古希を迎えたばかりの私が、一年前は退院したばかりで、よたよたしていたのに.。一年後の今、自分でも信じられないほどに体が、意識が動いている。なぜなのかは自分でもわからない。わかっていることは、どこかで死の側に逝きかけて、この世に生還してきたからではないかという気がしている。
だがいずれにせよ私には自己分析の趣味はない。己のからだのうちなる声をきいて、気分のよくなることしかできるだけやらないと、還暦を機にきめたのだが、古希を迎えることができてから、その思いはますます強固に深まっているかのような案配を生きている。
今時、古希を迎えた男が、手に演奏会のチラシをもって、飛び込みで営業をするかのように配布するなどということは、どこか徘徊老人と間違えかねないほどの、虚実皮膜の間をたゆたっているかのような、白昼夢を歩いているかのような、見ているかのような気もどこかでする。
はるうらら、あまりにもの穏やかさの桜が満開のもと、老人がチラシ配布に歩いている姿は、何処かしら滑稽で、なんとも形容しがたいほどの、ウクライナの無惨というしかない瓦礫の戦争の実態とはあまりにかけ離れていて、両極の現実との余りの乖離にくらくらしてしまう。
道が混む前に切り上げ、家路を急いでいると電話がなった。コンビニに車をとめ電話に出る。熊山町の山間で静かに暮らす、一言で言えば芸術家と私が認めるSさんからだった。チラシが届いたことにたいしての、詳細は割愛するが、熱いエールであった。
このような熱いリスポンスをいただくと、本当に疲れが吹っ飛ぶ。アクションに対するリアクション。いざというときの思わぬ意外性とでもいうしかない反応に、その人のこれまでの人生の過ぎし来仕方が顕現する。
読みたくなる書評 |
Sさんはまれにみるというか、まさに芸術家といえる純粋な魂の持ち主である。一言では言えない残ってゆくお仕事をされている。詳細は割愛するが、ウクライナの教会に頼まれたイコンの制作に取り組んでいて、カテリーナさんのことを即調べ反応し、お電話くださったのである。
私のような俗物とは異なる世界に棲んでおられる方なのだが、いざというときには、即行動のできる、グローバルな感性と視野をお持ちの、私にとっては大切な岡山在住の方なのである。このような方が私のやっていることを応援してくださるのは誠にもって嬉しいのである。
24日、外せない教室の日なのだが、なんとか行けるように生徒さんと相談するとまでおっしゃってくださった。万が一行けなくてもカンパ他何らかのことで協力するとまで。電話を終え私の心は嬉しく幸せな気分になった。企画することで深まる関係性、意外性。
チラシが完成して一週間もたたないのに、すでに800枚も郵送したり、直接手渡し配布ができた。体がやろうと動けば、古希だろうが、何歳だろうがやれるのである。
その事のありがたさを、私は噛み締めている。たぶん私の意識はすでに半分はあの世にいっていて、多分半分がこの世にいるのではないかという気がしている。