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2019-02-28

シェイクスピアの言葉を書き写し、クローバーの根と格闘する私。

遊声塾のレッスンの翌朝はやはりいくばくかのいい意味での疲れがある。幸い雨で肉体労働はなし、恵みの雨午前中はフルに自分のやりたいことができる。

ありがたいというほかないが、幸いやりたいことやらねばならぬことが次々と体に浮かぶのは、まさに身体が健康に動いてくれるからである。

名前は失念したがダンスの先生がおっしゃっていたが、生きることは動く、動けることであると。もうこの歳になると反射神経ほか、あちらこちらの体の機能低下は否めない、とはいうものの、未だ動ける身体と上手に付き合いながら、一日一日をあえて愉しくやり過ごすにしくはなしである。

話を変える。昨年のリア王から始めたことなのだが、気に入ったシェイクスピアの言を、ぶつぶつ言いながらボールペンで書き写すということをこのところ折を見て続けている。

今はロミオとジュリエットの登場人物の長いセリフや気に入ったセリフを、ポケットに入るサイズの小さなノートに書いている。

一月の半ばころから初めて、今日で2月も終わり、すでに40ページ書き写している。アナクロも甚だしいとは、本人はちっとも思っていない。

書き写しながら作品を読んでいると、不思議と作品が深く読み込めるような気がしてくるのである。だから気の向くままこれからも、老いの時間の過ごし方の一つの 楽しみとして、筆写は続けたく思っている。

再び話は変わる。冬、今働かせていただいている職場での肉体労働は表立っての火急の仕事が少ないなか、私は芝に生えたクローバーの根を採ることに、試行錯誤しながら挑戦している。


考えてみると、中世夢が原でもいろんな雑草の根と格闘したが、クローバーの根は初めて。正直一瞬たじろいだが、発想を変えゲーム感覚で楽しむことにした。画面に向かうのではなく、ひたすら地面の中の根とたたかい、向かい合うのである。

すると富良野での2年半に及ぶ、大地に 這いつくばってのあれやこれやの出来事が、いやがうえにもよみがえってきたのである。(久しく思い出すこともなかったあの青春の終わりの日々が)

片道400メートル、よく我ながら続いた。私は生まれて初めて一番低いところから眺めた世界というものを体験した。これでたぶん私の世界観は根底から覆させられたのである、と今にして思う。オーバーではなく世界が違って見えた。私はこちら側で生きることにしたのである。

富良野体験がなかったら、一番低い目線で世界を眺め、物事を考えるということは、おそらくなかっただろう。それと限界近くまで自分の体と 向き合うということもなかったかもしれない。







2019-02-27

久しぶりにお昼前の五十鈴川だより。

お昼に近い午前中に五十鈴川だよりを書くのはほとんどない。今日は午前中の肉体労働がないからである。

ところでこれを書いている今お天気は曇りだが、朝一番メルと散歩に出かけた際の、日の出前の一面の、なんとも言えないピンク色の朝焼けの空に、私は見惚れた。このようなことがあると、単細胞の私はいまだなにがしかのささやかな幸福感に浸れる。

それから家に戻り今まで、今夜の塾のレッスンのことや、新聞にじっくりと 目を通していたらあっという間に、この時間になった。気分転換の五十鈴川だよりである。

私には取り柄らしきものがほとんどない無知蒙昧初老男であるが(信じてもらわなくて結構だが、本当にそう思っている)新聞を(ほとんど読むところは決まっているが、へーっと思える記事をあえて見つける喜びがある)読むのも、本を読むのも無知のなせるトラウマというか、青年時代に食う、生きるにいそがしく、またはそれを口実に、(世界の豊かさ、素晴らしさを)あまりに学ぶことに勤しまなかった後悔が、すこぶるあるがためである。(と思う)

このような先生の講義を受けたかったが、間接的にいまだって学べる
だから、労働(これが基本)と学びの加減のいい塩梅というのが、これからの人生時間私の場合大事なのである。何よりも家族や身近な人たちとの生活を基底に据えながら学べれば、 もう私にはあまり望むこともない、のである。(健康に声が出せれば)

若い時とはずいぶんな転向、あくまで無理なく体を動かし、健康に生活しながら何か自分にいい影響を及ぼしてくれるような、見えないもの、本や映画や、人ほか(出来事)に巡り合えれば足りるのである。

あとは先日も書いたが、老いてゆく中であるからこそ、感じられるような感受性感覚を磨ければと、淡い期待を・・・。

平成の終わり、昭和初老男児は超音速デジタル時代(時代が進めば進むほどおぞましい兵器を人類は作り続け、どこかで必ず突然使っている)事が起きれば阿鼻叫喚の地獄絵となる)に背を向け、どこか隠遁したくなるのだが、(隠遁するとすればわが故郷しかない)時代のわけのわからぬ動きには絶対矛盾を生きながら、今しばらく目を凝らさないと、何やら不穏である。(安心しての隠居などしばらく無理である)

平和はボーっとしていると、津波のようにある日突然損なわれる、肉体労働をしながら、初老男は平和を噛みしめる。 ああ、とりとめなき五十鈴川だよりになってしまった。

2019-02-26

義父の命日、あまりの暖かさに不安を覚える私。

何やらちょっと陽気の気配が例年になく早く春にすでになったのではないかと錯覚しそうなほどの陽気である。

でもやはりこれは確実に天候異変、温暖化、等々のあまり五十鈴川だよりでは、書くのがたっめらわれるほどのなにがしかの大いなる予兆ではないのを、凡夫としては祈るばかりである。(日本だけではないが、地震や台風をはじめとする自然災害の増加には言葉を失う)

春が来るのはうれしいが、冬は冬らしくあってこその春の恵みである。老いてくるとよくわかるが今からすでに夏の暑さが思いやられる。

話題を変える。今日2月26日は義理の父の命日である。実父が2月5日、二人とも2000年に亡くなった。私の生誕と、二人の父が亡くなったのが同じ月。生と死を想う。

生きて元気なうちに古典作品を音読したい
心なしか、私が両父の亡くなった年齢に近づくにつけ、以前にもまして両父のことをいい意味で憶い出すようになってきた、死者との対話。

それはきっと、私がいい意味で老いてきて、心のどこかなに物のけを想うような 、もっと言うなら、死者と想像上でのやり取りを空想する余裕が生まれてきたからである。(とおもう)

それは死者のみに限らず、生きている身近な他者にもかすかに向けられてき始めたかのような、(他者をどこかいとわしく思う余裕)

そんなことを書くと何かと、オカルト的だが、早い話私は生きてはいるが 、もうすでに半分近くは、死者の側の世界に時折揺蕩っているかのような、按配の前期高齢者なのである。

思いもかけぬ、だしぬけの春を思わせる、ちょっとついてゆけないほどの陽気に、五十鈴川だよりも戸惑っている。

最後に、ドナルドキーンさんの冥福を心から祈る。




2019-02-25

母と妻の3人で八朔を収穫、そして想う。

昨日午前中義理の父の命日が近づいたので、妻と母と私の3人でお墓参りに行き、家で3人で昼食後、我が家の八朔の収穫をした。

母が植えた八朔は樹齢40年にもなろうかという、我が家のご神木である。実はあまり大きくはなかったが今年もたくさんの実をつけた。この味になじんでいるので、我が家の八朔が一番うまい。

2000年に家を建て替えたが、この西大寺の家の敷地で私はこの八朔の樹を27年間眺めて暮らしている。いまだにたわわに実をつける。妻と母が身近な方に配布、娘たちのも妻が送る。
手の届かないところにあった、ふた箱以上の収穫

私と妻はこれからしばらく、毎日のように食べる。冬のビタミンCとして欠かせない。収穫後母の指示で剪定をし、枝を切って袋に入れ、最後に妻が根本周辺にお礼肥えをした。

その間、86歳になる母は、あちらこちらが痛いといいながらも、芽吹きだした雑草を小さな草取り鎌で、採ってゆく手を休めない。

義理の父亡きあと、母のひとり暮らしを間近で眺めながら、今も見事な冬野菜の菜園場を見るにつけ、絶えず土に触れて人生を今も歩む姿に、感動を覚える。土と絶えず触れているからだと思うが、年相応、少しは弱ってきてはいるが、いまだ自転車に乗れるほど元気である。

今はまだ、あれやこれやの煩悩を生きる私だが、最後は土に触れて妻と共にあのように最晩年は過ごしたいものだと 感じ入るのである。

そういう意味で、身近にお手本的な老いゆく姿が存在するということは家宝である。先日の帰省で面識を得た日高ご夫妻のこと、度々書いているが、見事というほかない夫婦の老い方というものを私はみた。学べるうちに少しでも学んでおきたい。



2019-02-24

いきなり今朝はこのような五十鈴川だよりになってしまった。

起きたばかり、ありがたく今日もいきなり五十鈴川だよりが書きたくなるほどに、健康な朝である。

昨日午前中、一週間ぶりに 道場に行き、たまたま一人しかいなかったので的前で、一人弓の稽古をした。帰る前K先生が来られたので少しお話ができ、ちょっと良かった。

今後は、月例会他道場に出向いての稽古にはこれまでのようには、ゆけない旨をお伝えした。何やら気分が少し楽になった。弓はあくまで自分自身の晩年のささやかな修練時間として、道場でやれる時間は少なくても大切に 続ける。

さて、演劇を学んでよかったことを先日五十鈴川だよりに書いたが、40歳で思い切って岡山に移住し、ゼロから異なる環境で子育てをしながら生活しようという発想は生まれなかったのではと、今思える。

人間は自分で自分を自由にもするが、また不自由にもするのだという気がする。というのは、拙文を書くのも本を読むのも、また肉体労働をすることも、演劇を学ぶまでは大の苦手だったのだから。不思議なものだ、オーバーではなく若いころと比すると生まれ変わったかのようでさえある。

岡山に住し、中世夢が原で働くようになってから、やったこともない企画の仕事他、一からいろんなことを体験したが、振り返ると一番苦手だった肉体労働を22年間続けた(特に来園者の少ない冬場の寒い季節の園内管理、年間通しての、開園前の草刈り・落ち葉はき・萱刈・薪割・倒木の伐採片付け等々)ことのおかげを今痛感している。頭ではなく身についたのである。

坪内逍遥訳のロミオとジュリエット時折声に出す素晴らしい
さて、昨日午後久しぶりに2時間近く薪づくり、斧で薪割をした。徐々に薪ストーブを焚くことも少なくなるが、薪づくりに必要な倒したばかりの材木がバイト先で一昨日手に入り、車に積んできた材を、ある程度の長さにチェーンソーで伐り、大きいのは斧で割っての労働。

この年齢でも、今のところ苦も無く このような作業ができること、あえてやろうといういわば意欲が湧く源は、中世夢が原での22年間の肉体労働のおかげで、身体の使い方を自然に習得したからである。

はじめできなかった薪割やあらゆる肉体労働を、私は演劇におけるセリフを反復練習するように、ひたすら深い呼吸をしながら反復することに集中した。(身体との対話)そうすることの大事を演劇を通じて学んでいたので、発想を変えてゆっくりと気長に挑んだのである。

何事も真面目に3年以上やれば、なにがしかの結果は体の中に現れてくる。でもそれは発想を変えて、どこか楽しまないことには身につかない類の何かである。

演劇を学んだことで得た自由な発想。生き方の軌道修正であれ、苦手なことへの取り組みにせよ、他者と比較せず、自由におのれと対話を繰り返すように 時間を有効に使いながら取り組んでいると意外なことが起きることを、経験的に私は演劇を学ぶことで知っていた、そのことによって何度も救われた。

己を不自由に縛るも、おのれを自由に解き放つも、己との対話によってしか生まれえない。大好きなチャップリンの言葉、人生には勇気が大事、それと少々のお金が 。ヒトは変われるのだ。




2019-02-23

ささやかな出会い・関係性で生まれ、知る言葉の妙

ぐっすりと寝て気持ちよく起きた、夜は疲れ切ってまさに年相応の、よれよれのわたしだが、一晩眠ると新鮮な意識が我が身に宿っているなんて、まさに睡眠の奇蹟というほかはない。

畏怖する大人、外山滋比古先生は、いやなこと他、脳はあらゆる不都合なことは忘却するから、どんどん忘れなさいとおっしゃっている。ゴミのような知識なぞ何するものぞ、忘れるということの効用を度々おっしゃっている。忘れるから入ってくる。

世に物知りというか、博識な方はごまんといるかと思うが、若い頃はあまりに物事を知らない自分に呆れたことも多かったが、この年齢になると 多分に横着になり、知らないことは知らないと平気になってきつつある。これはつまり老いてきている揺るがぬ証左である。

ところで昨日午前中の務め先で、上司の方から岡山弁で【しょうやく】という言葉の語源が【そう浴】(そうという字はサンズイに体操のそうの右半分)から来ていることを教わった。
ごを焼きて 手拭あぶる 寒さかな(松尾芭蕉)

意味は体を洗い清めること・畑から取ってきた野菜から泥をとって食べられる状態にすることとある 。ついでにこれも知らなかったのだが、松の枯れた葉のことを、【まつご】ということも教わった。たまたま作業中の中での会話のやり取りから。

私が驚いたのは、普通はそれでおしまいなのであるが、その博識好奇心旺盛な上司は、わざわざ調べてプリントアウトして 私に持ってきて来てくださったことである。

もう一つ驚いたのは、この上司の方が3月いっぱいでお仕事を辞めることを何故か私に告げ、名刺を差し出されたこと。

私は働き始めて半年になる不定期の、午前中の前期高齢の肉体労働者であり、ほとんどその上司の方とは会話らしい会話をしたことがなかったのだが、何故かわざわざ声をかけてくださったことが、意外であった。

立場の上下関係を抜きにして、しばしの会話が成立するということの妙、 生きてきた経歴も環境もまるで異なるのに。

私がブログを書いていると伝えたら、教えてくださいとおっしゃった、あなたのおかげで、ボケない限り私の中でしょうやくとまつごという、ゆかしい日本語は決して 忘れることのない言葉として定着したことを、五十鈴川だよりに書けてささやかに嬉しい。






2019-02-22

西の空に月傾きぬ、そんな夜明け前に想う。

先ほど灯油を入れるために外に出たら、西の空に煌々と輝く月が出ていた。月が好きな私は、もうそうとう昔になるが、尺八の演奏による月光浴コンサートを企画したことがある。

火曜日は雨上がりに姿を現したスーパー ムーンを眺めることができたし、水曜日塾のレッスンを終えた後も家に着いて、しばしほぼ満月の月を眺めた。

頭は忘れたが、昔の人は、三笠の山にいでし月かも と、月を愛でながらの風情を多く詠んでいる。わたくしごときでも詠みたくなるのは、多分私が日本人だからだろう。

ことほど左様に、私には自己分析のその気はないが、極めて情緒的である。 だから時折そんな自分を持て余すことも多い。小さいころから痩せていて、身体が弱かったせいでもあるが、戦うとか肉体的に競うとかということが苦手であった。

だから、競わない(やはり競うのだが)どちらかといえば軟弱で、だがしたたかな世界に高校時代から逃げ込んだと思える。高校卒業後は、何をしていいのかが当時わからず、演劇を勉強するという一念で上京した。

最近の出会いで面識をいただいたIさんからいきなりいただいた御本
それはあの怖い父親のいない世界で、おのれを自由に解き放ちたいという思いと、とにかくここではないどこか、広い広い世界を若いうちに体感したかったのである。

いま思えば、少々無謀ではあったのだなあ、とは思うものの、この歳になるとあの選択の良し悪しは置くとしても、振り返っての後悔は全くない。

演劇を学んだことでもって、今もって物事を考えてゆく上でどれほど役に立ち、今を生きる現在が支えられているかは、私自身が一番自覚している。動くことで世界も自分も変化する。

34歳で家庭を持ち、娘に恵まれ表面的には演劇的な世界からは一切身を引いたが、観劇体験、演劇学校でいろんな先生や、演劇の書物から、物の見方考え方をどれほど学んだことか、計り知れない。

あの苦行のような青春時代とはまた異なる、自由老春の時を過ごせる今、シェイクスピアの作品の音読をすることに、この6年間持続的に取り組んでいるが、この年齢でまた再び演劇的な時間を過ごせるなんて思いもしなかった。

ただはっきりといえることは、若い時に演劇を学ばなかったら、このように過ごせる今は決して私の人生には訪れなかっただろう。演劇を学んでつくづくよかったと今は思える。


2019-02-21

細宇納間のE子さんご夫妻に、コメントのお礼を書く。

起きたばかりで胡乱な頭だが、何か書いて午前中バイトに行こう。この歳で動けちょっとでも役に立ち、自分の責任において自由にふるまえる仕事など、そうはあるものではない。だから、私はささやかに嬉しい。ほとんど私はささやかな喜びで生きているといっても過言ではない。

しかも家から近く限りなくストレスゼロ。働くという文字は、ヒトが動くというふうに見えるが、子育てを終えた今、かなりの役割を終えた自分ではあるものの、まだなにがしかのお役に立てる役割が、社会の中であるのではないかという、見果てぬ老い楽自覚が、とみに最近ぬぐえない私である。

このようなことに関しては、もっと時間のある時にゆっくりと、書きたいので今日はよす。

いつものように忽然と話題を変える。 細宇納間の限界集落(実は私はこの言葉が好きではない)に生き粋と暮らす、E子さんから素敵に嬉しいコメントをいただいた。

ほとんどコメントのない五十鈴川だよりなので、この場を借りてお礼のコメントを書かせていただくことにした。

宇納間という地域地蔵様を守る年に一度のお祭りが来週に迫り、来客への準備他お忙しいらしい。大変に賑わいということをきいてはいるが、実際に出掛けたことがない私である。E子さん宅はこのお祭りの期間中は、てんやわんやの賑わいになるということをお聞きした。

元気な間に、一度宇納間の地蔵祀りなるものをこの目で体感したいものだという気が一段と増してきたのは、やはり先祖の地宇納間に 面識ができ言葉を交わせる相手が生まれたからである。
細宇納間はは私の非常口になりそうです

ともあれ、古希が近くなってきてわが故郷に、思わぬ愉しい老友ご夫妻と巡り合えるなんて、これもお地蔵様のご利益かもしれないので、お祭りの賑わいからは遠く離れた日にでも、時間を見つけて、そっと故郷に詣でお参りしたい。

帰ってきたばかりなのに、、、。故郷散策に出掛けたい気分がやまぬ私である。(コジュケイの声も聴きたい、春を告げる自然の息吹、せせらぎ、風、光、音、森羅万象の恵みを)

それにしても、あの日突然いただいたE子さんの手作りの、栗おはぎと梅干は絶品、それからご主人が作られた竹の箒、これは岡山まで次回持って帰ろうと、今から思っている。(それほどに私は作品に撃たれた)

E子様、ご主人様心温まるコメントありがとうございました。また会いにゆかせてください。

2019-02-20

五十鈴川だよりを書くのが愉しいこの頃。

早起きすると、まず猫の花と犬のメルが私の気配を感じて、朝ご飯くださいとやってくる。小学校に上がる前、おばあちゃんがたまという猫を飼っていたおぼろげな記憶はあるが、以来妻と出会うまで、私は猫と暮らした記憶がない。

今、五十鈴川だよりを書き始めたら、花が私の膝の上にやってきた。その重さと暖かさを感じながら、書いている。
妻のおかげで猫の素晴らしさを少し感じるようになってきた

さてどういうものか、老いてきて、余分な力や邪念が少なくなってきたからなのかはよくはわからないが、五十鈴川だよりを書くのが愉しくなってきている。

それはおそらく、量ではなく読んでくださっている方が、以前よりかすかに増えてくださっているからではないかとも感じている。

とくに先日の帰郷 で思わぬ機縁の出会いで面識を得た、ルーツが近い日高ご夫妻が読んでくださっていたり、娘たちが成長し徐々に私の暮らしぶりをチェックしたりしていることもあり、日々現在を生きていることの中で生じる、揺れる初老男の自慰的拙文は、止みそうもない。

とはいっても、書けることがらしか書けないが、(おそらく古希を過ぎたら、娘たちに伝えたいことを、もっと赤裸々に書けるような気がしている)どこか自分自身を励ますかのように書いている私の拙文を一人でも読んでくださっているということ、がうれしい。

帰省中の朝散歩、次兄の家のある高台から撮ったわが故郷の風景
人生の出発地点である五十鈴川で幼少期を過ごした、私にとって永遠の川から生まれた五十鈴川だより。その上流、わがご先祖の地に五十鈴川だよりを、読んでくださる方がいるなんてことは、言葉がないほどに格別な嬉しさなのである。

この間も書いたが、毎日ではないにせよ、五十鈴川だよりを書き続けてきて来て本当に良かったと、今私は思っている。

書き続けているからこそ日高ご夫妻に出遭えたし、老いてゆきながらも、書き続けているからこそ新たに細胞が更新されるかのように、新たな日々に幻想のようなおもいをよせ書き続けられる。

お亡くなりになった心理学の大家、河合隼雄先生が語っておられたが、ヒトは物語を書くように生きる、生き物であると。

いずれにせよ、私のような輩は日々言葉を食べ、噛みしめ、自分を想い、身近な他者を想うのである。

移ろいやすい心というものを抱えるからこそ、ヒトは言葉を生み出ししがみついてきたのだと思える。(人は千差万別の物や心にしがみつく生き物である) とはいえ、人の心は壊れやすく移ろう、その壊れやすい器を何とか五十鈴川だよりを書きながら、少しでも鍛えたいと願う夜明け前である。

2019-02-19

雨の日母を病院に連れてゆく朝に想う。

雨である。だからゆっくりと起きた。コーヒーを飲み洗濯物を家の中に干し、あと一年還暦までは仕事をするという妻を見送り、朝食前の五十鈴川だよりタイム、つまり至福時間である。

午前中の肉体労働は雨だとお休みだから、私にとっては恵みの雨なのである。一雨ごとに春が近づいてくるのがわかるし、春を待ちわびるあらゆる植物群の息吹のようなものが、かすかに感じられる。

ありがたいというほかはないが、世界の推移や(主にトランプに関する)、日々報道される暗い出来事 に胸の痛みを感じながらも、事我が身わが家族に関しては、ともあれ穏やかに暮らせていることに関して、私は特に双方の両親に、日々感謝している。

私は高峰秀子さんのファンである

さて、私の親は妻の母しかいない。その母を病院の定期検診に午前中連れてゆくことになっている。母は車の免許を持っていないので、どこに行くのも自転車だが、雨なので私に連れて行ってほしいと、事前連絡があったのだ。

先日も書いたが、母は過分に私のことを頼りにしてくれている。だからできる限り 母の意向に沿うように、との思いである。

私がこの年齢で、今もシェイクスピアの音読や弓の稽古が続けられるのは、妻が元気で働いていることと、何よりも母が元気でひとり暮らしを続けているからである。

もしこれが母がこれほど健康に生活して居られなかったら、まずいま情熱を傾けているような、音読や弓の稽古などはまず無理である。

そのことを思うにつけ、母の元気な存在がどれほどあり難いことであるのかがしみてくる私である。

2019-02-17

日曜日は、新聞の書評を読むのが楽しみな私である。

早く寝て早く起きるのは、もうならわしというか40歳から中世夢が原で働くことによって否応なく身についたものである。

退職後この習慣はいよいよもってゆるぎないリズムのようになってきた。したがって必然的に夜はもう脳が思考しないというか、身体全体が疲れ果てたような感じになるので、眠りに落ちるのがうれしい今のところのわたしである。

以前は、サッカーであるとか、テニスであるとか、夜遅くオンエアーされるものなどはファンとして見ていたりしていたのであるが、よほどのことがない限り、今現在の自分の生活に支障がないように、睡眠だけは十分にとるようにしている。

そのおかげだと思う、この一年食べ物にあたって吐いたこと以外、体調を崩したことがない。年齢を重ねたら、栄養を取りよく休むことが私の場合一番肝要である。

幸い私は寝ることが大好きであり、今のところ夜中に起きるなんてこともほとんどない。起きている時間帯、特に午前中は肉体労働であれ、自分の仕事であれ、いまだかなり集中してやれる体力をキープできている、有難い。

睡眠が足りないと、いろんなことに気力が伴わなくなるので、 内なる体の反応にだけは耳を澄ましている。
目に留まった書評は切り抜いている

さて、今日は日曜日。日曜日は書評が楽しみな私である。昨日は帰省したりして読めずたまっていた新聞を意識して読んでいたら、午前中のほとんどが過ぎた。ああ、時間は流れる。

芸術は長し人生は短しという、自分は無知であるという、いわば欠落感のようなものを抱え続けながら、生きている私にとっては、信頼できる方の書評を読むのは、ささやかな愉しみである。

東の空が明るくなってきた、今日も一日が始まる。 静かで穏やかな朝である。愛犬メルとしばし散歩に行くとしよう。


2019-02-16

いよいよもって一日の時間の過ごし方を大事に考える土曜日の朝。

昨日軌道修正のことを書いたが、またもややんわりとだが、一日の時間の過ごし方を少し変えないといけないのではないかという気がしてきている。

時間は一定不変、歳を重ねるにしたがって、自分でいうのもおこがましいが、中世夢が原退職まじめな生活にシフトしてきたし、ますます落ち着いて静かに暮らしたいという自分がいる。

これにはこの6年間の様々な要因が連鎖し、重なってきてこういう感情が生じてきているのである。孫の望晃くんの生誕が、やはり一番大きい(気がする)。

次に、妻との時間の重さへの深まり、それとこの夏次女が結婚することになり、ささやかに父親としてやるべきことを、きちんと滞りなく進めること。

それと母のことがある。母から誕生日に短い一文をいただいた。(考えさせられた)幸い母は今年の5月に86歳になるのだが、いまだひとり暮らしを立派にこなし、我が家にも自転車にのってやってくる、元気である、元気で自立そのことがまずは何より素晴らしい、母との時間のこれまた重さへの気づき。

家族を先ず基本にしっかりと落ち着いた暮らしを特に優先することにし、そのうえですべてのことを見直し、時間の過ごし方を緩やかに再検討しつつ暮らしてゆくことにした。

図書館で本を読む時間は至福時間である
まず、家族のための生活力のキープ、次この6年続けているシェイクスピアの音読、続けるにしたがってもっと深く学びたいという自覚が以前にもまして深まっている(独学の楽しみ)。

そこに、この2年間弓を学ぶ、時間が加わったので結構ギリギリの感の強い、ある意味でもう少し余裕のある時間の過ごし方をしないと、身体が持たないのではという、どこかにある種の不安感を抱えながら過ごしてきたのだが、思い切って弓に割く時間を減らすことにした。

レイさんとの機縁で、この二年間弓の稽古に取り組めたこと、その時間が持てたことの重さは、取り組んだ私が一番よく自覚している。(立って歩くことにとても自覚的になった)

だが時間は一定、あれもこれもはできないという厳然たるじじつの前で思考する。シェイクスピアの言葉の音読の延長で、3月24日(年~7・8回)からどなたでも参加可能な輪読会を 始めるので、いよいよもって限られたこれからの時間を有効に悔いなく過ごしたいという方向にシフトしてゆくことにした。

弓の素引きはひとりで自室でできるが、シェイクスピアの塾と音読会は、ささやかな私自身の今やいきがいである。

これから先、まずは家族のために、私が生き生きと存在することこそが大事なのである。何かに熱中することで、家族に影響が及ぼすようなことは避けなければ、との思いが優先するようになってきたのである。

それと、今回の帰省旅がやはりなにかを吹っ切らさせたのだと思う。あきらかに極めたというとオーバーだが、父の先祖に今も暮らす素敵な人たちと出会えたことで、おぼろげながら、人生の終点がかすかに感じられてきたのである。

望晃くんの生誕が、私の老い方に火をつけたのは間違いない。家族含め近しい方々との人生時間を大事にしながら、シェイクスピアの世界観を音読し、(主にルネッサンス以降の世界の歴史中世以降の日本の歴史を学び)いろんな翻訳で日本語を学び・・・。などと思うにつけ、限られた時間の重さを想うのである。

まずは古希までの これから3年間の時間の過ごし方、五十鈴川だよりを書きながら、折々自問自答したい。

2019-02-15

五十鈴川だよりを本にしてくれるというビッグプレゼントに、想う朝。

五十鈴川だよりを書くためには、書く時間を確保しないといけない。一日の時間帯で一番邪念がなく、一番頭がすっきりしているのは、私の場合朝というか、午前中である。

小さいころから痩せていて、体が丈夫ではなく、運動系はからきし駄目であった私が、演劇を学ぶ中で一番自分にかけていたものが、声を出すために必要な肉体が、あまりにも貧弱であるという、厳然たる事実であった。

話を戻す。二人の娘とレイさんからまだ完成して届いてはいないが、素晴らしいお誕生日のプレゼントが近日送られてくる。

それは、おおよそ8年間にわたって、書き続けている 五十鈴川だよりを本にしてくれるというものである。何冊かにはなるであろう膨大な文字数をである。打ち間違いや変換ミス、繰り返しなどそのままに。

中世夢が原を辞めなかったら、五十鈴川だよりを書くことはなかったかもしれないし、義理の息子のレイさんがいなかったら、デジタル音痴のわたしでは五十鈴川だよりは生まれなかったろう。

それと還暦を過ぎて、こころから人生を、可能ならリセットしたいと思ったこと、が大きいと、今思う。

次女からのお手紙(3人からのプレゼントの内容が記されていた)
性格なのかもしれないが、気が弱いくせに、18歳からのこれまでを振り返ると、あかんと思ったら、思い切って軌道修正してきた、しながら生き延びてきたような 今のところのわが人生である。

とくに30歳までは何度も軌道修正 した。頼るはわがひ弱な体のみであったが、何とかこの年齢まで生きながらえることができ、想えば還暦後の五十鈴川だよりを書き始めてからが、心身共にもっとも健康体であるといえるような気さえしている。

オーバーではなく、書くことで不確かな自分と対話をするように 幾分お恥ずかしい自慰的な営為なのである、という自覚がある。

自分自身の本質的なものは、なかなかに変えられないが、生き方は幾分であれ変えられるからこそ、生き延びてくることができたのだと思えるのだ。

また話は変わるが 、この6年間シェイクスピアの翻訳日本語を声に出し続けているが、想えば、健康でないと当たり前であるが声は出ないのである。

とくにシェイクスピアの言葉、長い言葉は息継ぎ、ブレス、呼吸が浅いとまず無理なのである。息を吸っては声を出し、息を吸ってはの繰り返しを 毎週水曜日の夜(以外にも)細い体で今も繰り返している私である。

きっとこれがいいのであるという気が最近している。だから五十鈴川だよりを書くことができるのである。心身が健康でなければわたくしごときの拙文も綴れない。

長くなったので 、本日はこれにて。レイさん、満智さん、萌さん、こころから感謝です。


2019-02-14

3日連続、五十鈴川だよりを書かずにはいられない朝。

三日連続して五十鈴川だよりを書くことはあまりないが、書きたい自分がいる。

私の書く五十鈴川だよりには、ほとんどといっていいほどコメントがないが、久しぶりに父のふるさと細宇納間の地で出会ったばかりの、日高ご夫妻の奥様である悦子さんから、私の生誕を祝う言葉をいただいた。

ブログのコメントだけではなく、スマホに私との出会いに関するメールもいただき、恐縮しながらも、年齢を忘れうれしさを禁じ得なかった。

奥様の悦子さんは、自ら限界集落での老い楽ライフを愉しみ、(ご主人と共に)スマホやパソコンを自由に操りながら、さっそく五十鈴川だよりを読み、素早い反応で コメントを下さったことに関して、正直驚いた。
初対面なのにお土産にいただいた見事なシイタケ(写真が暗くて申し訳ない)

わけてもスマホにメールでいただいた言葉に、悦子さんは私より年上であられると推察するが、私や姉夫婦との突然の出会いに、久しぶりに血が騒いだと書かれていたこと、驚いた。

悦子さんは、デジタル音痴である私とは異なって、スマホをはじめとするデジタル機器を 自在に操る。そして反応が素晴らしく早く、好奇心も旺盛である。

このような、 女性が細宇納間の限界集落の地に、素敵なご主人と共に静かに暮らしておられることに驚いている、そのことが三日連続して私に五十鈴川だよりを書かせる。
悦子さんお手製のこれまた見事な梅干し(感謝していただきます)

何よりも66歳の終わりの二日前、父のご先祖の地で、日高ご夫妻に巡り合えた幸堪は何やら暗示的で、私にしかわかりえぬ感覚である。

何というのか、父のルーツ地に同姓の素敵なご夫妻と縁を紡げたことが、老いてゆくこれからの私にとって、至福感のような感覚をもたらすのである。

岡山の地に暮らしながらも、わがルーツはあそこにはっきりとあるといった、大いなるもの、故郷に抱かれているとでもいったような安心感覚が、老いゆく我が身に突然起こったのである。

次回帰省したらあの小さな谷あいの集落や、その周辺を散策・思索するのが楽しみである。父の死後毎年のようにお墓参りをしてきて19年目、娘たちが巣立ち、初孫に恵まれ、人生の奥の細道に分け入りたくなっている。

2019-02-13

67歳生誕日の朝に、ささやかに想う。

もうこの年齢になると、生誕日に関しては特別の感情は湧かないが、また一つ歳を重ねることができた感謝の念は深まる。

今夜は遊声塾のレッスンなので、昨夜ささやかに妻が祝ってくれた。まあ、なにはともあれ、今現在健康に動けてやりたいことができていることに関して、感謝のほかはない。

67歳といえば古希まであと3年、もし天変地異や大病などの大煩いがなければ、そのようなことになる。今は昔、超高齢化社会といわれているが、どこかぴんと来ない。

昨日、五十鈴川の上流のわがご先祖で出会った。同姓のあまりに素敵なたたずまいの老夫婦に出遭えたうれしさを、長めの五十鈴川だよりに書いた。その余韻がいまだ残っている。もし、無事に古希を迎えたならば、あのご夫婦ように老いてゆきたいとの念を強く持った。

そういう意味で、私にとって今回の帰省旅は、最高のお誕生日 プレゼントになった。

昨年は望晃くんの生誕の年であったが、来月には望晃くんが1歳になる。瞬く間に月日は流れ、望晃くんは歩き始める。

さて、今年はどのような年になってゆくのであろうか。旧正月も過ぎいよいよもって万物が春を感じ私自身も、いよいよもってこれからの人生時間を、業のようなものなのかもしれないが、できることなら、日々動ける身体に感謝しながら、有意義に過ごしたいと思うばかりである。

それと、これは老いた証拠だと思うが、一日一日の妻との時間を大切にしたいと思うのである。いつもそばに暮らしていると、どこか空気のような存在になりがちであるが、そうはなりたくない。(おのろけではない)

身近に、生誕を祝ってくれる存在があるということの何たる有難さ、をようやくにして沁みるように感じている。
甲斐寿氏がお書きになった故郷へのおもいあふるる御本

老いながらも、老いるからこそ、若いころには感じなかったことを感じ取れる、老いの感受性ををこそ養いたい、そのためにはどのように生きてゆけばいいのか。生活力なるものを、私なりに求めたいと念うのである。

うまく言えないが、声が出せなくなっても、弓が引けなくなっても、その先の行く末時間を見据えて、妻との時間をベースに大切に過ごしたいものである。

それにしても、今回のご先祖が暮らした土地への旅は、今後の私の行く末を照らしてくれるような気がしてならない。

今回出遭えた日高ご夫妻に感謝し、これからは 帰省の度に細宇納間の地を踏みしめ散策しながら、古希を目指したいと思う私である。

2019-02-12

私にとっては大きな出来事となった今回の帰省旅。

ちょっとだが後ろ髪をひかれながら、昨日の夕方岡山に帰ってきた。わずか正味二日半の滞在時間ではあったが、今回の帰省旅はあらゆる意味で実りの多い旅であった。

帰ったばかり、今日から再び私の日常現在時間を過ごさねばならず、落ち着いてじっくりと拙文を書けないのが、少し残念ではあるとは思いながらも、いつもよりちょっと早起きして、新鮮な出会いのあったこの帰省の、今の私にとっては オーバーではなく事件とも思える出来事についてわずかでも記さずにはいられない。

一昨日の日曜日、私は姉と義兄と3人で、義兄の車を私が運転して、五十鈴川の上流おおよそ35キロくらい、細宇納間というわがご先祖が昔住んでいた(現在も50以上の方々が棲む小集落)ところまでドライブし、その集落の御先祖の墓地を訪ねた。

もう5,6年前であろうか私はその小集落を訪ねたことがあり、日高(高ははしご高)という名前のお墓が多いことを知っていたが、私のルーツの日高とゆかりのある方が、どこかにいらっしゃるとは思うものの、自分一人の想像力の中で、無念無常の思いをどこかに感じながら終わっていた。

だが今回、67歳目前にして私の足は何かに導かれるかのように、再びかって私のご先祖が暮らしていた、細宇納間エリアとその墓地の在所へと向かった。


左から正俊氏、姉兄。姉が手にしているのはいただいた手作りの箒

そこで思わぬ出会いがあった、そのことをわずかではあれ、きちんと記しておきたい。久しぶりの再訪ではあったが墓地に着いた頃、たまたま一台の軽トラックが通りかかったので(広島さんという方)思いのたけを語ると、なんとその方はお墓守の方、日高のルーツついて詳しい方で、私のご先祖にゆかりのある二軒の家を自ら運転して案内してくださったのである。

一人で今も元気に暮らしておられるという、おばあさんの家を最初訪ねたのだが、宮崎の親戚に往っておられてお留守であったが、姉は生前父とその家を訪ねた記憶があることを思い出した、牛小屋があったという。

二件目に訪ねた日高正俊・悦子さん(ごめんなさい名前を書かせていただきます)宅。この素晴らしいご夫妻との出会いこそが、今回の帰省旅の白眉となった。
初めていただいた栗おはぎ、見事というほかはないおいしさだった

広島さんには名刺をいただき、再会を約束してそこでお別れしたが、訪ねた日高ご夫妻は遠路やってきた私と姉夫婦を、これ以上は望めないと思えるほどの歓待でもって迎えてくださったのである。そのことを、私は娘たちに、五十鈴川だよりできちんと記して伝えたいのである。

ご夫妻は細宇納間の歴史に関して近所の甲斐寿さんという方が書かれた(個人で2冊の集落の歴史をしたためた素晴らしい御本)本を初めて訪ねた私に、読むようにと 何とかしてくださったのである。

御主人は私より8歳年上、奥様もいずれにせよ年上であられた。何やらゆうに言われぬ思いが私の胸を去来した。あきらめないでよかった、訪ねること求めた私の中の 何かが導いてくれたことをご先祖にあらためて感謝した。
大根の天日干し

日高ご夫妻に出遭えたことで、同性で私の父のルーツに知り合いができたこと、また広島さんという方と出合えたことで、また一つ元気な間は会いにゆきたいと、オーバーに言えば故郷に会いにゆくように、老いを共に見つめてゆける素敵な人間に出遭えたこと、そのことの幸運を記さずにはいられないのである。

日高ご夫妻と語り合っているうちに、私のルーツ探しはどこかどうでもよくなり、ご夫妻との出会いで、細宇納間という私が過ごしたこともない土地が、私の中にくっきりと根を下ろしたのである。

それにしても、この先輩ご夫婦の暮らしぶりは、日本人がもうほとんど忘れてしまったと思えるほどに、つつましくたおやかで、見事なまでに、昔の細宇納間人が、かってもこのように暮らしていたであろうと思える暮らしを今現在もしておられたことである。


ほとんど自給自足の静かな暮らし
そのことが、私を感動させた。だから書かずにはいられないのである。やはりこの十数年両親のお墓参りに帰ってきてよかったと、報われたと私は思ったのである。

やはり父が、日高ご夫妻を私に巡り合わせてくれたのだと思う。それにしてもあの見事な老いの暮らしぶり、私が目指すのはあのような生活ではないか。

ともあれ、あのようなご夫妻がいまだ住む、わがルーツである細宇納間集落を訪ねた今回の旅は、私の中に老いゆく未来に一筋の光明を生じさせる旅となった。

この場を借りて、広島さんと、日高ご夫妻に深く感謝する。 (五十鈴川だよりを書き続けてきて本当に報われた)





2019-02-08

67歳目前の帰省旅の朝に想う。

今日から3泊4日の帰省旅の朝である。前回の五十鈴川だよりでも書いたが、いい歳ながらどこか浮き立つ気分が、故郷を目指す私にはまだどこかにある。

でも悲しいことだが、そのような気分もやがては老いて、なくなるのではないかという粛然たる気持ちになるのは、つまりはやはり私が、老いつつあるという厳粛な事実である。

このようなことを書くと、なにやら寂寥感が漂うが、これもまた致し方なしと受けとめるに、しくはなしという感情が湧いてくる。(でも私は絶対矛盾を抱えつつ初めて経験する老いの感覚に、今しばらくあらがいたいと強く思う自分もいる、つまりは揺れるのである)

ブログで拙速に綴ることは叶わぬが、老いるにしたがって、怒るという極めて人間的な感情が達観ではないのだが、あきらめるということの方に、シフトしがちになる自分が芽生えている。(でも内なる何かはあきらめきれないのである)

妻には穏やかになったといわれ、自分でも 静かになってきつつあるとは思うものの、それはただ単に老いて(外に感情を出さなくなってきただけである)老獪になってきただけではないかとの思いがぬぐえないからである。

もう間もなく生誕日、考えるまでもなくいい歳である。だからなのかもしれない、今回はどこかそこはかとなく、嬉しさの中に一抹の寂しさ、寂寥感のようなものが私の中に生じていることを、正直に書いておく。

私の姉は私より9歳上だから75 歳、義兄はもっと上だろう。幸いまだ元気に言葉を交わせる、そのことが私を故郷に向かわせる。私にとって大事な人たちに、会えるうちにたまさか会いたいのだ。

数年前、帰郷した私に、義兄が老いるということは、 年々楽しみが減ってくるということだと、語ったことがある。当時兄は軽い脳梗塞から立ち直ったばかりであった。

まだ元気に軽口がたたけるける私だが、義兄の心境はいかばかりか。そのようなことを私もようやくにして思い至れるようになってきたのである。

だから、いろんなことに思いを巡らせることができるように、ゆっくりと列車での旅を今回選んだ。たぶんこれからは、列車で帰省することが増えてゆく。

アップするのは2回目、少しづつ読み進んでいる。

だがこと個人的には、あらゆる煩悩をいまだ抱え、表にはあまり出さなくなってはきたものの、 昨今の出来事、不祥事、痛ましいニュース報道には暗澹とし、いまだ怒りと諦観に揺れる。

そのやり場のない、いわば情念のようなものが、またどこかでこの老いの我が身を活性化させているともいえなくもない。落ち着いて老いてなどいられないのだ。

あらゆるテクノロジーの急速極まる時代の変化に、我が身が置き去りにされてゆく不安感覚を、多くの私を含めた中高年(だけではない)が本能的に感じ取っているに違いない。(人類はどこに向かうのか)

私などその典型、頼るは我が身ひとつであるとの思いは、還暦を過ぎいちだんとましている。いまだ元気に動けるうちに、動きながら故郷を目指し、姉や兄たちと今現在を確認し、両親に手を合わせたい。(わたしのなかの昔の人の面影は潔かった、かくあやかるためにはと、どうすれば、と問う自分がいる)

2019-02-06

今週末からお墓参りがてら帰省することにしました、そして想う。

雨の日は午前中の仕事がないので、これはこれで私にとっては実にうれしい。仕事に出掛ける妻を見送り、あれやこれやの家事を片付けてのゆとり五十鈴川だより時間が、私には今やオーバーではなく大切ないっときである。

さて、父の命日が過ぎ、急だが連休を利用して、お墓参りに帰ることにした。あさって金曜日に発ち戻りは月曜日。3泊4日の帰省旅、今回はジパングクラブを利用して列車にした。

梅が咲くこの季節、きっと門川(五十鈴川)は満開かもしれない。昨年秋は帰れなかったので、どこかしら身体がほころんで久しぶりの帰郷に、いまだ浮き立つ初老の私である。

外見的には初老男なのに、内なる我が身はお恥ずかしいほどに、いまだ時折年齢を忘れ、初老男は帰郷を目指すのである。(原発事故などで故郷を離散された方々の心中は察するに余りある)

昨年も書いたことだが、わが姉兄弟も確実に毎年毎年歳を重ねている。だから毎回これが最後の帰省になるかもしれないからと伝えている。
昨年夏の山陽新聞の記事 

幸いみんな、健康に穏やかに暮らせているし、私の帰省を喜んでくれるので私は帰省できる。関係性がギクシャクしていては、とてもでは帰れるものではない。お互いが元気でいられる今をこそ、大事に関係性を深めておきたいのである。

いまだ私の記憶にある小学校5年生までの、今は亡き実家での家族全員で過ごした時間がわが姉兄弟を、かろうじて結び付けている。

みんな貧しく苦しかったあの同居生活を共通体験しているからこそ、晩年のいま何度も再会、同じ話を繰り返すのである。私にとっては幼き日への回帰旅でもある。

五十鈴川の流れも少し変わったが、ほとんど あのころと変わらない。わが故郷宮崎は清流の宝庫である。川の幸、海の幸、山の幸、に抱かれて私は遊びほうけて私は少年時代を送った。

今つくづく、あの幼少期、少年期が私の感性のすべてを創ったことが、この年齢になるとはっきりとわかる。かけがえのない海山川。かけがえのないわが姉兄弟。

タイにいる弟ともラインで最近連絡が容易に取れるようになった。元気なうちに全員で集まりたいと、私は思っている。





2019-02-05

亡き父の命日の朝に想う。

父の命日の朝である。還暦から半ばを過ぎ、微妙に体がある意味で衰えてくるにしたがって、心の中は、私の場合だが、何やら今のところいい感じで推移というか、落ち着いてきた感がある(ように思える)。

特に幼少期から小学生からにかけて、私は落ち着きのない子供であった。5人兄姉弟の中で、どちらかといえば多感な異端の子供であったと、今にして思う。

このような私の性癖を見ぬいた父は、親子鷹とまではいわないが、それはそれは子供心に怖い厳しい父親であった。

子供のころには、怖い父親という印象しかなかったのだが、いま振り返ると、時に優しい父親の思いでも蘇るのは、私が老いてすべてを、良き思い出として美化しているからかもしれない。

父親のことを思い出すと、朝のブログではとても書ききれないが、この年齢、父が亡くなった年齢に近づいてくるにしたがって、父親の抱えていた責任感の重さ(北朝鮮から母兄姉と命からがら引き上げ、裸一貫からの家族の長として)ようなことがわずかだが感じられ、もし生きていたら、晩年の父と語り合いたかったと、いまは思うのだが、かなわないのが、世の常である。(だが想像はできる)

話は変わるが、何が書きたいかというと、あの怖い父親なくして、現在の私はないということだけは 確かである。

戦後世代の父親とはまるで異なる、戦前の教育を受けた私の父親は、子供心にそれはそれは怖い父親であったが、今の時代そのような父親は嘘のようにいなくなった、(気がする)。闇の深さ、畏怖するほどに怖い存在感のようなものが失われた世界は、どこに向かうのであろうか。

父親が生きていたら、今の時代の空気感の中でどのように居場所を見つけて、生きるのであろうかと想像する。
椎名誠さんが私は大好きである

晩年は、ひたすら囲碁を打ち、旅をし、菜園づくりくらいの世界の中で、静かに暮らしていた父の面影が私の中で蘇る。

まるで出家でもしているかのような、静かなあまり他者と交わらない落ち着いたというしかない、暮らしぶりを全うした感がある。

さて、いよいよこれから、亡き父が過ごした時間を私も生きなければならないのだが、どのように生きていったらいいのか、と今は亡き父と想像の中での対話をするほかはない。



2019-02-03

のらりくらりと、独楽、独学時間を大切にしたい真冬の朝。

個人的な事だが遊声塾を始めてから、わずかな時間ではあるが、毎月一回父が使っていた硯で墨をすり、主にシェイクスピアの言葉を書いている。

墨をすって文字を書くなど、小学生の時以来だったのであるが、今も続けている。五木寛之氏もどこかに書いていたと記憶するが、九州人タイプというのがあるかどうかは知らないが、移り気的、または飽きっぽいということをお書きになっていた。

私などまったくそうであると、深く認識している、(がささやかに持続しているものもある)そのような自分ではあるにせよ、何とかこの年齢まで生き延びて、現在の暮らしができていることに関しては、言葉の持ち合わせがなく、深呼吸して何かに感謝するのみである。

話は変わる。自分でもどこか傲慢なところがあるといった自覚がある。少年期から思春期にかけてろくすっぽ学ぶということをせず、ひたすら遊び惚けて(映画だけはみた)世の中に出て、私は初めて井の中の蛙という言葉を、真の意味で体で知った。

以来、自分の感覚や直観に頼りながら右往左往、何とか独学志向(思考)で現在を生きている。演劇学校や、劇団他、時間的には短くても様々に体験した仕事や、あらゆる社会的生活の中でかろうじて身に着けた、あらゆる全生活体験が、今現在を支えている。(ように思える)
井上ひさしさんの御本も声に出したい

自己弁護するわけではないのだが、どこか傲慢でないと、いろんな意見や情報に振り回され この年齢まで生き延びることは叶わず、どこかで安易に妥協して(それはそれでいいと思うが)事なかれ主義的な散漫な人生を送ったのではないかと、想像する。

人は失敗し、間違う、摂理である。そこから何を学ぶか学べないのかが、その後の、またはこれからの人生を左右するといっても過言ではない。迷いながらも判断し決断するほかはない。思えば、人生は綱渡りである。いつ何時谷底に突き落とされるか、を人は予知しえない。

私などいまだに間違っているし、間違っているのではと問い続けている自分がかろうじている。初老の厳冬期は私に内省を迫る、独学ならぬ独楽時間を大事にしたい。





2019-02-02

無念の死者たちの声を音読したい思いが深まる朝。(私ごときがという絶対矛盾を抱えながら)。

まだ夜明け前だが、これから日が昇ってくる時間帯が、私は一番好きである。一晩寝たことで、午前中は特に体がどこか邪念がなく、意識がすっきりしている。

さて、数日前わずかな本しか読んでいないのだが、(教えられ目からうろこが落ちたことが多々ある)古典文学に造詣が深く、それをわかりやすく、現代の不特定の読者に小説や評論、現代語訳といった形で独自の世界を拓いておられた橋本治氏がお亡くなりになった。

享年70歳、もうすぐ67歳になる私とわずか 3歳違いである。わたくしごときだが、小さなころから死に対してどこかうすらぼんやりとであるが、人間界の、生きていることの不思議さ、可笑しさ、悲しさ、不条理、無残さ、阿修羅的なこの世に・・・。なぜ人は苦悩をかかえつつも生きてゆくのかという、解決不可能な命題に、思うにかすかに心が敏感な少年であったのだという、自覚が私にはある。
数年前、最初に読んだ本(ご冥福をお祈りします)

だからきっとこのような人生を歩み続けているのだとの思いと共に、背負うこともなしに非力さにいつもさいなまれながらも、往生際悪く、五十鈴川だよりを書いたり、シェイクスピアを音読したりしているのでは、という自覚がある。

ともあれ整理確認不可能な思いに至りながらも何やらつづれずにはいられない。病を抱えながら、死をどこかに内在しながら作品を書き続けられた氏の作品を、時間の許す限り手にしたいと思う。(私が尊敬するお仕事をしておられる方は、芸術家のみならず安きに流れず、どこか死を意識しながらも、作品を創り続けておられる、ユーモアを失わず)

私のようなぼんくらが書くのもなんだが、私にとって日本語によるシェイクスピアを音読するということは、限りなく生を実感する営為である。たぶん生を実感するにはある種のストレス 、負荷、ギリギリ感が必要なのだ。村上春樹氏が書いていた、走るのは悪魔祓いだと。

私自身歳を重ねながら、ますますこれからの人生時間を死者の声に耳を傾けながら、その声に耳を澄まし、オーバーではなく死者と共に日々を生きてゆくような感覚を深めてゆきたいと念うのである。

あと数日で父の命日、義父の命日、来月は母の命日と続く。愚息感いまだにぬぐえない私だが、身内の死者に対してのみではなく、あらゆる死者の霊に対しみさて、少しでも思い至れる人としての感覚を最低の感覚を持続したいと思う。

ミサイル防衛、迎撃システム、スターウォーズ計画、レーダーをかいくぐるミサイルとか、耳を閉ざしたいような国内外のニュースのオンパレード、あまたの無念を抱えつつこの世と別れを告げ、お亡くなりになった(ついこの間の大戦で)数百万人の死者の方々は、向こう側からどのようなおもいで、今の世界を眺めておられるであろうかと、私は想像する。(虚無感と無力感にさいなまれる)

死者たちの無念に、耳を傾ける体力をつけ、シェイクスピアの音読で鍛え、死者の側の作品を一滴的に音読したいという思いが湧いてきた、五十鈴川である。