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2022-04-30

GW、でくの坊(宮沢賢治にあやかって)企画者は老いの花を求めて思考する。

 朝湯を浴びて後の五十鈴川だより。世の中の流れには、一定の距離を保ちながら、でもどこかしらで繋がりながら、限りなくどこか、マイノリティの側から、大きな流れには乗らず、ささやかに存在する、企画者でありたいと、常ずね考えている。

ことさらに定期的には、企画しなくても、どこかで企画者の心というか、魂というか、言葉では伝えられないおもいを、伝えたくなったときに、勇気をもって企画できる人間で在りたいと、改めて今回の企画で私はおもいを新たにしている。

イランの音楽家にいただいた



媚びない、安売りしない、かといって硬くはなりたくない。どこか根を張りながら、柳に風のような企画を、熱い思いが自然に無理なく流れるような。そのような境地に今私はなっている。この感覚を持続するためにも、忘れっぽい私は自分を戒め、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

たぶん今回の企画で、何度も打っているが、自主企画は最低限の諸経費が絶対的に必要ではあるが、充分な条件ではない。何よりも必要なのは、やはりどうしても企画したいという強い思いである。なにしろ実現するまでには、あれやこれやの手続き準備、交渉、手間隙をかけての、粘り強い根気がいるのだから、この年齢ともなるとあだやおろそかには企画はなし得ないのである。

ではなぜ今回のような企画が叶ったのかを、自己分析する趣味は私にはない。すでに何度か打っているように、秘密はなにもないのである。ただひとつ今回清水の舞台から飛び降りるかのような企画を打てたことで、改めて学んだことは、心から念じればおもいは届くという厳粛な事実である。

読んではいないが、存在の耐えられない軽さという小説のタイトルがある。人類の行く末の漠足る不安感が、日本という風土にからめとられてしまっている私には、どこかクライシス感覚が弱いのだが、そこが企画者としての私の弱点だと思っている。

ウクライナや、シリア、アフガニスタン、スーダン、ソマリア、ミャンマー、エチオピア、パレスチナ、ウイグル自治区、・・・・。等々とてもではないが世界のクライシスエリアのおぞましき惨状を、皮膚感覚で想像することは、まず不可能である。

だが、なぜこんなにもウクライナで勃発した戦争に、自分を含めた多くの日本人が熱く反応しているのかは、ようとしてわからない、のだ。確実に言えることは、反応してしまった自分がいるということだけである。そしておもうのだ、終えてまだ一週間もたっていないが、ウクライナという国が生んだ歌姫の演奏と歌を、たまたま企画できたことの幸運と喜びは、ささやかな自信となって、次なる企画に向かっての希望をともすのである。

長くなるし野暮なことはあまり打ちたくはないのだが、一枚のチケット、仮に3500円とする。200人来てくださったとする。ことさらに協賛やカンパを集めなくても、チャリティ演奏会と銘打たなくても、時間や手間を最小限に押さえ(もう毎回これが最後という気持ちで企画する、人生は短いのだ)チラシ、と口コミ、メディア、SNS、等でPRし、毎年花が咲くような企画が打てるのではないかと(仲間がいれば)私は夢想する。ドリームオブパッションである。(時代の足音に敏感な市民が存在する街なら可能だと想う)





2022-04-29

GW、限りなく静かに青空の下、菜園場で土と戯れて過ごす。

 小さな旅をGWの後半に変更したので、五十鈴川だよりが打てる。ありがたき朝を迎える喜びの感覚は、きっと体が健康だからである、と思う。そのからだの中のどこかにあるのであろう心が、私に五十鈴川だよりを打たせる。

さて、チャリティ演奏会の翌日から私は肉体労働のアルバイトに復帰している。体を動かすことで、おりのようにたまった心地よい疲れを、青空のしたで天に感謝しながら癒しているのである。体が動き、意識が動かないと企画はできないので、体を動かしお腹を空かせて、ハングリーな状態で頭を空っぽにして。

妻が活けた我が家のバラ

世の中GWだが、私自身は今のところどこへも出掛ける気にもならないし、チャリティ演奏会でお世話になった方々にお礼状を書いたり、細々とした生活雑事、普段なかなかやれないことをやろうと考えている。とにかくこの2ヶ月、チャリティ演奏会にかかりきりだったので、いつも通りの普段の生活のリズムを取り戻すべく静かにすごしたいのだ。(ウクライナのことを心のどこかに留め置きつつ)

昨日午後仕事を終え、アルバイト先の菜園場が、草ぼうぼうになっていたので雑草とりをしたのだが、今日は堆肥を撒いたりして後、ミニの耕運機で撹拌したりして、トマト等の野菜を植える準備を午前中はやろうと思っている。午後は少し休んでお礼状を、万年筆で一筆いれて書く。昨日までに20通投函したので、今日明日で目処がたつ予定だ。

今時、万年筆で文字を書く人は少ないと思うが、私は万年筆をこよなく愛する。タブレットで五十鈴川だよりを打つことは常態化したが、やはり万年筆で書くということも大切にしたいのだ。手間隙をかける楽しみを、へそ曲がりの私は肉体労働をすることで学んだからである。

楽あれば苦あり、である。手間隙をかけない生活の危うさを、どこかで私は戒めたいのだ。昔は、若いときは怠惰で、根気のいることが限りなく苦手であったのだが、青春時代の最後を足掛け3年を過ごした富良野での体験が根底から私を変えたと思う。本質的なものはそうは易々とは変わらないが、中世夢が原での22年、リタイア後のこの10年で、少しずつ少しずつ根気強くなってきたように思える。

その経験上、一番根気がいる雑草とり(腰が痛くなる)は今だ私を鍛える。だが、土の香りは私を無心状態へと導いてくれ。草と戯るかのように、尺取り虫のように腰を時おり伸ばしながら持続する。その事の喜びをつかんだ感覚は、体得したものだけが知りうる世界とでも言うしかない。全く企画にも通じる世界なのである。

2022-04-28

限りなくシンプルに思考し、老いてジャンプする企画を打ちたく修行したい、と思う朝。

咲き始めた我が家のつるバラ

 予定変更、小さな旅に出るのを少し延ばした。今回の企画でお世話になった方々にお礼のお手紙をだすのは、身も心も休めてからにしようと想ったのだが、すこしでも早いうちに出しておかねばならないということで延ばすことにしたのである。

特に古い友人知人は、東京や遠方に住んでいて、今回の企画を観ることも聴くことも叶わなかったし、その方々の素早い支援が、どれ程私に勇気を与えてくれたことか計り知れない。そしてそれは、これから先何回企画することになるのかは分からないが、なにか次も企画することができる、という確信を私のなかに与えている。

それは今回の企画を支えてくれた、裏方スタッフにも言える。これほど無私で利害関係なくその上楽しんでくれるスタッフの存在があれば、なにがしかの楽しくて、意義のある企画が打てるという確信のようなものが私のなかに、生まれてきたのである。

中世夢が原で企画していたように、最低年に一二度、大小の企画が、私が健康で五十鈴川だよりを打てる間はやれるという確信が、生まれてきている。年齢的に引っ込んではいられないほどの、危機感のようなものが、今だ私のなかに消えずに激しく存在しているからである。

カテリーナさん、マリアさんの歌声は、私のなかの老いゆく血を、まだまだ老け込んではいけないと叱咤激励してくれたし、ウクライナが生んだシェフチェンコの詩は、私を鼓舞する。国籍を問わず、人の命を踏みにじってやまない権力者の横暴無慈悲な行為に対して、ノーの声をあげ続けるささやかな企画者で在りたいと強く想うのである。

なにしろもう充分に生きて。社会的な親としての責任を果たすことがことができた、老いゆく企画者なのであるから、もうなにも怖いものはないのである。もっと打てば、なにも声を挙げない自分が怖いのである。笑い声のない、笑顔のない生活、ユーモアもない暮らしなんて、私はごめんである。

五十鈴川だよりを打ちはじめて、丸10年、ささやかという日本語を、いったいどれ程打ったことだろう。人間は喰って寝るところと大切な存在さえあれば、充分に生きてゆくことができるのである。身の丈の合わない生活や、自分自身の欲望に負けなければ。他者を思いやる余裕がどこかにあれば。余裕のあるものは、余裕のないものに対して責任がある、と考えるのが私の考える民主主義である。暴力をもってなにかを守ろうとするのは、本末転倒、やがて暴力で滅ぼされるというのが常である。

大事なものを見失って、もうなにがなんだかわからないような時代状況のなかで、突然起きて今だ続いているウクライナでの目をおおう惨状は、限りなく平凡で一日をなんの不安もなく過ごせることの在りがたさを私に知らしめる。

一年前の3回の手術から生還した私は、以前にもまして、シンプルこの上ない身軽な生活を心がけている。老いた身の上、身軽でないと時おりジャンプする企画など打てるはずがない、のだ。


2022-04-27

これからの人生をいかに生きて企画すればいいのか、今回の企画が教えてくれた朝に想う。

 夜明け前、たぶん五十鈴川だよりを打ちたくなる間は毎回お念仏のように打つだろう。私の大好きなニュートラル時間帯である。五十鈴川だよりを打つ、このわけのわからない自分といううつろいゆく器ととの、自問自答時間がなければ、きっと自分という器は停滞し、自分の言葉らしい表現を見つけることは、叶わない気がする。

40才で中世夢が原で企画者として、なんの実績もなく採用されてからの、この30年の時間の流れのなかで、時代の極端な変化のなかで、溺れそうになりながらも、なんとかギリギリのところで踏ん張って生きてこれたことの、証がこの度の意外性の企画となって実現できたの出はないかと思える。

ことさらな秘密も、能力もない私だが、なにか突然のお告げ感覚、こっちの方にいっては危ないとでも言うしかない、予知能力のような沸き上がるものがからだの中にあるからこそ、今回の企画もそれにしたがったまで、とでも言う他はない。

そして想うのだ。それはけっして私にだけ与えられたものではないという気がするのである。たまたまそういうことなだけである。自分という存在はいったい全体どこからやって来て、どこへ向かうのかという、永遠の哲学的な問いがあるが、小さな器ではあるが、そのことをきっと、答のない問いを、今も五十鈴川だよりを打ちながら、日々ささやかに打ちながら考えてきたからこそが、この度の企画となって顕れたのではないかと、思える。

10年ぶりの企画ではあるが、この10年間の積み重ねの時間があったからこそ、ある日突然企画することができたのだと自分では考えている。オーバーに言えば世の中に出て、この世の中にもまれもまれ半世紀、自問自答をやめなかったからこその果実がなったのかもしれないと、自己満足的に安堵するのである。

古希を迎えてはっきっりと想う。人生は短いのである。そのことを自覚するにしたがってやりたいことが増えてくるような気がするが、慌てても仕方がないのだ。どこか私はなるようにしかならないし、そのなかでの大切な事柄を見失わない範囲で、まずは生きて、生活しながらての届く範囲から沸き上がる思いを込めて、企画をうてれば幸せである。出会えた素敵な仲間と。

妻が飾った拡大チラシ

居場所と、消え入りそうな希望を求めて半世紀、なんとか辛うじて現在を生きてこれ以上は望めない家族に出会えた。きっと無数の死者のお陰なのだと、最近はとみに思え限りなく謙虚な私である。誰かの見えない犠牲の上に己の命があるのだということを、感じる。だからしっかりと生きてなにか希望がわいてくるような企画を、非力にも殊勝に想うのである。

カテリーナさんが歌ったふるさとが、私を呼ぶ。たぶんGWが終わるまで五十鈴川だよりを打つことはないと想う。暫し小さな旅に無性に出たい。可能なら五十鈴川に向かって巡礼の旅を。


2022-04-26

2022年4月24日、無事にチャリティ演奏会をおえることができました、ささやかに想う。

 始めたら終わりが来る。4・24この日を、私の誕生日と同じように、決して忘れることはないだろう。カテリーナさんをお迎えしてのチャリティ演奏会を無事に終えることができた。まず、当日会場に足を運んでくださった方々に、この場を借りて深い感謝をお伝えしたい。

正直、まだ何も打つ気が起きないほどの余韻というか、よき心地いい疲れ、申し訳ないほどの、けっしてお金では味わえない、やりきった充実感が私を満たしている。幸福感というものは、こういうものなのかもしれない。あらゆる目には見えないきめ細やかな糸の結び付きご縁、タイミング、人間関係の現時点での到達がなければ、このような企画は、きっとなし得なかっただろう、と思う。

宝の記念撮影ができました、感謝。

この場を借りて、当日のボタンティアスタッフ、そしてRSK天神のホールスタッフの皆様、録画してくださったY氏、カメラマンのI氏に対し、この場を借りて感謝とお礼の気持ちをお伝えしたい。裏方の皆さんの無駄のない動きとそつの無さに、安心して木偶の坊の企画者である私は、すべてを任せることができた。こんなにも静かに当日していられたのは初めてである。

先日も打ったと思うが、カテリーナさんとお話ししたのは、わずかに3回しか声を交わしたことがなく、当日10時過ぎの新幹線で岡山駅にお迎えにいってからすぐ天神に移動、進行、短い打ち合わせ、会場作り、受け付け準備、リハーサル、開場、お客様誘導、15時開演、終演16時半、片付け17時、オンタイム。本番前、本番終了後、カテリーナさんはメディアの取材をてきぱきとこなす。すべてを終え、17時58分の新幹線でカテリーナさんは、まさに風のように去っていった。

中世夢が原で、何度も至福感を味わえた私だが、今回の言葉かできない、体と心の喜びは、企画者としての喜びという他形容がない。当初入場予定120名の客数でスタートしたのだが、予想を遥かに越える175名の方が足を運んでくださり、スタッフ関係者を含めれば、200名の方がカテリーナさんの歌と演奏に聴きいってくださった。

今回のチャリティ演奏会、なにをもって成功した企画と呼べるのかは自分でもよくはわからないのだが、自己満足的に言わせてもらうなら、カテリーナさんの歌と演奏が、当日集ったお客様や、関係者の心を溶かして、えも言えない空気感が開場を満たしたことの真実を、企画者として見届け、立ち会えたことの企画者冥利、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

3月10日、横浜で生でカテリーナさんの歌声と演奏を聴き、ざわついた私は、すぐ岡山での企画を実現すべく、指切りの約束を交わし結果実現ができたこと、まさに夢のような出来事という他はない。24日の朝も打ったが、生きていることは私にとっては夢うつつをいきることがないと、なんともつまらない人生とでも言う他はない気が、古希を迎えてもおさまらない。

生きる意味、今を生きている私自身の唯一無二の大切な価値とはいったい全体なんなのだろう、ということを、カテリーナさんの歌声、お母さんのマリアさんの歌声に耳を澄ませながら想った。その声の中に秘密がある、その声が導く方にこれからの人生時間を歩みたいと私は今考えている。

これ以上は野暮だから打たない、カテリーナさん36才、ウクライナの歴史、民族、大地が生んだ歌姫の叫びと囁きを企画できたこと運命を感じる。ウクライナはなぜか私に灯をともす。か細い企画者ではあるが、素敵な仲間と次なる大地の花に出会うべく、ささやかに老いつつ努力を楽しみたい。


2022-04-24

2022年2月24日の朝に想う。

 2022年4月24日の朝が来た。ちょうど2か月前、3000キロも離れているウクライナという国に、よもやまさかこのような戦争を、ロシアが侵略を始めるなどという異常と言う他はない事態が、出来するとは、平和に体も心も弛緩していた我が身には、気が動転するほどの驚きだった。

その事が、結果的に企画者としては引退して、他の事に情熱を傾けていた生活に埋没していた古希を迎えた私を覚醒させた、のだと想う。企画をやるときめてからのこの2ヶ月は、自分のなかでは、ずっと自分との戦いのような感覚を生きてきたかのような時間であった。(まだ終わってはいないのだが)

2月24日に始まった侵略戦争はまだ終わってはいない。一日も早い停戦をと、多くの日本人が望んでいると想う。私もその一人としてウクライナの音楽家を招いてのチャリティ演奏会を企画し、今日実現するところまではこぎ着けてきてきた

さて、今日の演奏会を前にして、企画したものとして言うに言えないこれまでの人生でかは経験したことのないおもいが、私の心のなかにはある。その事を言葉にするのは難しい。ただなにかアクションを起こしたいという一念での時間がこの2ヶ月の私を支えていたことは間違いない。

結果的に、アクションを起こしたこと、起こせたことの結実の一滴が今日実現することの、意外性という他はないこの日を迎えられた喜びを、なんとしても五十鈴川だよりに打たずにはいられない。中村先生の人は信ずるに足るという言葉が今も私のなかで響く。

今回の10年ぶりの企画は、限りなく私を謙虚にさせ、驚くことの連続で今日を迎えた。こんなに短い時間で実現にこぎ着けた企画は始めてである。なぜこんなにも、大変ではあったが事がスムーズに運んだのか。一言多くの目に見えない方々を含め、今回の企画を支えてくださる、応援してくださる方々に、私が恵まれたからである。

おはようナーム

私は、ただ声を挙げたのに過ぎない。その声に続く声の支援が続々と私の耳に届き、日々今も私を謙虚に活性化させているのである。意外な人といったら大変失礼にあたるが、ほとんど疎遠な方々からの、応援支援がこんなにも寄せられた事に、正直私は驚きを禁じ得ない。

長くなるので簡潔に打つが、企画をすること、企画が打てることにはことさらな秘密は何もないということを、企画することで改めて私は知らされ教えられている。不謹慎を承知で打つが、企画をすることは大変であるからこそ、おもいもかけないことが起こるからこそ続けられる、のだ。面白いのだ。

今回もまったくそうである。自主企画は仕事ではない。真剣な遊びである。その遊び心を支える、無謀かもしれない遊び心を理解してくれる仲間がこんなにもいたのかという驚きが今回ほど染みたことは、初めてである。

世阿弥は初心忘れず、という言葉を残している。老いの花という言葉も残している。その謎のような言葉は、今だ私を夢うつつに現をぬかす、のである。生きていればこそ、夢を見ることができるし、夢を見る力を日々養うことが、養生なのかもしれない。

ともあれ、私の企画を支えてくれる多くの方々、スタッフに、この場を借りて感謝します。

PS 倉敷に【おはようナーム】というパン屋さんがある。数十年中世夢が原での打ち上げで、たくさんの天然酵母の美味しいパンを差し入れてくださっている。昨日夕刻、お言葉に甘え久方ぶりの私の企画を支える、ボタンティアスタッフのためのパンをいただきにいった。戸板さん、みかさん、ありがとう。


2022-04-23

ウクライナが生んだ国民的詩人、シェフチェンコの詩を翻訳した藤井悦子さんの記事を読み想う夜明け前。

 昨日の朝刊を開いたら、いきなりウクライナの【国民的詩人シェフチェンコ】について書かれた大判の記事が目に飛び込んできた。今回の企画で私はこの詩人の存在を知り読んでいる最中だったので、すぐに読んだ。

翻訳者の藤井悦子さんへのインタビュー記事である。今年79才になられる藤井さんが、シェフチェンコを知ったのは、なんと19才であるととのことである。そこからまるでとりつかれたかのように、シェフチェンコの詩にとりくまれ39才にして大学院に復学、翻訳に挑む、苦節十数年のはて、シェフチェンコ詩集を出版したのが1993年、藤井さんは50才を過ぎていた、とある。

藤井悦子さんの記事

帝政ロシア時代に農奴の子として生まれた、ウクライナが生んだ偉大な詩人シェフチェンコのことを、私はまったく知らなかったが、たまたま今回の企画でウクライナが生んだ、民族の独立と尊厳の象徴であるシェフチェンコのことを知ることができたことは私にとって本当に大きいと、今五十鈴川だよりを打ちながら思い始めている。

こんなにも激しく肺腐をえぐるように、叩きつけるように、あまりの不条理を言葉で表し、まさに民族の誇り、魂を刻み付けた詩人の存在を初めて知った。シェフチェンコの詩はなんと今を生きる現代の異国の私にも限りなく勇気をあたえてくれる。

人間の尊厳とか、うんぬんかんぬん、現代でもよく聞く言葉ではあるが、私などはその言葉を聞くたびに、なにがしかの空しさに教われること度々であった。だがシェフチェンコの詩の言葉には度肝をい抜かれるかのような、真実の叫びが、悲しみが、痛みがつきせぬ泉のように溢れていて、老いつつある今の私の胸を打つのである。

死を賭して人間としての尊厳を、言葉でうち綴ったこの詩人の存在を、今回の企画で知り得たことの幸運を、五十鈴川だよりをうちながら噛み締めている。真の詩人の言葉は弱者に限りない勇気を与えてくれる。シェフチェンコの詩は苦境にあるすべての人に勇気と希望を与える。すごいとしか言いようがない。コサック魂が炸裂している。

今後、私は生きている限り手元に置いて繰り返し読み、音読したい。シェフチェンコの言葉は私の弱い精神を鼓舞してくれるに違いない。

それにしても、このような詩人を産み出すウクライナという風土、民族性に鋭く感応し翻訳して詩集として出版してくださる、藤井悦子さんという存在に私は深く感動を覚える。こういう地味としか言いようがない立派なお仕事をされている方が、おられるということに、限りなく敬意を覚える、のだ。

お金にもならない仕事に生涯を費やし、翻訳して伝えてくださる方の存在にたいして私は深く頭を垂れる。手術後、以前はあまり感じなかったことに、気づき始めている自分がいる。その事がたぶん企画をさせているのだと想う。企画は企画を生み、出会いは出会いを生む。ちょっと恥ずかしいが、それは老いつつも生まれる新しい自分との出会いでもある。

2022-04-22

人は出会いと別れを繰り返し、それぞれの居場所で生きる、そのようなことを想う朝。

いよいよ明後日に迫った。 秒読みにはいったなあ、という感慨が今朝の私にはある。朝といっても私にとってという意味で、ほとんどの方は起きてはいないだろうが、もうこんなに早くから、五十鈴川だよりを打っている私とは、いったい何者なのだろう。なにかが私のなかに棲んでいて、たぶんそのなにかが闇と静かな時間帯に、交信を迫るのだ。

もう本当に何を打つのかなどはとんと考えたこともない。あるがままに、わが体のなにかが流れてゆくように一文を綴れることが、精神の健康法として欠かせなくなってきているのは、まず間違いない。毎日打つのは大変だという気もするが、たぶん24日を終えるまでは打ち続けるだろう。終えたら少し休むだろう。

一晩休んでいるからこそ打てるのだ。明らかに昨日の体、一月前の体、二月前の体とは異なっている感じはあるが、企画を発心してから当日を迎え終えるまでは、ピーンと意識が起きていて張りつめてはいないが忘れてはいない。終えたらきっと暫し放心状態になるかも知れない。がそれもまたよしである。

妻が生けた我が家の撫子

話を変える。今回意外なかたからの応援もあれば、まったくとんちんかんな、人の痛みを想像できない、こういう方とは人生であまりご一緒したく思えない方からの応援もいただいたりして、内心複雑な気持ちになったりもする。

なん十年も、付かず離れずほどよき関係性が持続するのは、よほどなにか目に見えない糸で結ばれていると言う他はないのだが、こちらはもう違う次元に向かっているのに、昔の私とのご縁関係から抜け出していないかのような御仁がおられるのには、ちょっと閉口するのだが、こればかりはいかんともしがたく私を困らせる。

それぞれがそれぞれの人生を歩むしかないのが、言わば摂理。いざというときの行動や発言によって、その人の普段は表に見えない面が見えたりしたときに、興醒めしたりすることがある。とくに私のように、人を見る目がないそこつ者は、多々そういう経験を今もしている。

もうあまりそういうことには関わりたくない人生時間を、古希を節目に私は送りたいと、今はっきりと五十鈴川だよりに打っておきたい。単純なことである。続く関係性は続き、疎遠になる方とは疎遠になる。ただそれだけである。

それにしても想う。人間とはかくも意外性に満ちた面白き、悲しき、寂しき、そして悲喜こもごもいとおしい存在であるかということを、今回の企画でおもい知らされている。ウクライナという国の響きは、限りなく島国に育った私にはどこか魅力的に響く。それがなぜなのかはわからないが、今回古希を迎えて10年ぶりにウクライナの音楽家、カテリーナさんを企画できたことは、きっとこれからの人生時間をささやかであれ、豊かにしてくれることは、間違いない。

人は出会いと別れを繰り返し、螺旋状に進む。たとえ波長が響き合わなくなったとしても、それぞれの居場所で生きられればそれにこしたことはないと私は考える。人は孤独を抱えて自立し、他者との響き会う存在、関係性のなかで、適度な距離感を保ちあえるのが今のところ私には一番望ましい。それは夫婦、親子関係でも同じである。一回生の時間、瞬時の旅、いかに生きるのかは各々考えるしかない、だから打ちつつ考えるのだ。


2022-04-21

3ヶ月に一度の定期検診で、手術してくださったM先生に激励され、そして想う。

 昨日午前中、3ヶ月に一度の定期検診に行った。(ただひとつを除いてすべての数値は正常値今の数値を維持して行きましょうとの検診結果のお言葉だった)手術後M先生にお会いするのは4回目である。血液検査をしてその結果を聞くだけなのだが、何しろ私の命を救ってくださった方なのだから、特別な方なのである。なんというのか話し方に人間味、暖かみがあるのである。手術した翌日は何度も、部屋にやって来て私に声をかけてくださったことに、私がどれだけ助けられたか計り知れない。(筋肉が落ちるから辛くてもあるけ歩けと、鍛えられた)

計3度の手術のあと、結果この年齢にしては順調過ぎるほどに回復して、現在を生きていられるわけだが、現代医療がかくも進んでいなかったら、私はとうに今ごろ黄泉の国の住人になっていただろう。まして古希を過ぎたのに、10年ぶりに企画を一年後発心するなどと、誰が予想し得ただろうかと考えると、自分でも人生のあまりの紆余曲折的な意外性に満ちた展開に、私はなにかしら、お導き的なおおいなるものの存在、いかされている私自身の今を天に向かって感謝するのである。

おおらかな昔話、ウクライナの絵本

昨日の診察で、ちょっと嬉しかったのは、M先生がいきなり私の顔を見てこないだテレビに出ていたでしょうとおっしゃっり、いやあ感動しましたよと、先生からお声をかけてくださったことである。

正直よもやまさか、忙しい先生が夕方のNHKを見ているなどとはおもいもしなかったし、声をかけてもらえるなどとも思わなかったので、ちょっぴり私にとっては嬉しい出来事になったのである。

私はたまたま持っていた、ウクライナのカテリーナさんのチャリティ演奏会のチラシを先生に渡した。先生は、チラシに何度も見いってくださり、今の調子で健康管理して日々の暮らしを送れば、まだまだ企画できますよと激励し、よい企画をしてくださいとおっしゃったのである。

私としては手術してくださった命の恩人に、偶然そのようなことを言われ照れてしまったが、なんとも言えない生きていればこその嬉しさが込み上げてきた。M先生は今回は無理かもしれないけが、折りあればゆきたいとまでおっしゃってくださった。企画をしなかったらこのようにお声をかけていただくこともなかっただろう。

今回の企画ほ、久しく縁が途絶えかけていたいろんな方々との復縁企画に、結果的になってしまいそうなのだが、この事のありがたき重みは、限りなく私を謙虚にさせ、今後をどのように生きてゆけばいいのかの、限りなき道標になる気がする。

命は与えられたものである。自分が作ったものではないとの言葉を、とある哲学者が語っていたと記憶する。私はきっとその言葉を今後絶えず反芻しながら考え続け、五十鈴川だよりを打ちながら、怠惰さを反省しながら、なにがしかの企画を続けたいと念じている。

2022-04-20

地獄の黙示録から目をそらさず、五十鈴川だよりをうちながら思考する静かな春の朝。

 もう4月の下旬、24日まで秒読みの段階である。夜9時以降のテレビ他いわゆる画面をほとんど眺めない暮らしを続けてもう何年になるだろうか。とくにこのところの、手術後の一年はますます、画面を眺めないようになってきているのは、明らかに老化現象なのだろうと言う気がしている。

世の中の移り変わり、時代のすう勢、流行りもの、ファッションなどなどに、とんと興味がなくなり、どこかでは不味いとは思わないでもないのだが、限りなく自分に正直に存在してゆきつつ、ある日突然宇宙の塵と化したいと願う私としては、どこかで今の生活に満足しているのである。

ただウクライナでの世界を震撼とせずにはおかない、核戦争にも及びかねないほどの非常事態にたいしては、老いのみを忘れて、一人の人間としてノーの声を挙げないと、一生悔いが残ると、取り組んでいるだけである。

ウクライナの絵本素晴らしい

この世に存在する信じられないほどの、ほとんど生きた情報として日本のお茶の間には届かない世界の民の困窮者のことを想うと、我が身のあまりのつつましくも充たされた生活に安住していていいのかと言う、うちなる声が微かに聞こえる。

たぶん、その限りない後ろめたさの自覚が私のなかにあるからこそ、今回の10年ぶりの企画を発心したのだと想う。この年齢になって今さらに想うことは、無知の世界に安住し己の世界ばかりを正当化する愚者たちのあまりの、無責任な大人、とくに政治家財界をはじめとするこの半世紀の日本の大人たちの姿を、見続けて来た私は、ああはなりたくないと言う、おもいをどこかに抱きながら今も生きている。

話を変える、手術後のわたしは、再び命が与えられたのだとの思いをどこかに感じながら、その事に感謝しながら日々の生活を送っている。あの管をぶら下げての入院生活のこれまでの人生で味わったことのない、わが命と向き合った時間は、今思えば宝と言う他はない。

生きているだけで、歩けるだけで、家族があるだけで、もう十分なのである。以来現世的欲望は限りなく減り、現世ではなく限りなく死者の側から物事を考えるようになってきている今、ウクライナでの戦争が起こり、今も続いているのだ。だから考えるのだ、なにができるのかと。

なぜ、かくも不条理に満ち満ちた世界は終わらないのか、朴念人の私には遠く理解が及ばないが、無関心無知こそが悲劇の根底にあるのではと、思えてならない。それと愛と想像力の欠如。自分の大切な人の命が奪われたら、いったい全体自分はどうなるのかと言う感覚の欠如。

たぶん、ウクライナでの戦争が出来しなければ、古希を迎えたこの体で、こんなにも五十鈴川だよりを打つことはなかっただろう。平和でなければ演奏会など企画できはしない。ウクライナの劇場や、病院や、学校、人間生活には欠かせない建物が、インフラがかくも無惨に破壊され、人々は命を抱えて地下での困窮生活。麻痺してはならない、明日は我が身にも起こりうるのだという事を。

それが普通に想像できなくなったら私は企画はやめる。地獄の黙示録が迫っているのではというという危機感、それが杞憂であってほしいと願わずにはいられない。

2022-04-19

今回の10年ぶりの企画は、これからいかにいきてゆくべきかを、私自身に問いかける。

 小さきは・小さきままに花を持つ・庭の小草の静けさを見よ。亡き父が好んだ歌だが、この季節になるとよく思い出すし、この数年のコロナ渦中、閉塞感渦中、そしてニュースのかなりがウクライナの報道で加熱する今、平衡感覚を持続し失いたくはないという、アンチ感覚も働きながら、今現在ウクライナで起こっていることの、全体を身体的に把握するのは、私には無理である。どうしても悲惨さの一方的な報道に終始してしまう。その事に関しての一抹の不安もまた、どこか私のなかにあるということもまた、誤解を恐れずに打っておきたい。

ただ私はどちらがどうのという戦争の大義そのものが、まったく信じられない。困窮におかれる側、極めて普通の私のような大多数の民の側から、理不尽極まる殺戮暴力にたいして、嫌だと声をあげ続けている、初老男というにすぎない。深い論考や大所高所にたって発言しているのではまったくない。

ウクライナの絵本、素晴らしい

まだ言葉や考えを持てない子供や、ご病気の方や、お年寄りや、あまたの弱者の側からの、極めて普通感覚の、常識的発言を打ち続けているだけである。このような非常時戦争報道がが2ヶ月ちかくも続くと、感覚が麻痺してしまうのが、やはり一番恐ろしい。だから麻痺しないように心かけている。そのための方法は打たない。自分のなかで静かに行えればいいことだからである。

これはあくまで自分の問題なのであるから、もうこのことに関しては努めて打たないことにするが、弱者の、罪もなく不条理に命を奪われる人々の声を、五十鈴川だよりを打ち続けられる間は忘れたくははない。

そして、その事に関してささやかに、世界の痛みに関してどこかで共感力を失っていない感性感覚を持続している方々と、どこかで繋がりあえたら、と想うのである。自分がされたら嫌なことは他者にはしないという、ただそれだけという単純極まる思考の持ち主の私だが、世の中はまったくそのような常識感覚が通じない方向へと、いつのまにか流れていってしまっているのでは、ないかと単細胞初老凡人は危惧するのである。

炭鉱のカナリアという言葉がある。知らず知らずのうちに危機を危機と感じられなくなるのがいちばんの危機ではないかと、私などは想うのだが、いかがであろうか。子供の声が、笑顔が、お年寄りの居場所があるような、けっして物質的には豊かでも華美でもなく、なにか平凡さのなかに愛が満たされているような国に私は棲みたい。

そういう意味では、我が国はだんだんと住みにくい。もっと言えばあまり住んでも楽しくははないような国になりつつあるように私には思えるのだが、いかがであろうか。私は今回の10年ぶりのウクライナ人、カテリーナさんの歌と演奏会を企画してゆくなかで、いよいよこれからの私の老いゆく時間を、いかに生きてゆけばいいのか、私自身にといかけている。

2022-04-18

今回の企画は限りなく現在の私を活性化させる。そして想う夜明け前の朝。

 ほぼ一週間を前にして、ほとんどの24日の演奏会の準備を私はともかく、妻が当日の進行表を作ってくれ、それを受付や会場作りのボランティアスタッフに送り終えることができた。あとは本番を持して待つだけである。

野暮を承知で少しだけ打つが、毎日ではないが妻はまだ働いている。その合間をぬって そばで24日に向けてあれやこれや、このところ知恵を絞る姿を目の当たりにして、長年連れ添ってきてあらためて想うのは、我妻は仕事が出来る人なのであるということだった。

初めて手にしたウクライナの詩人

当日を除いたら、若干のチラシ配布以外、ほとんど家族でことを進めることができたお陰で、緊急企画をここまでの早さで漕ぎつけることができたことは間違いない。まだ終わってはいないが、10年ぶりに企画のスイッチが入ったことで、おおよそこの2ヶ月近く、責任が伴うことを発心したがためにギリギリの判断、決断の繰り返しで、私の精神と体は嫌でも活性化せざるを得なかった。

正直、不安がよぎらないことがなかったと言えば嘘になるが、今もだが、その度にウクライナの民のことを、子供の顔、孫の顔を思い浮かべ叱咤激励、己に今もカツを入れている。多くの方からお便りで、電話で、メールでお疲れのでないようにとの温かいお言葉をいただいている。

確かに疲れてはいるが、変な疲れではなく、気持ちのいい疲れなのである。よく眠れるし、起きてしばらくもたたないのに、このように五十鈴川だよりをうち続けられる、のも不思議である。先日も打ったと思うが、一見表面は異なるかのようにも写るが、企画をするのも肉体労働をするのも、本質的には同じことをやっているというのだという自覚が私にはあるし、その事がまた、どこかで現在の私自身を支えている。

ささやかに企画することも、草を刈ったりすることも、多少は自信があるし、きっと好きなのである。好きこそ物の上手なれというが、私がいろんなことを思い付くのは、体を動かしているときか(行脚歩行も含む)、寝起きか、真夜中の闇のなかでの沈思黙考時間帯である。

この思い付くことの喜びは、なに事にも代えがたい。退職した際に思い付いたシェイクスピア音読を再びやろうと思ったときもそうだったのだが、なにかを手放すときにいつも私が思うのは、それまでのことをしっかりとやっていれば自ずと、次のステージがどこかに用意されているということである。

コロナでいきなりシェイクスピアの音読が叶わぬことになったとき、残念ではあったが、これまでの人生で、もっともっとの困難を潜り抜けてきた経験が私をささえたのだ。災い転じてではないが、生きている命を大事に人にどう思われようが、こつこつ自分を信じて歩んでいればどこかの誰かが見ていて、手を差しのべてくれるということの重みを、今回ほどおもい知らされてていることの感謝は例えようもない。宇宙のはたてに向かって静かに手を合わせる。

話を変える。コロナ渦中昨年7月に生まれた孫の動画が定期便のように次女から送られてくるが、その成長には目を見張る。老いつつある渦中の今、孫たち未来の世代のことを、今回の企画は嫌でも考えずにはいられない。何が出来るのかできないのか、思考し続けないと次なる何かは微笑んでくれないだろう。

一昨日、Kさんが選んでくれた、当日ロビー閲覧コーナーに展示する、ウクライナに関する書籍(主に絵本)のリストの一部を図書館に行って借りてきて読んでいる。みんな初めて手にする本ばかりである。これがまた素晴らしい。思い付いたが故の果報である。企画しなかったら、ウクライナが生んだ偉大な詩人シェフチェンコの詩集を手にすることは、なかったかもと想うと、企画することの重み、ありがたさを実感するし、シェイクスピアで鍛えた音読で、声に出して読みたいという虫がうずくのは、老いてみてこそわかるというしかない世界へのお導きではないかと思える。

ロシアが生んだ偉大なチェーホフ、ウクライナが生んだ偉大なシェフチェンコ、音楽も含め芸術や大地は地続き、国境はない。お日様、雨は巡りめぐってすべての作物を育て全世界の民の胃袋を満たす。自分だけが、自分の民だけが、幸せであればいいのだという発想は愚の骨頂、野暮の極み、笑顔の民が存在しないような国を、音楽や素朴な歌を歌う、歌える民がいないような国を私は旅しようとは思わない。平和は厳粛でかくもありがたく尊い。



2022-04-17

カテリーナさんと3回目のお電話が叶った翌日の早朝に想う。

 昨日夜、カテリーナさんとなんとか連絡がつき、これで安心して24日のチャリティ演奏会を迎える目処がたち企画者としては、安堵し普通の人よりはずっと早い朝を迎えている。日曜日なのだし、もう目覚めたときが私の起床時間とかしている初老男の生活なのである。つまりは自分流生活を、ただ単に実践しているだけなのである。

カテリーナさんとお声を交わしたのはわずか3回である。横浜で岡山での演奏会を依頼したときと、チラシを作るための写真の件でお話ししたときと、昨夜当日の岡山入りの到着時間他の件で。なかなか連絡がつかず、正直少しやきもきはしていたのだが、企画を横浜で決めたときから、どこか腹をくくっていた私とは異なり、演奏会当日の受付をしきり、進行表作り他細部を詰めないことにはどうにも困る妻の心労はピークに達していた。

妻が創案したチラシチケット

少しでも妻の心労、負担を減らすべく私はさすがに昨日は電話を何度もカテリーナさんにかけた。ショートメールも着信拒否、困った。なんと横浜の演奏会場でお会いし、いただいたウクライナ大使の名刺の携帯に困っている旨の留守録を吹き込むことまでしたのである。

するとしばらくして大使からお電話をいただいたのにはこちらが驚いた。つたない英語でのやり取りをしたのだが、大使はわかったといってくれたのには感動した。極めて普通感覚の持ち主であられたことに。一気に私はウクライナ大使に親近感を持った。

話を戻す、カテリーナさんと3回目の電話でお話ができたのは午後7時過ぎ、私が留守録を入れた(通信拒否は消えていた)直後折り返し電話がカテリーナさんから電話が入り、一気に当日のことの不安のあれやこれやが片付き安堵したというわけである。

長くなるので、終わりよければをよしとする私としては、細々としたことは抜きにしても、ウクライナでの戦争が勃発してからというもの、すごいスケジュールをこなしていることが電話の向こうから伝わってきた。だから努めて彼女の負担を減らすべく、ただ黙って彼女の新幹線岡山到着時間を知らせてほしい旨と、必須事項を伝え電話を終えた。

明らかに非常事態渦中を、一人のウクライナ人として必死に活動されている大変さが、引きも切らぬあらゆる電話がかかってくる大変さが伝わってきたので、早々に電話を終えた。でも私も妻も本当に安堵した。声には人柄が顕れる。横浜で言葉を交わしたときとまったく変わらない彼女のお詫びの言葉を聞いて、私としては労りの言葉をかけ、元気に岡山に来てほしい旨だけを最後に伝え受話器を置いた。

契約書もなく、ただの指切りでの約束での演奏会以来を、快く引き受けてくれた当日のことを私はけっして忘れないだろう。企画をすることは人間を信じることであるとあらためて思い知らされた。

2022-04-16

チャリティ演奏会24日まで、もう後わずか一週間前の土曜日の朝に思う。

 嬉しい土曜日の朝である。70歳のいまも元気に労働し、からだが動き、美味しくご飯がいただける。大切な家族があり、大切な友人が、知人がいる。くだらないことを自由に言いあえ、困ったときにはいろんなことを相談できる人がいる。在りがたい、その事の重さが今回の企画をささえている。24日までもう後わずか一週間。じっとその日を待つ。気は抜けないが、私のいまの気持ちは静けさに満ちて穏やかである。ほぼ毎日ウクライナのことを想う。

18才から世の中に出て、お金にはとんと縁のない暮らしをし続けたお陰で、お金を大事にしか使えない暮らしを、ほぼ半世紀続けてきたお陰で、もっと書けば幼少の頃からほとんどおこづかいももらえないような家庭環境を生きてきたがために、嫌でもお金を大切に使う、使わざるを得ない、言わば耐性感覚、修行感覚のようなものが、未だに私には色濃く残っている。

深く考えるあれやこれやの石橋型ではけっしてこのような企画は打たないだろう。生きるための生活の糧の大部分はいまも、自身の肉体労働によって成り立っている。地に足のついた生活の果てに、時おり老いゆく我が身にかなり負荷のかかる企画を打つのは、かなり骨であることは充分に承知しているが、いまやらずどうするのだといううちなる声が、からだの中で沸き上がるのである。語弊を恐れずに打てば、重い荷物のあれやこれやを自分に課して、抱えての企画こそが、面白いのである。通じ会える仲間とのマイノリティ企画をこそが、毛細血管企画をこそ私はやりたいのである。

22年前東インドで求めたハクシャさんの絵

コロナ渦中なのでこの数年、大好きな旅もほとんどしなくなった、できなくなったがために、お金を使うことがない生活を私は送っている。だからというわけではないが、いざというときに動けるお金、ささやかな私は余裕があるのである。無謀な若さはないが、無謀を支える余裕はあるのである。だから企画するのだ。

そして何よりも普段から考える余裕が、とくに術後あったがために今回の企画を発心できたのだと思える。すべては青空の下での肉体労働のお陰なのである。その事は私が一番承知している。風通しのいい体からしか風通しのいい企画は浮かばない、思いつかないのだと改めて思うのである。

きっと中世夢が原の企画も星空、青空のしたで働いていたからこそ企画が実現したのだと思う。オーバーではなく、小賢しい私の頭ではなにも思い付けなかった、きっと天が味方し、見えない死者の霊が私の背中を今も推してくれているからこそ、きっと企画が打てているのだ。

充分に若くはない私だが、ありがたいことに、この上なく元気で生活を送れている。手術後、一切お酒を口にしなくなったので、ますますお金が必要のない生活へとシフトしていっている。運気の歯車、すべてのタイミングが揃わないと今回のような企画は、天が私にもたらしてはくれなかったのだと、目には見えない摂理の奥深さに謙虚になるのである。

ゆったりと落ち着いた、精神的な余裕のない生活からは(お金のあるなしではない)、他の方は知らないが私には企画は打てない。企画をするということは、動いて他者に働きかけ思いを伝え共感していただくことにつきる。私の企画をこんなにも支持してくださるかたの存在の多さに、嬉しく正直驚いている。

あだやおろそかなことはできないと、天ノ下で反芻するのである。。何よりも頭とからだ、想像する、意外なことを思い付く、少々やけどするかもしれない企画が打てるのは、多くの支えてくださるかたががいるからである。その方々が勇気を与えてくださる。その方々の存在のお陰で企画が成立する。感謝しかない。

できたレールを細心の注意をもって安全に行うのは、プロのイベント企画会社に任せればいい。そのようなことを私はやったこともないし、やれもしないし、興味もない。私が一番面白いのは、私の人生をより良く生きるために、身銭を使って旅をするかのように企画することである。

未知の世界をおもいつくまま旅するかのような企画である。皮肉なことにウクライナでのあまりにも痛ましい出来事が起こらなければ、私は安穏とした浦島太郎的な静かな隠居生活に埋没していたかもしれない。

2022-04-15

夜明けに近い、真夜中の五十鈴川だより。

目が覚めたので起きた。昨日はさほど激しくはなかったが雨だったので肉体労働はお休みした。たぶん24日のチャリティ演奏会がなかったら、きっと働いていたかもしれないが、風邪でも引いたら嫌なので体をいたわって静かな一日を送ることにした。

こういうところにも、古希を過ぎた自分がいるなあとは思い始めている。つまり無理をしなくなっている自分がいる。これが若さと老いの違いなのだろう。妻や娘のいうことを、きちんと聞いて受け入れる自分が、育ってきているというとおかしいが、山を登っているのではなく、下ってゆく感覚、摂理を受け入れながら、その下山時間に見えてくるいまをこそ、生きている、大事にしたいとの思いの深まりである。
義理の息子S平さんが作った


冷静になって考える。古希でこのような企画を、まして10年ぶりなのに、発心するとは自分でも思いもしなかった。自分でも自分の内的発動の根拠はあいまいで、うまく言葉かできないのだが、何か老いゆく自分のなかに、我が儘な情熱とでも呼ぶしかないものがいまだ蠢いているとでもいうしかない。

一日一日を限りなく人に迷惑をかけず、我が儘に生きてゆく、気持ちよく老いてゆく方法のようなものを、どこか前向きに見つけたいという、老いの足掻きのようなものが、私をして突き動かしているのは、まず間違いない。

還暦を過ぎてからは、限りなく我が儘に自在に、手の届く範囲での生活最優先で生きていた。この先企画するなどということはもうないだろうと思っていた。

静かに、しかしどこか熱く移ろいゆく日本語音読生活に耽りながら生活していたのだが、コロナパンデミック渦中に起きた、魑魅魍魎リアルとバーチャルが混在するまさに今現在進行中の、ウクライナの大地での戦争は、いまを生きる私の現在を、ざわつかせ老いを忘れさせずにはおかない。悪夢のような人類の未来を嫌でも想像してしまうのだ。大義だなんだの理屈はいいから殺戮地獄から目をそらさず、人道的におかしいことはおかしいという、当たり前な感覚での発言をあげる人たちと、私は繋がり連帯したい、と切に念う。

ざわつく間は、なにかアクションを起こし、日々なにがしかを打ち続け、思考の停滞を防ぐためにも、企画者は謙虚であらねばと自戒する。雨音に耳を済ませ、3000キロ先の大地の邦、ウクライナの大地の上でのおぞましき現実を想像するのである。

夜の闇は、初老男の心を鎮め、つたなくはあっても小さき声をあげ続けさせる。

2022-04-14

素晴らしいお便りを頂き、企画することの重みを痛感する夜明け前の、春の朝。

 昨日達筆の筆がきのお手紙をいただいた。ご寄付が同封されていた。どういうお付き合いのかたであるのかは割愛するが、もう何年以上もお会いしていないかたからである。

一言で言えば芸術家、残るお仕事をされておられるかたである。私よりもお若い。私が岡山にやって来てからあれやこれやの企画を、ガンガンやっていたときに、何度も足を運んでくださったかたである。

私がシェイクスピア作品の音読を始め、企画から遠ざかることになって、お会いする回数が途絶えていた。今回の10年ぶりの企画は、すでに何度か打っているが、旧交再開的な意味合いを、結果的に色濃く持つ企画になってしまった、その感慨はおそらく私にしかわかり得ぬものである。

今回の企画は、再会(再開)と新たな出会いを私にもたらす一方で、お別れの意味合いも生じさせた、感がある。それはご病気であるとかいろんな諸事情が、この間の歳月のなかで、嫌でも人生の季節のなかで訪れたがゆえでのことであるからに相違ない。皆歳を重ねる。

風雪はあらゆる人間関係を相対化し、洗い直し非情にも流れ進んでゆく。けっして後戻りはしない。だから、だからこそきちんと日々を大事に送ることの、生活することの大切さを、今さらのように、古希を迎えてわたしは思い知らされている。

今回の突然の企画者復帰は、自分でもどこかあまりにも無謀であるかのようにも思えたのも事実ではあるのだが、言うに言えぬコロナパンデミック渦中での世相の閉塞感が、老いのみを忘れさせるほどに、なにかせずにはいられないほどに、高まっていたのはまず間違いない。

家族のことはおいておくが、私が今回の企画で一番ありがたく、嬉しく感動していることは、かくもこんなに支援してくださる方々が、多くいてくださったのかということへの謙虚な気づきと驚きである。

臆面もなく打つ。わたしは田舎者である(田舎を愛してやまないものである)、田舎の風土が私の感性のほぼすべてを育み、もたらしてくれたのだと痛感する。そしていま深く感謝している。死ぬまでかく在りたいと自負している。要するに田舎の自然への偏愛が私なのである。だから、必然的に育った環境で身に付いた自分らしきものから、限りなく不自由な存在である。だが時代とはずれている私の感性での企画を支援してくださるかたがた、こんなにもいてくださる事実は、私をして限りなく謙虚に希望を育むのだ。。

素晴らしい毛筆のお手紙

(多くの今風の都会的な環境に生きていることを由とするかのような、アスファルト洗練民族、白色蛍光灯民族とは肌が合わないのである。わたしは闇の静けさをこよなく愛する。だからわたしは都会を離れ、限りなく闇の濃い田舎的鬱蒼とした森などのある場所へと、老いる度に回帰するのである)

田舎者的な感性(それが私の宝である)の持ち主である私の企画をこんなにも応援してくださるかたがいる事実は重く嬉しい。ウクライナの音楽家の企画であったことが、こうも熱い反応になったのだとは思うけれど、私のなかの田舎的感性が企画へと導いたのだ。ウクライナに私はどこか懐かしい田舎の風景を感じる。

ともあれ、思考がまとまらないが、今回の古希再出発企画は、これまでの30年間、ささやかに積みあげてきたことが発酵して企画となって結実したことは、間違いない。

2022-04-13

青空の元、祈りにもにた肉体労働生活をしながら、今ここにある幸せを噛み締めつつ思考する、五十鈴川だより。

 この数日春とは思えないほどの陽気のなか、わたしは以前とまったく同じように、古希を過ぎてもフルタイムではないが、肉体労働を続けている。今年の秋にはまる4年になる。

まだコロナも、ウクライナの戦争も起きてはいなかったが、世界の各地では、おそらくこれほどの大規模での戦争ではなかったにせよ、起こっていたことは、日々の暮らしのなかで、実感的にはまったく遠い出来事が続いていたことに、今さらに無関心であった自分をどこかに感じている。

姉が詠んでくれた俳句

ミャンマーが今も大変な状況であることは、おそらく報道されないだけなのではないかと、どこかで思っている。コロナの報道でさえ、ウクライナでの戦争が勃発してからというもの、限られたニュース時間のなかでは報道されない。その事をどう受け止めればいいのか、うちながら、自分という不確かなうつろい続ける、老いた器をかすかに感じている。

よくも悪くも、人間とは視聴率や映像に翻弄されやすい。情報操作やフェイクという言葉がとみにこの数年間、まことしやかに新聞やテレビで目にするが、どこかに平衡感覚でもって、近視眼的にならず、複眼的に考えないと自分でも五十鈴川だよりを打ちながら点検しないと不味いとは思っている。

ひとつのことにとらわれているときには、もうひとつのことは、おざなりになるからである。とはいっても、とにかく今わたしは24日のチャリティ演奏会が終わるまでは、そのことが頭を離れないことはたしかではある。が、どこか頭の片隅で、冷静さを欠いたら不味いという感覚もなくしてはいない。

いっときの熱狂的な報道は、なにかをきっかけにしてかくも報道されなくなるということを、どこかでわたしはこれまでの人生で経験しているからである。そして自分もまたそういう移ろいやすい器であることの惨めさ、をどこかで自覚しているからでもある。

大差ないかもしれないが、自覚して移ろうのと、無自覚で移ろうのとでは、かすかに異なる、と思い込みたいj自分である。だが今は内心忸怩たる気分もどこかに持ちながら、絶対矛盾を抱えながら、ウクライナの映像は私の中のなにかを今も呼び覚まし、人が人を殺戮する愚にたいして、声を挙げずにはいられないのである。

世界の片隅で老後を静かに送るには早すぎるのである。声をあげたからには責任が伴うのは当たり前である。先日も書いたが私のなかでは善いことをやっているつもりはまったくない。中村先生の残された言葉を反芻しながら、爪の垢でも学びながら、ウクライナの地で困窮にあえぐ人々に想いを寄せ、まずは24日を迎えるべく、祈りにもにた静かな青空労働生活を送っている。

2022-04-12

今回の緊急企画は、家族と友人たちとのコラボによって成り立っている、その事の重みを想う朝。

 当日チャリティ演奏会にこられた方々に配布する、ご挨拶文やアンケートなどがほぼ出来上がった。本番2週間前荷である。あらかたはわたしが書いたものなのだが、細部の細かいところは、まもなく生後7ヶ月になる孫のお世話で忙しいはずの次女が作ってくれた。ご挨拶文に、私のプロフィールをいれた方がいいというアイデアも次女のものだ。

次女が作ってくれたご挨拶文

チラシは長女が、アンケート等は次女が、そして次女の夫が私のお願いで、ウクライナに関するほんの初歩的な知識のお知らせを、挨拶文の裏にいれることとなり、その草稿がラインで送られてきたのだが、ありがたくも素晴らしい出来上がりで、嬉しいという他はない、親バカな私である。

そして、今回何よりも電話での予約から、当日の会場、受付での出演者、スタッフの時間割り工程表をすべて統括し、作ってくれているのが妻である。今回は事前に作ったチケットがないために、100人以上のかたのチャリティ入場料を当日いただくことになるので、混雑を避けるために、あいうえお順に名簿を作ってくれたりと、私の知らない妻の思わぬ一面の能力を知らされている。

もう古希を過ぎているから、悔いのないように何でも書けるときに打っておくが、渋々という感じではなく、妻を先頭に家族の面々が至らない私を側で全面的に支えてくれているのである。まさに家族と友人たちとのコラボ企画である。

当日参集してくださる会場作り受付ボランティアは10数名になるが、全員協賛してくださったり、チケットを予約してくださった方々である。なにも語らないが皆さんウクライナのことに関してなにかせずにはいられないかたたちである。

こんなにも日々話し合いながら、妻といわゆる協同作業をするのは初めてといっていいかもしれない。募金箱を始め多種類のアイテムをタブレットで作ってくれているが、片腕としての役割を率先して担ってくれている。辛そうには見えないので、わたしはただただごくろうさんというしかない。

そして昨夜、電話でチラシをつくってくれた長女がやってくることになった。やはり当日コロナ渦中でのチャリティ演奏会のことが気になるし、そしてやはりどこかでこの演奏会を見届けたいという思いがあるからなのだろう。というわけで思ったよりもあらゆることが、静かにゆったりと進んでいて、どこかしら余裕を持ちながらの、ぶっつけ本番になるのではないかと、思う。

だが、何が起こってもうろたえないように、気の弱い私としては当日スタッフを信頼してお任せするするだけである。

2022-04-11

祈り行脚に出た翌日の朝に想う、五十鈴川だより。

 昨日五十鈴川だよりを打ったあと眠くなかったので、春の陽気にほだされたわけではないのだが、今年はお花見もしていないないなあ、する気分にもならない散り始めた桜をしり目に、妻は仕事なので、朝食をしっかりととって夜明け前、一人行脚に出た。単なるウォーキングではなく気分は祈り行脚。結果的にまたもや岡山駅まで歩くことに。

今年になり岡山まで歩くのは4回目である。平均すると月に一度は歩いていることになる。ウクライナでの戦争が勃発してから歩くことを忘れてしまったかのような日々を送っていたが、チャリティー演奏会の集客の目処がたってきたし、意味もなくただただ歩きたくなったのである。

今年になって始めたウォーキングだが、ウクライ

妻が当日に向けて頑張っている

ナでの戦争が始まってからというもの、どうにも落ち着かない日々が続いて、暫し歩くということを忘れていたのである。演奏会に向けても一段落ついたのもあり、歩くことでうちなるざわつきを、鎮めるために、ちょっと長めの距離を歩いた。

家を出たのが、なんと5時20分の夜明け前、水分補給と切り抜いた新聞記事ほかを、バッグに詰め背中に背負い、途中までは初めてのコースをたどり、途中曹源寺に寄り道をしてお参りを済ませ、東山峠を越えてからは後楽園沿いに散り始めた桜の下を歩き、岡山駅についた。

寄り道しても、8時には着いた。いつものようにコンビニで熱いコーヒーをのみ、妻にメールをいれ、8時半の赤穂線で我が家に。駅のベンチと車内で切り抜いた、おもにウクライナに関する記事を読みながら。

チャリティー演奏会を企画してから、なかなかゆっくりと新聞他の活字を読む時間がとれなかったのだが、この土日は精神安定剤を飲むかのように文字をおった。家に戻ってからもしばらく休んで再び活字に触れていると、福山のFM放送のかたからお電話があり、来週カテリーナさんのチャリティー演奏会の企画について電話で出演してほしいとのことであった。

もう集客の目処はたっていても、なぜこのような企画を発心したのかについての思いなど話ししてほしいとのことだったので、軽い気持ちでお引き受けした。何せラジオのインタビューを受けたりするのもすべてが10年ぶりのことなので、浦島太郎の私としては先のNHKのF記者と同じように若い世代の方との語らいの時間などは普段の生活ではなかなかにもてないので、出ることに決めたのである。出会うのである。

出演依頼のお電話も丁寧で真面目にしっかりと受け答えのできるかたであったし、何よりも企画者の端くれとして思うのは、在野で勇気をもって新しい企画を地方でもガンガンやる、若いかたが出てきてほしいとの強い私の思いがあるからである。

企画を実現するには、お金がいる、時間がかかる、一人ではまず無理、他分野の人と交渉する力がいる、あれやこれやの煩雑極まる手続きがいる。忍耐力、そして何よりも普段から素敵な人と出会えるための準備のような生活をしていないと、まず難しい。感性のアンテナを磨き続けるしかないのだ。もっと打つなら自分がみずみずしくなければ、みずみずしいバネがなければ、企画は叶わないのである。もう十分にみずみずしくはない私を、どこかで私は自覚してはいるが、まだ枯れてはいない。だから企画行脚するのである。

正直、もう私の出る幕ではないという想いもどこかしらにはあるのだ。だが、戦争が続いているのだ。大規模な一歩間違えば、人類の危機にまで及びそうなまでの、展開にややもすると陥りかねないほどの出来事が、3000キロ離れた地域で続いている恐怖の人々のことを想像すると、老いたの何だとだのいえない、私がいるのである。

まさに行脚のあとに、このような出演依頼が舞い込むのは不思議である。やっぱりなにか祈りにでもにた行動が、呼び水にでもなっているのではと、感じるのだ。アクションは動くことでもあるが、じっと書いたり、思念することもアクションだと私は思う。演奏会まであと2週間、時は流れその日は来る。それまで安寧を祈る生活を続け、微力を尽くすだけである。

レディオ備後には14日、夕刻17時45分から10分間出演する、有り難いことだ。

2022-04-10

桜が満開の春、無数の死者たちを追悼する演奏会を企画しないと、私の心は晴れない。

 一気に5月のような陽気に包まれている昨日であったが、今日も暑くなりそうである。普段アウトドアで働き、たぶんに普通の人よりは紫外線を浴びているはずであるから、土曜日曜は努めて、インドアの生活を心かけている。

やはり年相応に老いてきているのを実感するのは、昔と違って現世的な欲望や嗜好品的なものに、とんと執着しなくなってきつつあるような気がしてどこか不味いなあとは思っているのである。だが、今回のカテリーナさんの企画では、老いつつある自分がまるで、10年若返ったかのような動きを体も心もしているかのような自分だが、錯覚であってほしい。

何せ、10年ぶりの企画であり、10年ぶりのチラシ配布などをやっていて思ったのは、明らかにアナクロ的で、もう自分はまったく時代の表の渦中には、存在していないとでも言うしかない厳然たる事実である。だが、である。このような私の思い付きや行動をこのようにも、応援したり、陰で支えてくださってくださっているこの事実は、いったい何なのだろうといった感慨もまた新たに、予期しなかった新鮮な出会いが、老いの体に潤いを与えてくれている。

つくづく思うのは、昨日も打ったが、生きているからこその果福とでも言うしかない喜びを、今回の企画は改めて私に教えてくれている。10年間のブランク、その間に時代の様相はすっかりと様変わりしてしまったのだが、そして私はどこか厭世的な気分で静かに青空のしたで生活していたのだったが、皮肉にもロシアのウクライナ進攻は、古希男の眠っていた血をどこかで呼び覚ましたのだとしか思えない。

ちょっとオーバーワークではあるとおもいながらも、白昼夢でも見ているかのような映像、を見てしまうと、いまだ私の心はどこかしらが疼くのである。だからなのだろう、五十鈴川だよりを打ち続けるのは。生物兵器、化学兵器、最後核戦争にまで万が一及ぶことになったらと、老婆心的な、悪夢の到来は死守しないと、決定的に不味いという老いの本能が、不安が五十鈴川だよりを打たせるのである。

今朝を生きる

そのようなことはすべて杞憂であってほしい、杞憂であらねばならないという内なる不安が私をして、アクションに駆り立てるのである。人間はかくも戦争という病に取りつかれているという他はない。他者を殺して痛め付けて平気で生存できる感覚は、悪魔の所業である。

満開の桜の下には、無数の死者が眠っているという。ならば一人夜桜、無数の死者たちに想いいを馳せ追悼するチャリティー演奏会をカテリーナさんをお招きして企画しないと、私の心は晴れないのである。

2022-04-09

チャップリンの言葉に今現在も励まされる春の朝に想う。

 今回のカテリーナさんのチャリティー演奏会は、全面的な家族の支援がなかったら、実現はしても、このような嬉しいと言う他はないほどの喜びの10年ぶりの企画は決して成就しなかったであろうと(まだ実現してはいないが)思う。

臆面もなく打たせていただくが、娘たち夫婦始め、分けても妻の献身的なサポートには驚いている。身内のことなので野暮なことを打つのは控えるが、予約の電話が入り始めてからの対応は、私一人ではきっと無理であったろうと思う。まったくの個人的な思い付きの自主企画なのであるから、スタッフが全員ボランティアである。

つたなくとも、ささやかであれ、生き生きと創造的にチャリティー演奏会に関わってくれている家族の存在は、親バカを通り越して親元を離れてからの彼女たちの成長を改めて私は知らされている。もっと打っておこう。このような娘たちと今回の企画を通して、共通のおもいを共有できたことの意外な展開の深まりに、感無量なのである。

沖縄の桑江良健氏の絵画

今回のカテリーナさんの企画が無事にすんだら、古希の喜びを書きたいという気持ちである。いまはまだそのような余裕はないが、こと家族に限らず、今回は音信が途絶えていた意外な方々との旧交が新たに始まったことも、私にして見れば奇跡的にも思えるほどの、老いてみて初めてわかる実りの喜びとでもいう他はない。意外な喜びが日々何らかの形で訪れている。その事が今現在の私の精神と体にどれ程勇気を与えてくれていることか、計り知れない。

このようなことは企画しなかったら、金輪際このような旧交再開は、私の人生には訪れなかったことはまず間違いない。そのようなことを思うとき、チャップリンの言葉が忽然と甦る。人生でもっとも大切なもの、家族友人、少々のお金、そして勇気であると。

途方にくれていたとき、二十歳のときに読んだチャップリンの自伝は(中野好夫訳)その後の人生の折々で私を助け、いまもまた私の脳裡をかけめぐる。

ウクライナの艱難辛苦を生きておられる方々のことを思うとき、我が身との状況のあまりの相違に、時おり忸怩たる思いに駆られる。我が世のはるだけではどこかしら心が痛み、申し訳ないのである。

2022-04-08

一月以上、五十鈴川だよりを打ち続けて想う、春の朝。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 ほぼ毎日のように五十鈴川だよりを打っているが、このようなことは五十鈴川だよりをうちはじめて初めてである。たぶんこの10年間ではじめてのことではないかと想う。きっとウクライナで戦争が勃発しなかったら、打ち続けることはなかったであろう。

あれから、一月以上がたつが陰惨な映像報道が、報じられたりしてまったくめをおおいたくなるほどだが、事実であればこの世の地獄がキーウほかのかの地で展開されていることに、おもいを馳せるときに、私の心は嘘寒く言葉も枯れて沈黙の春とかしてしまう。

今自分が生活している岡山での安穏とした牧歌的陽気の春と、ウクライナの民とのおかれている状況の、あまりもの相違と乖離に、無力感のようなもの、におそわれないといったら嘘になる。そのような感情のうつろいを、どこかに感じながら、しかし私は平和だからこそ企画できる身の上の幸せを想いながら、絶対矛盾的な自分を抱えながら、4月24日に向けて、情熱を注ぎながら静かに動いている。

古希を過ぎ、限りなく死者の視点で生きようとしている私がいる。たぶんこの年齢で意外性と言う他はない企画を発心できたのは、限りない死者たちの不条理極まる理不尽さを抱えながら生きざるを得なかった無数の民の魂、声なき声が、かすかに私の琴線を支えてくれているからだろう。

なにもしなければ、なにか申し訳がたたない、いたたまれないという感情がいかんともしがたく、揺れ動く。このままでいいのかいけないのかと。いたいけな子供の哀しみに、なにもしない、なにもできない自分とは、いったいどういう存在なのかと、問うのである。綺麗事をいっているのではない。善人面をした悪人にだけはなりたくないというおもいがある。なにかよいことをしているといった思いは、私のなかには皆無である。

話を変える。カテリーナさんとのコンタクトがとれず、少々困っていることもあるのだが、私はどこかなるようにしかならないと腹をくくっている。きっとよんどころのない余裕なき日々をおくっているのだと。連絡がつかないのは元気に活動しているからだと想うことにしている。

たぶん、ギリギリ近くなってカテリーナさんから連絡があることを、私は信じている。指切りしたのだから。私は私のやれることをちに足をつけてやるだけである。当日来られ当日お帰りになってもまったく問題ない。できるだけよきコンディションでのチャリティーでの歌と演奏会が能楽堂ホールで実現すれば、とそれだけを私は望んでいる。

ウクライナの民の声に耳を澄ませたい

それまでは、私も五十鈴川だよりを打ち続けたい。


2022-04-07

NHK岡山放送局のF記者が、カテリーナさんの演奏会企画の私のおもいを、番組で伝えてくれました。そして想う。

 昨日夕刻のNHKの番組もぎたてで、私の今回の企画ににたいするおもいを取材してくださったF記者のリポートがオンエアーされた。25才の女性が取材してまとめたとはおもえなほどにきちんとした問題意識をもって、今回私がなぜウクライナなの音楽家を岡山に招いて演奏会を開く動機がきちんと短い時間の中にきちんとまとめられていて感心した。

昨日の朝も打った気がするが、編集力、構成力のちからもさることながら、なによりも時間をかけて丁寧に取材を重ねて、手を抜かずに作られていたのが伝わってきた。いっぱいお話ししたことが凝縮されていて、本当にありがたく嬉しく、共に画面に見いった妻もいたく感動していた。まだ若いのにね、と。

たった一枚の名刺を局に置いてきただけなのに、F記者が鋭い問題意識で反応することがなかったら、このようなおもいの伝わる映像報告はできないのだから、私の話の中から切り口を探しだして、父の残した文章の一部がアップで映像となって写し出され、現れてきたときにはなんとも言えない気持ちになった。

オーバーではなく、10年ぶりとはいえ、企画者として唯我独尊的な企画を、思い付くままに続けてきた私だが、初めて今はなき両親に、未来を委ねられる人間的な良心を失っていないF記者との出会いを、墓前に報告したいと思う。

妻が作ってくれた

記憶にないとはいえ、両親と共に引き上げてきて、いまも元気に生きている姉と兄にも見てもらうことができることも嬉しい。放送後、とある友人から家族の歴史ですねと、メールをいただいた。もうこの年齢だから臆面もなく打てるが、若い頃の私は先行きの見えない泥沼のような生活を余儀なするしかない、出口なき世界を長いことさ迷っていたのだが、厳しいと言う他はない父親の教えを12歳くらいまで受けたことが、今となって思うのは、その厳しさゆえに頑張れたのだなあ、という感懐を持つ。

今のウクライナでの困窮者と、先の大戦で命からがら引き上げてきた来ざるを得なかった人々、突然平和な日常が陰惨な極まる状況に、命を脅かされる状況に陥る身を切られるような苛酷さは、経験したものでないと永久にわからないだろう。

だが、そういう歴史の痛みに、F記者のように想像力でもって果敢に挑む、若い感性の持ち主と出会えたことは、10年ぶりに企画して本当によかったことのひとつにあげられる。どこか波動が合い世代を越えて語り合える喜び、嬉しさを私は久しく感じたことがなかったのである。

F記者とは、演奏会を終えたらお鮨を食べにゆく約束まですることができた。彼女の方からまだまだ話したいことがあるとまで、いってくれた。私も私のささやかなこれまでの経験、お恥ずかしきあれやこれやを経ての今の生活を、彼女になら吐露できるかもしれないとさえ、思えるほどである。繰り返し打っておきたい、企画とは生きていることを寿ぐ出会いである。

2022-04-06

昨日夕刻、NHK岡山放送局F記者の長いインタビューを受けた、翌日の朝に想う。

 昨日の午後3時過ぎからおおよそ2時間半、我が家でNHK岡山放送局の女性記者Fさんの取材インタビューが我が家で行われ、カメラマンの男性と助手のかたの3人がこられた。

数日前のF記者の取材も、長時間にわたったが今回もおっとり揺ったりとしたインタビューで、私がもっとも落ち着く我が家でのインタビューであったこともたぶんにあると思うが、落ち着いて受け答えできたかとは思っている。

うまく答えられない問いかけなどもあって返答に窮することもあった。その一つは、このカテリーナさんのチャリティー演奏会で何を伝えたいですか、というものだった。言葉では伝えきれないものがあるからこそ、音楽が生まれるのではないかと私などは思う。

当日会場にこられ、カテリーナさんの演奏と歌声を直接聴かれたかたがたが自ずと各自体感し、自己の中に意味のようなものを発見されるのではないかとおもう。

友人からの激励のお便り

話は変わるが、F記者はまだ若いのだが、じっくりと今時信じられないくらいゆったりと人の話に耳を傾けることができる能力を備えた女性で、ちょっと驚いた。自分でも信じられないほどに落ち着いて受け答えができたのは、F記者の粘り強さ以外の何者でもない。

あの若さで、気長に人の話を聞いて、ある程度の長さに編集してオンエアーするのは、なかなかに骨のおれることだと思うのだが、落ち着きと、ツボを得た無駄のない質問には驚いた。若くて優秀な志、現代を生きてゆく上での問題意識を、一記者としてきちんと踏まえながらのインタビューで、久しく感じたことのないほどスムースに受け答えができた。

企画者としてこれまでいろんなメディアの方から取材を受けたのだが、こんなにもながく話を聞いてくださった方は初めてである。どちらかと正直に告白すると、マスコミの関係者とは、私はあまり相性がよくないのが常であったのだが、今回は全くそのようなことがなかった。

なぜなのであろうかと考える。時代の流れ推移に、自分の感覚とのあまりのずれにたいして、もう自分が企画者として出る幕は終わったのだと言う、現役引退者生活の最中、途方もない言葉にならない戦争が勃発し、引退返上アクションを起こしたがために、なりふり構わずマスメディア巡りをしたお陰で、F記者とめぐりあえたのは幸運以外のなにもの出もない。

今回の突然の時間のない企画に、こうも熱心に関心をもち取材しその内実に迫り、視聴者に伝えようと真摯に労を惜しまず仕事に邁進する記者魂を持ったかたに巡り会えたことの嬉しさを、なんとしても五十鈴川だよりに打っておかねばならない。今日の夕刻オンエアーされる。楽しみである。


2022-04-05

4月5日の春の朝に想う。

 起きてまもない体だが、打って始動する。傍らに淹れたてのコーヒー、後は夜明け前の静けさが私のお友だちである。まだこのしっかりとは起きていないからだで何やらを打っている時間帯が、私は無性に好きである。静けさや・自分と出会う・時間かな、ってな案配である。

ところで、4月5日は企画者復帰宣言五十鈴川だよりを打った3月5日から一月である。あれから古希の老いびと時間は、まさにいまも飛ぶように流れてゆく。いつまで続くぬかるみぞ。戦争を始めたはいいが、引っ込みがつかなくなっている。傍観者の私としては人間と言う存在のおろかさを対岸の火事のような感覚でもって、言葉でもって無責任に語ることだけは控えたい。

私も一人の人間として、つたない頭で、なぜ人間は正当化する,あらんかぎりの大義を掲げ、かくも無惨な行為を犯し、狂気の淵に落ちてしまういきものである、という現実からめをそらしたくなる。時に思う、こうも陰惨な映像をお茶の間でみせられると、いたたまれない想いに刈られるが、きっと無感覚にやがては自分もまた陥ってゆくのだろう。

だが、どこかの誰かが、泣き叫んで助けを求めているとしたら、満たされた側に、世界に住んでいられる幸福を享受できている私としては、絶対矛盾をどこかに感じながらも、食べ物がある、笑顔がある、いわゆる平和な穏やかさを取り戻すために、何かしなくてはトの想いに刈られるのである。

よしんばそれが大したことではなくても、多くのかたの心に火が灯り、何らかのその人らしい自立的な行動に繋がってゆければと願うのである。私の今回の10年ぶりの企画も、私らしい声のあげかたのひとつにすぎないのである。

多感な思春期から、半世紀以上、音楽、演劇、小説、踊り、絵画、映像、などなどいわゆる芸術や文化のお陰で、曲がりなりにも生きてこれた私としては、たまたまの思い付き偶然のお導きの連鎖で、チャリティー演奏会となっただけなのである。

訳のわからぬ移ろいやすい心と肉体を持つ私ではあるが、どこかで自分と真摯に向き合っていたからこそ、閃きのお導きがあったのだもと思える。99%の汗と1%の閃きなどというが、思考しないとひらめくことは決してないだろう。


才能でも何でもない。要はハムレットの言うように、考え続けるのか考え続けないのか、そこが思案のしどころだと、考えるのである。螺旋状に休んでは動き続ける、にたようなことを毎日打ち続けるのだが、明らかに昨日の私とは違う感覚であるから、性懲りもなく打てるのである。

2022-04-04

4月24日までいよいよこれから3周間、ネジを巻き直し暫し飛ぶ老人を生きる。

 悪夢と言うしかない切り取られた映像がこれでもかと流れてくるのを、まるで映画のように見せられるとどこか感覚が麻痺してしまうのは、きっと脳の本能的な防御装置が働くからなのだろう。最初は死体をみて驚くが、平気で死体を飛び越えて歩けるようになると、なにかで読んだ記憶がある。

非日常が、常態化してしまうと、あにはからんや自分もこのように変化してしまうのではと、想像すると、もうなにも打ちたくないほどになるのではとも想うのである。だからきっとそうはなりたくないとの、訳のわからぬ想いが今朝も五十鈴川だよりを打たせる。いや、どこか平衡感覚を失いたくないと言うか、情報に思考がからめとられたくないとでもいうしかない想いにとらわれるのである。

26才の時アイルランドダブリンで求めたケルト紋様

もっとはっきりと打っておきたいのは、自分は安全で守られたところにいて、他者の痛みも自分の痛みとして感じることはなく、いけしゃしゃあとさも識者面をして、騙ってうまない輩を私はどこか遠くから眺めながら、ああいう手合いは信じられないと、もう大昔の若い頃から思っている。責任感のない輩、無責任な烏合の衆と大差ない。他者の涙、痛み苦しみ、悲しみにたいしてのあまりの鈍感さに、うんざりしてしまうのである。

その点は、遥かにまだ新聞の方が、思考が行き届いて、なるほどなあ、と思わせられる寄稿や談話が寄せられていて私などは、もっぱら文字を追い、これはじっくりと読まねばと言う記事は切り抜いて、朝の頭がしっかりとした時間帯に読むことにしている。4月24日の演奏会を決めてから、落ち着いて新聞を読む時間が一気に少なくなったのだが、意識的に努めて新聞の自分が信頼できるかたの思考情報を得るようには心掛けている。

もう古希を迎えた老人なのであるから、ことさらに情報を追いかけたりする側にはとうの昔におさらばしている。ゆっくりとどちらかと言えばボケる側とは言わないまでも、木偶の坊の側にゆきたいと言う思いが、最近とみにましてきているのである。

このようなことを打つと、きっと疲れがでているのだと自分でも想うのだが、私の疲れを吹き飛ばしてくれるありがたいと言う他はない激励のお電話や、お便りがこのところ何件も寄せられていて、こんなにも木偶の坊の私を激励してくれる友人や知人がいることにたいして今更ながらのありがたさが沁みるのである。

確かに疲れはあるが、希望を持ち続けてきたからこそ、古希を迎えることができた私としては、飛ぶ老人を今しばらくいきる覚悟である。後3周間いよいよこれからが大事、ネジを巻き直し当日に向けて熱く頭を冷ましながら、責任の完遂に向けて微力を傾けねばと、思案する朝である。


2022-04-03

予約チケットが100枚を越えた朝に想う。

 昨日は何やらと目まぐるしい一日となった。それは予期せぬ意外性に満ちた喜びに満ちた、だが一方で物事はそう簡単には行かないのだと言うことを、今更ながらに知らされることにもなった一日となった。

先日ラジオ出演したあと予約の電話が一段落したあと、朝日新聞岡山支局の記者からチラシをみて、お話をうかがいたいとの電話を受け、午後支局に出向いてわずかな時間ではあったがおもいを伝えた。その2日後である昨日、チャリティー演奏会告知の記事が出たのだ。

電話予約は午後2時から7時までと記していた。私のスマホに2時から続々と電話が入り始め、結果3時間でこれまでの予約と合わせて、100枚を越えたので、いったん予約は昨日で止めることにしたのである。

情報を何らかの形で素早くキャッチして反応し、予約をくださる市民のかたがこんなにもいてくださることにちょっと驚いたが、嬉しかった。わずか3日間で70枚もの予約が入るなんてことは思いもしなかった。コロナ対策での入場制限が恨めしかったが、致し方ない。

ところで、昨日私は午前10時半からNHK岡山放送局のH記者の取材を受けていたのだが、昼食もそっちのけで、はなしこんでしまい、思わぬロング取材となった午後2時から予約電話がなり始めたので、取材はお開きとなり、後日我が家でインタビューを受けることになってしまった。

まだ山陽新聞の告知記事も出ていないし、NHKの取材インタビューも放送されていないのに、すでにチケット100枚も予約があり、当日キャンセルがあったとしても、今後を考え20枚は残しておかないとまずと言う判断で、電話予約は止めたのである。

長々と綴ることは避けるが、どこかで区切らないと、企画はできない。予約の方々の熱い吐息が私に伝わり、私の体までが熱くなった。ウェブではこうは行かないだろう。一昨日の夕刻福山にすむMさんからも、よく企画したとの熱いエール電話をいただき、10年ぶりの意外な私の企画がウクライナの音楽家、カテリーナさんの演奏と歌であったことに、とても感動されてのわざわざのお電話だった。私としてはこれから本番までのあれやこれやを、乗りきってゆく元気がいただけるお声で、ただただありがたかった。

気の弱い私であるが、時に自分でも信じられないほどに大胆な行動をしてしまうことがあるのだが、それがなぜ心から発動するのかは、自分でもわからないのである、それがAIとは異なるところかもしれない。謎があった方が楽しい。わからないからこそ楽しく生きてゆける側に私はすみたい。


理由も、秘密もない。好きなものは好き、苦手なものは苦手、嫌な感じは嫌な感じで、ただそれだけーっと。歌の文句と同じなのである。このようなアクションを起こすと、まれに嫌な感じの電話もあるが、これは浮き世の定めと、ちょっと浮世離れした自主企画者は【古希迎え・老いの血灯り・ウクライナ・かの地を想う・春の夕暮れ】を生きている。

2022-04-02

4月2日、今日午前中NHKの記者のかたの取材を受ける夜明け前の朝に想う。

4月最初の 土曜日の朝である。企画者復帰宣言を打ったのが3月5日、まだ一月もたっていない。カテリーナさんと指切りの約束をしたのが、3月10日、演奏会場能楽堂ホールを決めたのが3月14日、カンパの依頼をし締め切ったのが3月22日、チラシが完成し届いたのが3月25日金曜日夕刻、3月31日ラジオに出演しその日、一日で50枚のチケット予約が入るまで、何やら何がなんだかわからないくらいのスピードで、冗談ではなく飛ぶ老人感覚で、3月を乗りきった、奇妙な安堵感が今朝の私にはある。

定員120名の入場者数の目処が思いの外の早さで達するのではないかという、気がしてきたのもあるのかもしれないが、初めてちょっと休憩ではないが、なんとか前半を乗りきったので、これから本番までの後半を、静かに当日の受付や、会場のことを、これから3周間でゆっくりと詰めてゆく休日にしたいのである。

とは言うものの、今日は午前中NHKの記者のかたとあうことになっている。チラシができたので届けていたら、約束通り昨日夕刻お電話をいただき今日お会いすることになったのである。今回の企画で世代の異なるメディアのかたと会うのが嬉しいような、怖いかのような、複雑な気分もどこかに正直あるのも事実である。


それは、時代や世相とのずれとででもいうしかないいわく言いがたい感覚を私が何処かしらに抱いているからでもある。だが私はそのような思いは企画する段階で払拭することにした。企画することは出会いなのだから、新しい人と出会わなければ何事も生まれないからである。自分の居心地のいいところだけに安住していたのでは、企画者とは言えないのだ。老いたりとはいえ企画したのだから、荒海を漕ぐ覚悟を、とまあおもうわけなのだ。

可能な限り私のおもいを伝えるべくメディア回りをした結果、お話を聞きたいと、一枚の名刺を置いてきただけなのに、反応してくださった方なのだからどこか嬉しいのである。正直かなりくたびれているが、気持ちのいいくたびれを私は生きている。

思わぬ小さなよきことが次々に起こって、そのいちいちを打っている時間がないほどなのである。幸い実によく眠れている。私は寝ることが好きである。だから今日もこうして立ち上がり、元気に五十鈴川だよりをうてるのだ。安穏とはしていられないといった思いがやまない私だが、どこかでゆったりと脱力しながらゆかないと、長い距離は歩けないのだ。

戦火の音がやむまでは、トボトボ歩きながら、思考しながら、人に会いながら、青空を眺めながら、自分と対話しながら謙虚に進むだけである。

2022-04-01

昨日、一日で50枚近い予約があり、ウェブでの予約は閉じることにしました。4月1日の朝に想う。

 昨夜、チケットの手売りと予約枚数を集計したら、すでに80枚近くになっていることが判明した。昨日の朝RSKラジオに10分間近く出演したあと、7人くらいのかたから立て続けて予約が入ったのだ。それと私が中世夢が原で企画をしていた頃に私を応援して下ったかたがたに、郵送したチラシが届いたのが重なって、一気に一日で50枚近い予約が入ったのである。

まだチラシが出来て一週間である。これで新聞記事が出たら、多分客席は満席になるだろう、と言う気がしてきた朝である。だがどこか手放しでは喜べない複雑な思いが、私のなかにはあるのだが、そのことを説明しようと思うと、また言葉を打たねばならないので、控える。

ただ、昨日お電話をいただいた方々のお声が、皆さん真摯にウクライナのことに心を痛めておられる様子が伝わってきて、企画したものとしてはこの上ない喜びの一日、3月31日の出来事として忘れられない一日となったことは、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

まるで静かな波紋が飛び火して、誰かから誰かに水面下で静かに伝わってゆく、まさに中村

20数年前ガンジス川で撮った一枚

先生がいうように、信念をもって行脚すれば伝わるかたには伝わるのだと、教えられている。

生きている間は、希望を持たねばならない。昨年夏コロナ渦中に生まれた孫の、邪念のない笑顔にコロナ後を見据え、何をすればいいのか何ができるのか、問い続けていたのだが、その思いの渦中、ウクライナで戦争が勃発した、一気に老いゆく私の血が、企画者としての血が10数年ぶりに騒ぎだしたのである。

今日から4月、桜満開の春である。一日も早い停戦を願いながら、この一月近く五十鈴川だよりを打ち続けているが、相も変わらぬようなことしか打てないが、できる限り細き流れの五十鈴川だよりがよどまないように、無理しないで停戦の知らせが届くまでは、4月も打ち続けたい、毎日ではなくとも。

暫し、4月24日までは、頭のなかがどこか落ち着かないが、一旦アクションを起こしたら終わるまでは責任をもって日々を歩まねばと言う思いで、五十鈴川だよりをうちながら、今日やること、やれることを青空の下で思考してゆきたい。なにか心に残るチャリティー音楽会になることを願って。

ところで、ウェブは声が聴こえない、数日で20枚近くの予約をいただいたが、ウェブでの予約は閉じることにし、残りの枚数は電話でのみ受けることにした。手うり行商も終わりである。今日からは当日会場でやることに頭をシフトしてゆくことになる。チラシがかなりあまりそうなのでどうしようか、嬉しく思案している。決して無駄にはしない。なにか考えたい。