。
これで、3月末にチラシができ、RSK(ラジオの出演が決まっている、近づいたらお知らせします)とうのメディアで報じられたら、おもいのほかに急な支援演奏会120席は埋まるのではないかとの気がいまのところしてきたのだが、何はともあれ健康に気を引き締めながら、一歩ずつ確実に実現に向けて動くつもりである。
先生の言葉に勇気をいただく |
一庶民の、岡山県人の一人として、または一人の人間として、戦争という人間を狂気の淵に叩き込んでしまう暴挙にはなんとしてもNO・戦争。戦争に勝者なしの側に私は立つ。。
私はできるだけ悲惨な映像は見ないようにしているが、実際はお茶の間には流せないような映像が、現実が展開されているのに違いない。私が願うのは、ことウクライナに限らず理不尽不条理が嫌でも弱者に及ぶ、野蛮という他にはない人間の蛮行には、いかなる理由があろうとも、理屈なく反対する。
自分の子供に危険が迫ったら、親は本能的に子供を守るはずである。おなかがすいたら辛いはずである。その程度の想像力でただアクションを起こしているだけなのである。深い大義や理由などどこにもない。嫌な感じは嫌なのである。そのようないわば普通の感覚をお持ちのかたと連帯したいだけなのである。
同じ惑星に生を受けたものとして、仲良くはできなくても、それぞれの存在の居場所でつつましく楽しく暮らすべきだと私などは考える。ゆめゆめ他者の居場所を卑怯極まるおぞましき兵器など使って蹂躙する権利は、神にも仏にも誰にもない。
戦火がやむまで念仏のように五十鈴川だよりを打つ他、いまのところ私には方法がない。世界の片隅から、蟻の穴からでて、老いつつも力を振り絞らなくては、権力者の横暴はやまない。
声を挙げられるときにあげておかないと。私はあのとき、と後悔だけはしたくない。
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