桜の満開情報が耳に入ってくるが、このような浮かぬ春は恐らくが人生ではじめてであることは、先の五十鈴川だよりで打った気がするが、お花見気分になれない私である。
だから正直、五十鈴川だよりを打つ気にもならないときもあるのだが、そのようなことは停戦条約が何らかの形で結ばれるまでは、何としてでも打ち続けたいと言う訳のわからぬ思いが、日に日にどこか老いゆく体にさからってゆくかのような案配なのである。不思議である。
話を変える。昨日夕方4時山陽新聞の文化部の女性記者のかたが、4月24日のカテリーナさんの音楽会の件でわが家まで取材に来られた。当初一時間もお話が出来ればと思っていたが、なんと2時間ちかくも話を聞いてくださった。有り難かった。
ギニアで求めたお面 |
よもやまさか古希を迎えた私がウクライナの音楽家を招くチャリティー音楽会を企画することになろうとは、戦争が勃発した2月24日の時点では思いもしなかった。全くもって人生先のことは分からず、予断を許さず流れてゆく。と、ここまで打って感傷に浸っている場合ではないとのうちなる声が、聞こえてくる。
話を変える。取材を受けている最中に2件のお電話があった。いずれもありがたいお電話で、わけても嬉しかったのは、鹿児島県の三島村役場に勤めるS氏からのお電話だった。氏との関係は長くなるので割愛するが、1996年ともに西アフリカギニアを旅して以来のお付き合いである。
長いことお会いしていない。にもかかわらずこの度の私の10年ぶりの企画に、カンパを寄せてくださった心優しき九州男児である。驚いたし嬉しかった。意味なく声が聞きたくなってと氏は言った。鹿児島弁の懐かしい氏の声が私の耳に響いた。あいにく長電話が出来なかったが、このような企画を始めなかったら、またしばらく氏の声を聴く機会もなかったかもしれない。
皮肉極まることだが、ウクライナの惨禍が起きなければ、企画をすることもなかったし、氏と言葉を交わすこともなかったかもしれないのである。今回の企画は、思わぬ旧交復活、再開の恵みの時を私にもたらしてくれている。このような得難い仲間20人近い友人が、今回の私の企画を支えてくれているのだと、声を聞いて古希男はえもいわれぬ気持ちになった。
お金お金の世の中、その事の大事は十分に承知しているつもりだが、心だけはお金ののために売り渡したくはないとの、へそ曲がりにも似た痩せ我慢人生を、歩んできての古希男なので、出来ればこのまま痩せ我慢人生を全うしたい私である。
だが、言うは易し、このような仲間がいなければ、一人音読は出来ても、企画は絶対的に出来ない。企画とは繰り返し打つ。出会いの宝なのである。私よりずっと若い女性記者とも企画しなければ、世代間交流のような取材もなし得なかったに違いない。4月24日のカテリーナさんの音楽会まで、一月を切ったが、日々なにがしかの小さな出会い、小さな出来事が私に元気をもたらしてくれている。縁を大事に実りのあるウクライナ企画にしたい。なんとしてもことさらな意味はなく、静かにイベント当日まで微力を続けたい私である。
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