ありがたいというほかないが、幸いやりたいことやらねばならぬことが次々と体に浮かぶのは、まさに身体が健康に動いてくれるからである。
名前は失念したがダンスの先生がおっしゃっていたが、生きることは動く、動けることであると。もうこの歳になると反射神経ほか、あちらこちらの体の機能低下は否めない、とはいうものの、未だ動ける身体と上手に付き合いながら、一日一日をあえて愉しくやり過ごすにしくはなしである。
話を変える。昨年のリア王から始めたことなのだが、気に入ったシェイクスピアの言を、ぶつぶつ言いながらボールペンで書き写すということをこのところ折を見て続けている。
今はロミオとジュリエットの登場人物の長いセリフや気に入ったセリフを、ポケットに入るサイズの小さなノートに書いている。
一月の半ばころから初めて、今日で2月も終わり、すでに40ページ書き写している。アナクロも甚だしいとは、本人はちっとも思っていない。
書き写しながら作品を読んでいると、不思議と作品が深く読み込めるような気がしてくるのである。だから気の向くままこれからも、老いの時間の過ごし方の一つの 楽しみとして、筆写は続けたく思っている。
再び話は変わる。冬、今働かせていただいている職場での肉体労働は表立っての火急の仕事が少ないなか、私は芝に生えたクローバーの根を採ることに、試行錯誤しながら挑戦している。
考えてみると、中世夢が原でもいろんな雑草の根と格闘したが、クローバーの根は初めて。正直一瞬たじろいだが、発想を変えゲーム感覚で楽しむことにした。画面に向かうのではなく、ひたすら地面の中の根とたたかい、向かい合うのである。
すると富良野での2年半に及ぶ、大地に 這いつくばってのあれやこれやの出来事が、いやがうえにもよみがえってきたのである。(久しく思い出すこともなかったあの青春の終わりの日々が)
片道400メートル、よく我ながら続いた。私は生まれて初めて一番低いところから眺めた世界というものを体験した。これでたぶん私の世界観は根底から覆させられたのである、と今にして思う。オーバーではなく世界が違って見えた。私はこちら側で生きることにしたのである。
富良野体験がなかったら、一番低い目線で世界を眺め、物事を考えるということは、おそらくなかっただろう。それと限界近くまで自分の体と 向き合うということもなかったかもしれない。