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2025-08-31

稲城、長女家族の住むマンション、レイさんの部屋で打つ、寸暇、7回目の五十鈴川だより。

 昨日早めのお昼、周さんが作ってくれたチャーハンで済ませて、午後一時前稲城に男5人が集まった。少しやすんで、タクシーで府中にある市営プールまでタクシーで移動、乗りきれない人数なので、なんとあの暑さのなかを、レイさんは自転車で往復した。

レイさんの部屋に飾ってあった、

簡略に記しておく。午後3時から午後4時半まで、市営プールで過ごした。滑り台が2種類、流れるプール、泳ぐ専用プールが備えられていて、幼児から私のような高齢者まで、家族ずれで大にぎわいのなか、我々も大いに楽しむことができた。当初、私は泳ぐつもりはなかったのだが、レイさんが水着を貸してくれたので、急遽参加したのだが、老若男女が楽しそうに水に浸かっているのを見ているうちに、急に現在どれくらい泳げるか、現在の体力測定を兼ねて泳いでみた。

結果、25メートルを、休み休み平泳ぎ、クロールで10回位を泳ぐことができた。そして思ったことは、やはり泳げる間は、ほんのちょっとではあれ、泳ごうという当たり前のことであった。私が泳いでいる姿を、孫たちの記憶にも残したい、という気持ちもわいてきた。

これからは妻と共に、月に数回泳ぐこともあり、そんな手応えを、私は孫たちとの夏休みの終わりの土曜日のプール体験で得ることとなった。午後5時、再びタクシーで稲城へ。

午後6時、夕飯はれいさんが焼いた特性ピザを、葉、望晃、周さん、レイさん、私の5人で、最高の気分でいただいた。たっぷり頂き、レイさんがチェコのビールとハイボールを用意していてくれたのを頂いた。250メートル泳いだ疲れが、一気に出てきた。

それを感じたレイさんが、部屋の一隅を仕切り、あっという間にベッドを拵えてくれ、お父さんは休んだほうがいいという言葉に甘え、午後8時にもならないうちに私はその言葉に甘え、横になった。

夜中起きたらまだ3時、少し持参した3冊目の本を5時まで読み、再び寝て起きたら7時。ベッドをたたみ、しばらくすると起きてきたレイさんが、あっという間にこれまた手際よく、子供も大人も喜ぶクレープを作って朝食、皆揃って美味しく頂き、朝食後五十鈴川だよりを打っているという次第。

その朝食の時、ママが恋しい葉が少しグズっていたのだが、整然と論理的に、ノアがさすが2年生説得力をもってお兄さんしていたのが、とても私を驚かせた。成長を目撃できたこと、幸せであった。レイさんがグランベリーの干したのを葉に持たせると、あら不思議、葉はいきなり手を突っ込んで食べ、すっかりご機嫌に変身した。

この間の一部始終を静かに目撃していた私は、突然家族の素晴らしさに、じんわり感動した。長女が結婚し、あれから10年の歳月の後、いま私は4人の孫に恵まれている。彼らのいない生活は私には想像だにできない。これから10年後私は存在していないかもしれない。でもいいのである。孫たち4人がひょっとしたら五十鈴川だよりを読んでくれるかもしれない、なんて想像すると、五十鈴川だよりをうちたくなるのである。これから、近所の里山散策に出掛けるので、今朝はこれにて。

PS 今朝の写真は昨年春、千葉のマザー牧場に行ったときにレイさんが撮った写真です。

2025-08-30

土曜日、次女のマンションで打つ6回目の五十鈴川だより。

 今日はこれから長女家族の住む稲城に男だけ出掛け、男たちですごし、長女が娘の未彩を連れて、下連雀にきて、女性たちだけで過ごす予定になっている。私は男なので稲城にお供する。親子でプールにゆく予定なのは知っているが、私はプールには行かないで、家で留守番をしていたいと、考えている。

風香をあやす4歳の葉


さて、昨日は吉祥寺で、気のおけない仲間と、私が40年前妻と出逢った通称ハモニカ横丁にある東南アジア系の人達が働く、狭い居酒屋で、4月30日の打ち上げ以来、お酒を飲んだ。

(妻と出逢ったエリアは当たり前、全く別世界的な変貌を見せていたが、面影がそこかしこに残っていて、私を40年前にワープさせるに十分で、そのことがきっと私を昔へと回帰させ、しばし年齢を忘れて饒舌になったのは間違いない。

その横丁は今や多国籍人が、闊歩、人種の坩堝と化しかして、一日の終わりに乾杯していた。私は込み合う雑踏で、皆がトンスナショナルににこやかに過ごしているのをある種の感慨をもってって眺めた。これから40年後はいかなる風景になっているのだろう)

私より一回りしたのYさん、Yさんよりちょっとだけ歳上の、女性ふたり、計4名、午後6時半に駅で落合、その後10時近くまでの時間を、愉快にすごしたことを、五十鈴川だよりに短く打っておく。

アルコールと、幾ばくかは世代が近い気安さから、ずいぶん昔の思い出などが、つぎつぎと思い出され、しばし熱い記憶の流出に年齢を忘れてしまうほどであった。愉快な時間はあっという間に過ぎる。このような機会が持てたことは、やはりスパイラルアームズを企画したからこそ、もたらされたのだと、あらためてYさん、Mさんとの、すれすれのご縁を思った。

Yさんの面白い経歴(若き日一年間ブラジルにりゅうがくしている)繊細な優しさ、かつ豪放磊落な一面もあらためて知ることができた。そのYさんのお話し聞き上手に甘えて、結果、かなりきわどい今現在の私のおもいが、本音が発露されたのは間違いない。

ブログを打つことで、かなり内省的な時間を過ごすことができ、揺れる内面の整理ができるし、気のおけない仲間に話を聞いてもらうことの有りがたさ(わがままを)が染みた一夜となった。

ささやかな宴をおえ、吉祥寺から歩いて帰っていると鈴虫の鳴き声が聴こえてきた。ジブリ美術館の近くでバスが来たのでバスに乗った。マンションに着いても眠る気がしなかったので、エントランスで、数十分酔いをさまし、11時過ぎ部屋に戻ったら周さんがまだ起きて、ストレッチをやっていた。その姿を目にとめ横になって、私も睡魔が来るまで静かにささやかな我流の老人腹筋をやってめを閉じた。

2025-08-29

金曜日、下連雀の次女の住むマンションの図書館で打つ5回目の五十鈴川だより。

 もう5泊を娘のところですごし、まるでルーティンのように朝の次女家族の、お手伝いを済ませ、しばし自由時間、一人時間の居場所、図書館で五十鈴川だよりを打つ。

マンションの入口に聳えるヒマラヤ杉

記録として、この5日間、どのようなお手伝いをしたのかを、思い出すまま時系列で打っておく。細かいことは省く、朝食の準備、あさのお掃除、洗濯物をたたむ、洗濯物を干す、ゴミだし(細かく分類して、指示された場所にきちんとだす)買い物(娘のメモにしたがって片道500メートルくらいのところにある地元のスーパー稲城屋まで)昼食のお手伝い(お昼を2回自分で作った)、夕食のお手伝い、(夕食は娘が作る)後片付け、お風呂洗い、午後4時前、葉の保育園にお迎え、などなど。まあ、このようなお手伝いをしている。

夜は葉と同じくらいに早く休んでいるので、8時間は寝ている。そのせいなのだと想うが、すこぶる心身の体調が昨日辺りからがぜんよくなってきている。一昨日も打ったかもしれないが、この3ヶ月にも及ぶ酷暑の疲れが、元気ではあれ、73歳の体の累積疲労が抜け、別の場所、居心地のいい空間で癒されているのが覚る。

さて、今夜は私を含め、男二人、女性二人の4人が集い、会食することになっている。私の上京を機に、わざわざ会いに来てくださる稀なひとたちである。メンバーのいちいちについては省く。私にとっては大切な得難い面々である。(わたしの企画したイベントに参加してくださり、以来関係性が続いている方々ばかりである。日常的な交遊はほとんどない)

前回も少し触れたが、人生の晩節を付かず離れず、しかも気持ちよく共有できる仲間が、私には存在している。私が年齢を省みず、我が儘に突き進むちょっと集客が難しく、制作費が足りないとき、私のカンパの依頼に、気持ちよく応じてくださるまれな方たちばかりである。特に今年の春に企画したスパイラルアームズの企画では、正直想像を越えた応援が寄せられ、その事に助けられ、無事にあのライブを終えられたことへの感謝は、いまも例えようもない。

そのように粋な、もの好きとでもいうしかない面々のお陰で、私はかろうじて(臆面もなく打つが)今を元気に活き長らえているのだ。だがその元気に振る舞える体も、そうはいつまでもは無理である。だからといって体がやれる、やりたいという間は、よしんば実現は不可能でも不断の夢を育む努力だけは持続しないと、そうは簡単には夢の神は降臨しないのである。

40歳から突然企画することの醍醐味に目覚めた私は、途中シェイクスピアの音読に夢中になり、10年近く中断した後、再び70歳から企画を再開したのだが、毎回これが最後という気持ちで、かろうじてギリギリ、企画がやれている。(応援団がいるからこそやれているだけなのである)

なぜ、高齢者になっても企画するのかのエネルギーはどこからわいてくるのかは、私にもよくはわからないが、つまりは、まだ生きて元気であるからにちがいない、と考えている。理屈はどうでもいいのである。やれるうちに、やれる仲間と、というくらいの軽いのりである。芭蕉は夢は枯れ野を駆け巡る、と詠っているが、外見は枯れていても、内側には未だほんのりと燠びが残っている。(のだ)当たり前のことだが、この世に生を受けたからには、死は平等に訪れる。

ならば、どのように一日を生きるのか、生後一月にも満たない風香のしぐさ、寝姿をこの5日間毎日眺めながら、老人である私は考える。

2025-08-28

次女のマンションの図書館で打つ4日目の五十鈴川だより、【今を想う】

 昨日3日目を過ぎた辺りから、次女のところでの、いわば助っ人老人生活も幾ばくかは慣れつつある。が、慣れてはきても、基本的に私には都会生活は、全くダメである。この事について書くのは、五十鈴川だよりでは無理なのだが、やはり生まれ落ちた場所が、まったくの田舎の田園地帯のなかの、回りには他に建物がない家だった、その記憶のなかの原風景が絶対的に大きく作用している(と思う)。

次女の住むマンションの図書館で打つ五十鈴川だより


その事は、年を重ねるにしたがって、ますます自分のなかで大きくなってきているのを自覚している。おそらく次女の助っ人でなければ、先ずもって東京に4日以上滞在するなんてことは、私には出来ない。

話はあちこちするが、人生のいよいよもっての最終章をいかに自分にとって、居心地のいい場所で生活し、なおかつ理想を言えば、充実した生活を送りたい、という願望にそって還暦以後、下り坂人生を五十鈴川だよりを今も打ちながら次女の住むマンションのw考えている。

ヨタヨタ、途方にくれる体験もしつつ、あれから13年、いまを、ありがたいことに穏やかに生活できることに手をただ合わせている。折々五十鈴川だよりを打つことを持続しなかったら、生来の本質的性格に堕落していったのではないかと思える。だから、これからもできる限り五十鈴川だよりを打ちながら、日々を見つめ、ての届く仲間とともに老いながら、可能なら愉快な時間を過ごしたい。

私は今、次女の住む七階ではなく,一階にある、居心地のいい空間である、このマンションの図書館で五十鈴川だよりを打っている。娘たち夫婦が、私のために、フリーになる時間を考えてくれているのが、とてもありがたい。

宮崎の門川の五十鈴川のほとりの、山河の風景のもと、西行の歌になぞらえれば、願わくは、故郷エリアで、お迎えをと、私は祈るが、決して思い通りにはならないことは必定なので、一行五十鈴川だよりに打っておく。

朝からとりとめないことを打つ。明後日長きに渡って関係が続いている友人と会うことになっている。若いときと違って、老いるということは、皆それぞれ千差万別の老いる時間を過ごしているということである。ある日突然に、これまで経験したことのない未知の状況に置かれたりして、以来関係性が遠退いたりする。

私にだって十分に起こりうるのが、未知の老いの世界であることを認識している。だが、無理なく集えるときに会える、仲間友人があるということはかけがえがない。(だってもう十分に明日は会えないのかもしれないのだから)

自分の老いと向かい合う勇気は如何様にして、育めるのか、育めないのか、を考えつつ一日を過ごす、その日暮らし考になりつつある五十鈴川だよりである。そのような折、昨年から猪風来さんご夫婦と親しくさせていただくなかで、自分のこれから歩む指針のようなものが、うすらぼんやりと見えてきた気がしている。あのように自然にただ存在したい、自分に正直に存在するだけで気持ちが、呼吸がしやすい場所でその日暮らしをする。企画も、あくまでも老いながら自然に、やれる範囲で。

2025-08-27

次女のマンションの図書館で打つ、3日目の五十鈴川だより。

風香、生後22日目の足

 水曜日の朝、朝食を済ませ、洗濯物を干し、周さんが葉を保育園に送ってゆく前、一階にある図書館で、(何とも静かで快適な空間)五十鈴川だよりを打っている。

昨日の昼食はミートソースを(次女の指導のもと)私が作って3人で食べ、昼食後ネットフリックスで韓国の弁護士の物語(素敵な女優さんが出ている)を一話みて、夕飯用のハンバーグを次女と共に仕込み、暫しお昼寝、午後4時前、葉をお迎えにゆく。

葉は、風香の出現以来複雑な心理状態にあって、しばし私のお迎えを、てこずらかせたが、なるようにしかならないので、遠巻きに見守るべく、何とか家までたどり着いた。この間のなんとも言い様のない私のやるせなさを、ただ一行五十鈴川だよりに記しておく。やがては全てが思い出となり、蜃気楼のように、うたかたの出来事として記憶に刻まれることを私は願っている。

次女のマンションで過ごすのも3日目となると、幾ばくかなれてきて、一日の過ごし方にも少し余裕が出てきて、昨日はずいぶん本が読めたし、今日も恵島良太郎さんという作家の本を読む時間がとれそうなので、忙中閑あり、うれしい。

次女の旦那、周さんが何かと気を使ってくれるし、プライベートな個人での時間を、快適に過ごす共有スペースがマンションのそこかしこにあるのが、本当に嬉しい。異常な暑さのこの夏の疲れを、(主に労働とフライヤー配布で)岡山を離れ、このマンションで過ごすことで、リフレッシュできそうである。

昨日は、津野海太郎著【生きるための読書】という本を読み終えた。75才から82才のくらいまでの間に読んだ本についての、みずみずしい考察が綴られている。なんとも年齢を凌駕してあまりあるほどの柔らかい筆致に随所で唸らされた。

このような知的胆力のある文章にお目にかかれる、巡り会えることの幸運を、私は勝手に俺は運がいいと、どこかでほくそ笑む。風香のお陰で上京することになり、滞在中に読みたい本をと、23日西大寺の図書館で見つけたのだが、沁みるように読めた。

いつ死んでもおかしくはない年齢で見つけた、著者から見たら数世代後の主に30代から40代前半のかたたちが書いた本についての読書、考察記、である。著者より一世代下の私には、身につまされるほどの刺激を受けた。そして、思うことは、もしこのまま健康なら、いよいよしっかりと80才を見据え、揺れる胸中を引きずりながら、悔いなく日々を生活したいという一念である。

2025-08-26

8月26日、下連雀次女のマンションで打つ、2日目の朝の五十鈴川だより。

 早くも二泊、3日目の朝の寸暇五十鈴川だよりである。昨日の過ごし方のあらましを、時系列でざっと記録しておく。

朝食後、葉を周さんに連れ添って私も葉を送ってゆく。帰って洗濯物を干す。五十鈴川だよりを打つ。お昼は次女の特性ソーメンのタレ作りをちょっと手伝う。凍ったトマトをすりおろして、シーチキンと三つ葉の刻んだのをいれた特性ユニークのタレ。これが抜群に美味しかった事をきちんと打っておく。

85歳のかたの文章、沁みる

昼食後、歩いて10分くらいのところにあるスーパーまで、買い物にゆく。次女に渡されたメモを見ながら、きちんと役に立つべく私は動く。大きなリュックサックにいっぱいの食品を背中に、炎天下歩いて往復、無事に買い物を終えることができた。

マンションに戻って、私は12通主に岡山の友人に、残暑お見舞いの一文をいれた縄文のフライヤーを送る封書作業。その後後暫しお昼寝、夕方5時半、保育園に葉をお迎えに周さんとゆ戻って、全員順次お風呂をいただき、午後6時過ぎ、夕飯。生まれて3週間、次女は風香の面倒を見ながら、買ってきた食材をテキパキト調理し、短時間で夕飯を整えていたのには、さすがに驚いた。夕食後、周さんが台所の後片付けを見事にこなしていた。

全く岡山とは異なる環境での生活をしている。老いては子に従えと言うが、まさにしかりなれど、老人の私は、あれやこれや、時代とのあまりのずれに戸惑いつつも、何とかお役にたてるべく奮闘しているといったところである。

娘夫婦の子育てぶりを間近で、わずか2日といえども垣間見て思うことは、そのあまりのそつのなさである。お互いしっかりと支えあっての子育てぶりには、頭が下がるほどのものである。特に旦那さんの献身的な育児ぶりには、目を見張る。淡々と冷静に感情的にならずに。老人の私は、少なからず今となっては遅きに失した感は否めないものの、彼らの子育て負担を少しでも減らすべく、、と考えている。

4歳になった葉は風香が突然やって来て、ちょっとこれまでとは勝手が異なる生活になって戸惑っている様子が伺えるが、少ない語彙で、必死にもがいている。僅か数ヶ月で驚くほどの成長ぶりを私は感じている。(周さんが保育園からの恒例の朝散歩から帰ってきた。彼はこれからリモートでのお仕事である。私は郵便局に出かける。今日はこれくらいで)

2025-08-25

4番目の孫風香とご対面、三鷹、下連雀の次女のマンションで打つ朝の五十鈴川だより

 昨日最初の孫ノアと(ノアは3日間岡山に来ていた)共に上京、次女に第2子、風香が8月5日に産まれたので、何かと大変な次女の家族のお手伝いに来ている。

岡山には9月2日帰るまで、寸暇下連雀滞在日録を綴り打ちたい。昨日お昼過ぎにつき、ノアのお父さんレイさんと品川で落合、そこから調布に移動、そこで本格的な釜で焼いたピザのお店で昼食。レイさんがご馳走してくれた。

8月25日午前中の母と娘

昼食後レイさんノアとお別れ、彼らは稲城へ、私はバスで吉祥寺駅へ。午後3時、たまたまお仕事で山梨から東京に来ていた、旧友の(春、スパイラルアームズに来てくれた)Kさんと会う。私に会うために、わざわざ新宿から吉祥寺にきてくださったのである。30分弱ビールとハイボールで駅近くのお店で歓談できた。すべては成り行き、会えてよかった。またの再会を約束した。(なりゆきとはなんと不思議であることか、その不思議感覚を私はいよいよ大事にしたい)

吉祥寺から、風香が生まれ4人家族となった次女のマンションに着いたのが午後4時過ぎ、久しぶりの再会、4歳になった葉は照れながらも、私が来たのを喜んでくれているようだった。初めて直接風香を見た。すやすや休んでいた。

直ぐに葉とお風呂に入り、夕食前、葉におしり探偵の本を読んであげた。夕食は、旦那さんの周さんが用意してくれた。チキン、クリームコロッケ、お味噌汁などなど。食後、はみがきをすませ、なんと8時過ぎ、葉とおなじくらいの時刻に寝てしまった。ぐったりと疲れがたまっていたのである。

8月21日夕刻、妻が岡山に戻ってきたとき、長女の7才の最初の子供ノアをつれてかえってきたので、それから22日、23日の二日間は、ノア中心の夏休み海と山川時間を過ごした。(このノア3日間の岡山滞在の濃い出来事はいずれ、岡山でゆっくりと書きたい)

ともあれ、よく寝たお陰で、五十鈴川だよりを打ちたくなるくらいには、体力気力が戻ってきたので、早速五十鈴川だよりを打っている。これから9月2日に帰るまでの日々、次女家族のおお役に立つために、わたしのやれることを、との殊勝な気持ちでいる。そばに風香がみえる。今日が初日、まずは午前中の買い物からのお手伝い。私は一日一日を前向きに、面白がる役立つおじじでありたい。

我が娘、共働き、都会の子育て世代の実相をわずかな日数ではあるが、共に体験できるのは、老いゆく私にとっても、貴重な時間、その事を共有したい。

2025-08-20

猪風来さんのドキュメンタリー映画、制作発表記者会見を見届けた、翌日の五十鈴川だより。

 妻が上京し、8泊一人での生活を過ごした。明日の夜には、長女の7才の孫と共に帰ってくる。孫は3日ほど我が家に滞在、24日に今度は私が孫を連れて上京する。今日は午前中3ヶ月に一度の健康診断、いつもと逆で午後仕事にでかける予定である。

さて、昨日は、13時半から約1時間、新見市役所で猪風来さんのドキュメンタリー映画の、パイプラインによる制作発表記者会見が行われた。私はその記者会見を会場の片隅で聞き入った。やはり遠路駆けつけてよかった。

その場に居合わせたことでしか、感じられない、ある種のさあ、いよいよ始まるのだという独特の緊張感を感じた。東京からパイプラインの社長、Nさん(映画を撮ることを覚悟した)他2名の方がこられ、思い、意気込みの深さが伝わってきた。

猪風来さんも短い時間のなかで、縄文世界に導かれ50年、結果、自分の歩み、自分が見つけた縄文の心、体得した縄文造形世界の美、その奥深さが、映像化され、世界に発信されることの、嬉しさをしっかりとお話しされた。今年の2月からの、意外なことの成り行きの展開、わずか半年で、制作発表記者会見が行われたことに、どこか感無量の面持ちであった。私はその一部始終を見届けるためだけに出掛けた。

共に見届けた、相棒瀬政さんとは彼の家の近くで朝9時半に待ち合わせ、ふたりで一路新見に向かった。瀬政さんとは今年になって、何度もミーティングほかで、お互いの車で運転、往復道中時間、同世代、あれやこれやの、思いつきの会話をしながら、ドライブしている。吉備中央町からたかはしを抜け、高梁川に沿ってドライブ、井倉洞を越え新見へ。新見は山奥、田舎育ちの私には、寂れた故郷を思い出させる。


昨日も、車内で行き帰り往復4時間以上を車内で、あれやこれや高齢者よもやま話ができ、またもやよきおもいでができた。新見には11時半につき、お昼をとお店を探すも、なかなか手頃なお店がなく(お休みだったりして)、市内をうろついたのだが、美味しいランチ(私が運転したので瀬政さんが昼食をご馳走してくれた)になんとかありつけ、ゆっくりと昼食をして、記者会見に臨めた。

記者会見が終わり、猪風来さん、パイプラインのかたは市長表敬訪問、すべてが終わったのが、午後3時半、私と瀬政さんは、新見市役所から猪風来美術館に立ち寄って、お茶と美味しい桃をよし子さんからいただき、一路岡山へ。

夕闇迫る午後6時半、市内で瀬政さんを下ろし(市内から瀬政さんは自宅へ歩いた)我が家についたの午後7時を回っていた。長い往復路、一人で運転、家族の花、メルのケア、ほかを済ませ、一人での夕食、お風呂を済ませ、午後9時過ぎ眠りに落ちた。

PS 今日の写真は、ドキュメンタリー映画を撮ることを決めた、覚悟したプロデューサーNさんの一文です。

2025-08-19

フライヤー配布、タイヤパンクで巡りあったKさんから、昨夜お電話を頂く、そして想う。

 今日は午前中労働はお休みした。今日は午後1時半から新見市役所で、猪風来さんの映画の発表記者会見がおこなわれるからである。

今年2月、ドキュメンタリー映画を撮っている東京のパイプラインという制作会社のNさんが猪風来美術館を訪れ、これまでの猪風来さんの縄文造形作品を直接体感、衝撃を受け、猪風来さんの思い、魂を、全世界の人々に【猪風来と縄文を世界中の人に知ってほしい】、唯一無二の人間が創った、唯一無二の作品群を後世100年後の人々にも伝えたく、猪風来という傑出人間の映像化を決断したのである。


昨年秋から、こん秋の【縄文野焼き祭り、開館20周年特別企画】のために、猪風来さんに請われ頻繁に猪風来さんよし子さんと密な時間を共有し、その人柄のまるで縄文人が、現代に飄然と生き返ってでもきたのではと、おもわせるほどに、ぐんぐんと私はその唯一無二の存在感に引き込まれている、自分を感じている。

だから、今日私が新見の記者会見にゆくのは、とりたてて自然なことで、オーバーではなく、歴史的必然とでも言うしかない。映像化、世界配信という画期的な快挙である記者会見に立ち会いたい、ただそれだけのいわば、ミーハー老人でありいたいだけなのである。

話は変わる。前回の五十鈴川だよりに、パンクの出来事で、思わぬ82才の先輩昭和快男児に出逢えた幸運を綴った。長くなるので割愛するが、私はこのKさんに猪風来さんの秋のフライヤーを5枚ほど手渡しし、私の名前、住所、電話番号とブログ五十鈴川だよりを手書きし、お渡ししたのだが、昨夜午後7時頃Kさんから、予期せぬお電話を頂いたのである。

先輩からの、第一声は五十鈴川だよりを読みましたよ、との一言であった。Kさんは名前も住所も電話番号も教えてくださらなかったのだが、私は何としてでもこの先輩とは関係性を持続すしたかったので、メモを渡しといて本当によかったと、安堵した。

Kさんは近所に、岡山の経済人、文化人が遺した由緒ある家が、故人の資料展示スペースとなり、今もいろんな文化的なことに想いを寄せる方々が訪れるので、そこにフライヤーを置きますと、おっしゃったのである。そして猪風来美術館に必ず行きますとも。

リモート会議、メール、世はまさにデジタル世界が覆っていて、今時手渡しフライヤー配布行脚など、お笑い草、一笑にふされそうだが、猪風来さんの思いの丈のイベントであるからこそ出来るだけのことである。

縄文世界の豊かさを伝えるのは、わたしの任を超えている。が、私のような人間でも足繁く美術館に通って、猪風来さんの(よし子さん、原野さんの作品を含む)邪心のない造形作品にふれると、現代のこの世を覆う閉塞感から暫し、解き放たれる自由な感覚がある。ピュアになれる。その実感が老人の私にエネルギーを注ぐ。そのスピリッツが。

なんとか250人、猪風来美術館をまだ知らない、行ったことのない方々を10月12日の猪風来さん渾身の縄文祭りに、足を運んでほしい。ために私がやれることに専心、遊ぶように【今】を苦楽したい。

PS 今朝の写真は我が家の猛暑に耐えて、地面の近くに一輪咲いていた朝顔です。

2025-08-17

フライヤー配布行脚のなか、山道でタイヤがパンク、昭和快男児に助けられ想う今朝の五十鈴川だより。

岡山に移住して33年になる。その間クルマの運転をしているがタイヤがパンクをしたことはなかった。が昨日タイヤのパンクを経験した。その稀なアクシデントで出逢えた、稀な家族の人たちのことを、今朝の五十鈴川だよりで、なにはともあれ、短くともキチンと打っておきたい。

私のそばを離れない花

山道でこの年齢で、初めてパンクなるものを経験して、改めて一夜開けて思うことは、無償の善意、山道で親切がこんなにも嬉しく有り難いものであるのかという事がしみた出来事だった。ましてや、このような殺伐とした、出来る限りヒトとの面倒には、関わりたくはないというのが現代の世相の中、稀な家族に私は出逢った幸運を、何としてでも五十鈴川だよりに綴らずにはいられない。

昨日私は午前9時、猪風来さんの秋のビッグイベントのフライヤーの配布(24日から、来月2日まで上京するので、それまでは配布を終えたく)に出掛けた。建部、久米南町、津山の、文化センター、図書館、ギャラリーなど、8ヶ所にに配布、お昼は持参したお弁当を車の中で食べた。

午後まだ時間があるので、もう少し配布したく、津山から初めての山道(山越え)で吉備中央町を目指したのだが、想像以上の狭い山道で、崩れ落ちた石や木片が路上にずいぶんと転がっていて、車を降りて、2回ほどその石や木片をどかしたりしながら、その細いやまみちを注意深く運転、抜け出し、吉備中央町に近い広い道になんとか出たのだが、そこでタイヤに異変を感じ、すぐに路肩に車を寄せタイヤを確認すると、前の右側のタイヤがパンクしていた。

そこからの、ことの顛末を簡略に記しておく。困った私は、とにかく誰かに応援を求めたく、通りすがりの道行く車にてをあげたところ、すぐに50代位のご夫婦連れと、私の子供くらいの年齢の男性が止まってくれ、即手際よく鮮やかに頭が下がる対応してくださったのである。(保険会社への連絡ほか)、単なる親切の範疇を越えてきぱきと、対処してくださったことへの感謝を、五十鈴川だよりにキチンと打たずに入られない。

結果、私の子供くらいの年齢の男性が、現場から15キロのところ、真庭の落合にすむお父さんに電話を掛け、お父さんを呼び出し、急を聞いて駆けつけた父に、息子さんがタイヤをはずして、その後を任せ、ご夫婦と息子さん3人は、お名前と連絡先の電話番号を、どうしてもを教えてくれず風のように去ってゆかれた。

その後、私はお父さん(82才とは思えない軽快な身のこなし、びっくりした)の運転する軽トラックで久世にあるイエローハットでタイヤを購入し、再び現場にもどった。(私の車には予備のタイヤもなくジャッキもなかった)

購入したタイヤをお父さんがとりつけた。(私はタイヤを持ち上げるのをてつだったばかり)この息子にしてこの父親あり、連絡先、電話番号を教えてほしいと何度頼んでも、頑として教えてくださらなかった。

現場から、久世のイエローハット往復の軽トラックのなかで、車中82才の、人生の大先輩とまさに一期一会の会話のなかで、深く印象に残ったのは、私は特定の宗教は持っていないが、困った人がいたら、出来るだけの対応をしているだけだと。因果応報、すべての行いは自分に返ってくる、とおっしゃったのである。

飄々として頑固一徹、だが温かくて優しい、昭和の快男児に、わたしは、、フライヤー配布の山のなかで出遇った。

ある夜の出来事という古きよき映画がある。ある夏のお盆の日の山中での、私の忘れられないパンクの出来事、宝石のような思い出となった。あのご夫婦と、あの息子さん、そしてあの爽やか昭和の快男児に、何としてもまた会いたい。表札を見たので、姓はわかっている。

2025-08-16

8月15日敗戦の翌日の朝に思う、五十鈴川だより。

 私の父が書き残してくれた一文がある。北朝鮮からロシア軍に追われながら引き揚げて来た体験記である。タイトルは【私は生きている】。当時3才の姉と生後半年の兄を連れて、4人での命からがらの書ける範囲での極限記である。

無事に引き揚げてきて、両親が生き延びたからこそ、私を含めたその後3人の男子が存在している。もし両親が引き揚げてこれなかったら、私は存在していない。このようなことをいきなり書き始めたのは、8月5日次女の代2子、女の子風香が、暑い夏の日の午後2時過ぎ無事に産まれたからである。あれから11日母子共に健康に育っている。

命は現れ、命はみえなくなる。

妻は12日から次女のお世話で上京している。戻ってくるのは21日、この間私は独り暮らし、既に4日が過ぎた。今週も何とか午前中は働き、こうやって五十鈴川だよりが落ち着いて打てる土曜日の朝を迎えている。

家事身の回りの、生活を妻なしで全てこなすのは、7年前最初の孫が授かってから、折々年に数回やって来たので、今では慣れて、炊事、洗濯、掃除買い物、などなど苦もなくやれている。

想えば、世の中に出た18才から、今に至るもギリギリ生活を(はためにはともかく)ずっと続けているような感覚がある私である。縁あって生活を共にして39年、夫婦といえども、やがてはお別れの時がやって来る。このようなことを書くと、縁起でもないと言われるのは必定である。が私は、敢えてまだこうやって、かろうじての思考が出来るうちに、現在の私の思いを打っておかないと、思うのである。(ボケてからでは悔いが残る)

それはやはり、私は生きている、という無き父の一文を、特に古稀を過ぎて繰り返し読み、その事が私に五十鈴川だよりを打たせているからである。命というものの無常を物心つく頃から、今に至るも考え続けて来たからこそ、(長くなるからはしょる)いまも企画が時折なせているという自負、自覚がある。

ささやかな庶民生活者の一人として、ようやくこの年齢になって身に染みて沁みて思うことは、与えられた命を全うすることがいかに困難であるか、という冷厳な定め、事実である。生命は儚く、人生は理不尽、不条理である。幸い私は、今を生きて、家族に恵まれ、新しい孫にも恵まれる、という人生を今は送れている。新しい命は、老いた私に訳のわからないエネルギーをくれる。何故なのか。(わからないが、眺めていると元気がわいてくる)

一度の人生、何かのお導き、直感に従って、いまも葦のように揺れて生きている私である。妻、娘、孫、友に恵まれ思うことは、縁あって巡り会えたかけ換えのない存在達の役に立ちたい、という殊勝な心構えの成長感である。

老人ではある。が、私なりに何かのお役に立てる老人で在るためには、何をなして日々を送ればいいのか、いけないのかを、老いたハムレットのように、考え続ける持続力をみつけたい。(正解や、正義などというものは、いまやない時代である。そのような時代に猪風来さんご夫妻に巡り会えたのは、啓示である)お盆、敗戦記念日、妻が帰ってくるまで、一人時間を大切に過ごしたい。

2025-08-11

Yさんの手作りの品に感動する。フライヤー配布の疲れが一気に吹き飛び、そして想う。

 お休みの日の始まりは、五十鈴川だよりをまず打つことから、スタートするように、このところなってきている。取り立てて、特に打つ気にならない、気乗りがしないときでも、敢えてなにか、うすらぼんやりと、タブレットを開き画面を眺めていると、指先が動き始める。

五十鈴川だよりを打つことで、精神的な安寧、精神の調節機能が保たれて、日々の生活が送れている(とおもう)。ながれゆく日々、心の整理整頓をすることで、一日を新たに生きられる。(のだ)

Yさんの、手作りの品、有り難し。

さて、一昨日夕刻思いもかけない有難い品物が届いた。頂いた。2013年、働いていた中世夢が原で私は日韓パーカッションフェスティバルを企画したのだが、その際に観客として、当時NHK岡山放送局にスタッフとして勤務しておられたYさんと面識を得た。

長くなるのではしょるが、御会いしたのはその時が一度だけである。(現在は東京のNHK勤務)

その日、Yさんは打ち上げにも参加、素晴らしいライブであったと、興奮冷めやらぬ面持ちで私に語りかけてきた。面白い人であると思った。そのとき名刺を頂きNHKに勤めておられるかたであることを知った。以来お年賀状をやり取りする関係は続いていたが、お会いすることはなかった。

2度目の再会が実現したのは、4月30日スパイラルアームズのライブに駆けつけてくれたからである。Yさんは2013年の日韓パーカッションフェスティバルでの土取利行さんの演奏に大感動されていたので、その事もあって、案内を送ったところ、チケット代とカンパがある日突然、私の口座に振り込まれ、あげく岡山までご夫婦でライブに足を運んでくださったのである。よもや来てくださるとは思わなかった。

その日、Yさんは土取利行さん率いるスパイラルアームズの演奏にも大感動され、またもやその日の打ち上げにも、2次会まで参加された。その事からYさんの人柄にいたく打たれた私は、この方とは長く付き合いたいと決めたのである。

ということで、10月12日の【魂の縄文ビッグバン、秋の縄文野焼き祭り】のフライヤーを送ったところ、仕事の都合で参加できないとのご丁寧な一文とともに、彼が手作りしたという、梅干し、梅ジュース、梅酒、2種類の梅ジャムが届いたのである。私は熱いものが込み上げた。

以下、ながくなるので割愛するが、人間というものは、表面上うかがい知れぬ、豊かな内面性を秘めている存在であることを、あらためて思い知らされている。特に春のスパイラルアームズを引き受けたことで、私を支え、応援してくれた方々のことは、私の意識がしっかりしている限りは、大事に関係性を持続したいと思いしる。

自分がされて嬉しいことを、可能な限り、お世話になった友人、知人には、私のやれる範囲で応える。その関係性を持続大切に生きる。Yさんのお品物は痛く老人の今の私の心を揺さぶる。

最後に、さきの打ち上げの場で、私が送った、私の父が死ぬ半年前の文章のことに触れ、Yさんの父上も関東軍におられたとのことを話された。その事で一気にYさんと私の間の距離が近づいたことは間違いない。8月下旬上京するのでYさんと語り合うのが楽しみである。

2025-08-10

二どめの妻とのフライヤー配布を終え、8月10日の午前中に想う、五十鈴川だより。

 鹿児島や福岡の集中豪雨の報が伝わる。宮崎出身の私は、土地勘があるために心がざわつく。天変地異を直接経験したことがない私には、想像力、理解が及ばない。ただ直感的に、現代文明社会、都市型インフラ快適便利生活をなが年にわたって享受してきて、私などは正直、ある種災害に鈍感になってきている。この年齢になるといざというときに、体がまず敏捷に動いてはくれないのではないかとの危惧がある。何時なんどき我が身に起こっても不思議ではない時代を迎えている。そういう認識はある。

18才銀座の酒屋でアルバイトの私

話題をかえる。昨日午前中義父のお墓参り(妻と雑草を抜いてきれいにした)を済ませ、妻と二人で、(2度めの)午前10時過ぎから、フライヤー配布に出掛け、岡山市内の図書館3ヶ所に配布した(幸町、中央、浦安)。お昼は岡山市内南区のとある焼肉店(そのお店にもポスターとフライヤーを置かせてもらった)のランチで済ませた。

午後は倉敷美観地区に移動。スパイラルアームズの時に配布したエリアをメインに歩き回った。美観地区は、ライブハウス、古本屋、カフェ、雑貨屋さんなど、8ヶ所に配布、午後2時半持参したフライヤー400枚、ポスター15枚が配布できた。自分一人ではこのようにスムーズ配布はまず無理である。相棒の妻とのコンビネーションがあったればこその、早業配布であった。午後4時前、予定よりもずっとはやく家に戻れた。

12日から、妻は次女家族のお世話で10日ほど上京、私も25日から9月2日まで交代で上京するので、昨日は二人してかなり動いたのである。フライヤーが出来てから、わずか10日間で、わたしが預かった枚数3000枚のフライヤーのうち2500枚はすでに配布を終えた。残りは、岡山市内の色々なお店に、私が上京する前までに終えるつもりでいる。

この酷暑のなかでのフライヤー配布が、思ったよりもずっと早く進んでいるのは、やはり40才から何十年も配布してきた蓄積、老いてはいてもやはり体が勘を記憶しているからだとおもう。それと今回はやはり妻のアドバイスが大きい。一行感謝をキチンと打っておく。

今日はOFF、妻は仕事に出掛けたので、一人時間、友人諸賢に暑中見舞いをかいたりしてすごそう。動と静の往復、動いたらやすむ。メリハリ、もう十分老人なのだから。ところで昨日思いもかけない方から品物が届いた。その事は明日綴ることにする。

PS 銀座の酒屋でアルバイト、18歳の貴重な写真です。髪がふさふさ、そして長い。移ろいを残酷なまでに実感。でも振り返り、全く悔いはありません。やがて色々なことが思い出せなくなる。だから五十鈴川だよりを【今】打っているのです。整理していたら出てきた写真です。ゆっくりと、先ずは今を生きながら、過去の整理も進めたく思うさいきんのわたしです。


2025-08-09

8月5日、次女に2番目の子供が生まれ(女の子、風香、ふうか)、そして想う五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。涼しい。蝉も啼いていない。一昨日午前中雨であまりの嬉しさに、カッパを着て、いつも通り労働した。炎天下で働くよりもずっと気持ちよく働けはかどった。待ちに待った雨、雨に歌えばではなく、雨に働く。

ヒイヒイいいながら、どこかで老齢を感じながらも、ギリギリ知恵を絞りながら、一日一日をしのぎ、今週も月曜日から昨日まで午前中無事に働き、午後3日間フライやー配布をすることができた。

遮光土偶、風香に目がそっくり

立秋を過ぎ、昨日の夜は、何時以来か熱帯夜ではなく涼しく、あっという間に眠りに落ち気持ちよく快眠できたので、こうやって五十鈴川だよりを打てるということが、疲れてはいるのだが、嬉しい私である。

さて、私の日常生活のなか5日火曜日嬉しい知らせが、午後スマホに届いた。次女に二人目、女の子が無事に産まれ、母子共に健康で安産であったとの知らせである。これで私は4人の孫のお爺となった。

生まれたばかりの新生児はまぶたを閉じている。猪風来さんのお話の縄文遮光器土器の瞼とそっくりである。あらためて、猪風来さんと出会わなかったら、ここまで真剣に我が孫の誕生したばかりの顔をこんなにもしげしげと見ることはなかったかもしれない。

私の五十鈴川だよりは、何の脈絡もないことを綴ることがおおい。読んでくださっておられるかたには、またかと閉口することが多いかもしれないが、ご勘弁あれ。お子さんもおられず、ましてお孫さんもおられないかたには、私のこの年齢での心持などは綴っても、、、。とはおもう、がこればかりは、親にさせていただいたり、孫を授かったものにしか感じられないのは、いたしかたない。

話をかえる。私は若い頃、自分が結婚して、家庭をもち、人並みに平凡な生活が営めるなどというイメージを持ちにくい放埒な生き方をしていたがために、初めて我が子と対面したときの驚きは言葉では表せない。忽然と私は過去を捨て、変身した。長くなるので割愛するが、何としてでも、我が家に舞い降りた最初の赤ちゃんを二十歳になるまで育てなくてはと決めたのである。

あれから36年の歳月がながれ、最初の赤ちゃんである長女は今や7歳と2歳の(男の子と女の子)そして次女に二人目が(4歳男の子、女の子)が授かり、私は4人の孫のお爺となったのである。

年齢的にお迎え、死を意識する(しないといけない)考えることが多くなってきて、逆説的に、我が人生は(臆面もなく打つが)輝き、若い頃とは比較にならないほどの喜びが(苦楽が)増えてきている。物質的な喜びではなく、ただ生きている有り難さ感覚が深まる喜びとでも言うしかない何かがである。

その感覚的な有り難き多幸感をこれ以上綴るのは、野暮なのを承知で打つが、新生児の輝きはそのあまりにも初々しいしぐさの丸ごと全部が、老人の私に降り注ぐのを私はじっかんしている。2日目には眼を明け(まだ見えないが)、3日目には指をしゃぶり始めている

7年前、ある日突然、我が家に最初の孫が舞い降り、5日に産まれた4人の孫の存在が、私の晩年時間を彩るであろうことはまず間違いない。だが単なる猫可愛がりの凡庸な老人になるのだけは、御免である。行く末に正解などがあろうはずもなく、私なりの老人ライフを右往左往いきるしかない。孫たちが私に言葉にならない静かな老いのエネルギーを与えてくれている。

PS 今日の写真、良く撮れていなくて申し訳ありません。猪風来美術館で是非とも、ご覧になってください。



2025-08-03

70歳からの、私の企画や、活動を支えてくださる、Iさんの寸暇、真夏の我が家来訪に想う。

 日本列島に暮らすすべての人々が、経験したことのない長い暑い夏を過ごしている。私もその一人である。だが、嘆いていても酷暑はいっこうに収まる気配はない。一日でも早く、秋の気配が訪れてくることを祈りながら、何はともあれ、一日一日を今日もしのいで過ごそうと言うくらいにしか、私の頭は働かない。でもまあ、五十鈴川だよりを打とうと言う元気は、まだ我が体に残っているので、そこのところに耳を傾け、この夏を乗りきりたい、私である。

今日は頂いた本を読みます。

今年は春のスパイラルアームズと、秋の猪風来さんの縄文野焼き祭り特別企画に関わることで、充実この上ない生活を、いまのところ送っているという実感がある。そのような日々をこの年齢で送れていることの多幸感は、私、家族友人が健康であることと、生活上の心配がないというところに起因している。

何度か、年金生活だけでは企画はできないという事実を、臆面もなく五十鈴川だよりに私は打っている。70歳、古稀を迎えてから企画を再開、考えた末、これまでの人生で遭遇(であ)え、数十年にわたって、交遊関係が持続し、私の性格(善し悪しまるごと)をかなり理解してくれているとおもえる方々に、なりふり構わず、企画応援カンパを募ることで、企画実現が叶っている。

そういう利害のない奇特な方々の存在があるからこそ、私の企画が、すれすれのところで成立している。特に今年感じる嬉しさは格別である。私の企画を一貫して応援してくださって揺るがない方々の有り難さである。

臆面もなく打つ。私の企画はかなり集客が難しい。生来のあまのじゃく企画者(仕事ではなく、企画したいアーティストしか企画できない)としては、他のだれもが企画をしない、やりたがらない、しかし本物のコマーシャルにはのらないマイナーなアーティストしか私は情熱が沸いてこないのである。何故なのかは説明できないし、したくもない。

さて、そのようなあまのじゃく企画者に、寄せられるカンパを、私のセンス、感覚で大切に(自分で労働して得られたお金を大切に使うように)使用している。信頼され、信用されるには責任が伴う。私の企画に寄せられる(カンパしてくださる)心ある方々のお気持ちだけは決して裏切らないようにするためには、どうすればいいのか、いけないのかを、考え続けている。

だが、やはり年だからとは思いたくないのだが、やはり年なのである。カンパを募ることに、どこか鈍感になりつつあるのである。一回こっきりのカンパ要請に応えてくださるかたのカンパでと、チケット収入で予算を組むだけ、いたってシンプルなのである。若いときは広告や協賛回りに動いていたが、それはもう止めた。それを私は勝手に年の功だと思っている。

寄せられたお金で企画を成立させるだけである。寄せられた信頼に応えるためにやるだけのことをやる。その一点の覚悟が決まればやるだけである。寄せられた財源、貴重なお金で知恵を絞り企画を実現してゆくことの醍醐味感覚を、(老いの花)体で感じ始めたのである。(アーティストにも、払える額で納めていただく)

潤沢にお金があっても、私の企画は生まれない。寄せられた人の面子、おもいが、が私を鼓舞するのである。汗を流して得た仲間の応援、お金の重みを老いの体で受けとめられる老人力企画者でありたい。何よりも私の心に火がつかなければ動けないし、企画は出来ないのだ。

話は変わる。一昨日金曜日お昼頃、Iさんがわざわざ出来立ての縄文フライヤーを我が家まで、取りに来られた。読んでほしいという坂口恭平さんの本【土になる】と雨宮国広さんの【ばくは縄文大工】、高木恭造さんの津軽弁の詩集【まるめろ】を玄関で慌ただしく受け取った。ゆっくりした時間が持てなかったのは、私が縄文のフライヤー配布に出かける直前だったからである。

驚いたのは本に【寸志】の封筒が納められてあったからである。お別れして寸志のお気持ちにびっくりした。長年、企画する度に応援依頼文章を送り、、チケット付きのカンパ他募ってしのいできたが、フライヤー配布を手伝って頂き、本まで頂き、なおかつ多額のカンパを直接(本に挟んであったのが奥ゆかしい)手渡されたのには心底、今も驚かされている。

企画を成すには、何よりも動かねばならない。現代生活ではガソリン代始め、あらゆる必要経費が必須である。貧すれば鈍す、お金の面だけでのことではなく、どこか心に余裕を持って企画を実現するためには、Iさんのような無私の応援者、存在ががつくづく私に勇気とエネルギーをくれるのである。信頼に応える。だからだとおもう、暑い夏、動けるのは。

PS いつの日にか、カンパを募らず、観客のチケット収入だけで企画が成せることを夢見る。



2025-08-02

わずか二日間で、1000枚の秋の縄文野焼き祭りのフライヤー配布を終えて思う、今朝の五十鈴川だより。

 今朝は8月2日だが、7月31日(木)猪風来美術館で、午前10時から12時まで、3回目の、10月12日の20周年特別企画のミーティングがおこなわれた。

老人の心に灯をともすフライヤー配布の夏

参加者は猪風来さん、よしこさん、猪風来さんご夫妻の野焼きを地元で一貫して支えている古老のKさん、新見市からKさん、Hさん、香川からOさん、予告フライヤーをデザインしたNさん、吹屋の面白人大場さん、相棒瀬政さん、それに私の9人でおこなわれた。

内容は割愛するが、有意義なミーティングが行われ、何よりも待ちに待ったフライヤーが完成し、届けられたことで、一気に秋の本番に向けて向けて、参加者の気持ちが熱くなった事実を五十鈴川だよりに一行きちんと打っておきたい。

一昨日は、私の車に瀬政さんとNさんを、午前7時半岡山でピックアップし、新見へ。9時半前に着いたので、早速ほやほやフライヤーを確認して、郵便局でのキャリアで瀬政さんはお金を数えるのが得意な技を早速活かして、フライヤーを100枚ごとに各封筒に入れる作業をミーティングが始まる前までに速やかにやってくれた。その間、フライヤーが完成して安堵している猪風来さんの話し相手を、Nさんが絶妙に務める。

ミーティング開始前に、私のフライヤー3000枚分は車に納めることが出来た。ミーティング後お弁当を頂き、お茶もそこそこに、私の運転で岡山市内へ。市内でNさんとはお別れし、その後は、運転を瀬政さんにお願いし、県立美術館、県立図書館、天神山文化プラザ、タウン情報岡山と、もう2ヶ所、フライヤーを配布、できたてのフライヤーをその日のうちに400枚以上配布できた。瀬政さんの家で運転を交代、我が家には5時過ぎに着いた。

昨日8月1日、午前中仕事、家で昼食後、妻が絶妙のアイデアを出してくれ、A4サイズの透明の封筒に各30枚のフライヤーを入れたものを、10部以上作り、瀬戸内エリアと、備前エリアに配布に出掛けたのだが(美術館、図書館、ギャラリーなどに)、10部以上効率よく配布することが出来た。

3000枚のうち、1000枚が(昨日お昼、友人が我が家まで100枚のフライヤーをわざわざ取りに来てくださったのも含め)わずか二日間で配布することが出来た。私の体調次第だが、可能ならお盆前までに配布を終えられるかもしれない。が、急ぐ必要はない。お盆はゆっくりとお休みし、週に一度はおやすみのペースで8月末までには、配布を終えたいと、考えている。

暑さの中のフライヤー配布を、妻がことのほか、私の体調を案じてくれて、あれやこれやの、効率的な配布のために、アイデアを出してくれる。老人になると、私のことです。繰り返しのくりごとが多くなるが、そのことをわたしはまったく意に介してはいない。老夫婦2にん3きゃくでの、フライヤー配布なんてまったく期待も、考えもしなかったが、今日は午前中一緒に配布に同行してくれるそうである。意外なことの喜びが、平凡な生活のなかで発生する。

この年齢で肉体労働し、仕事とは無関係に好きな企画を続けていられるのは、これまでに培った我が人生で出会えた稀びとたちが私の企画をささえてくださっているからである。今年は特にお世話になった。お陰で、スパイラルアームズも実現することができた。明日はその事のへの、有り難さについて、伝えられる範囲での、いまの私の感謝の念を記したい。(とおもう)