書く、つづることでどこか精神が、安寧を得るようなところがあるのかもしれない、この歳になってもますます、穏やかならざるをえないような心持になるような心境に、いまだ時折なる私だが、いまは何とか制御できる、自分がいるので有難い。
日が徐々に長くなってきているので、夕方大好きな相撲を見届けると、それから正一時間運動公園夕方の部に出掛けるようになってきた。
それでも、6時半も過ぎると暗くなるが、街灯がともり7時近くまで、歩いて声を出したり鉄棒にぶら下がったりしながら、朝早くからの今日一日の終わりをいとおしみながら、ほとんど人気のなくなった運動公園のベンチで、裸足の足をタオルで拭いていると、なんとも心が浄化されるのが自分でわかる。
日が昇り、日が暮れる。その何の変哲のないきわめて当たり前の日常の何という非凡さ、今日は曇っていたので日没は拝めなかったけれども、このところの日の出と日没の美しさといったらない。
それを毎日のように、全身で体感するために早起きしているともいえるし、夕方出かける自分がいるのだ、という気がする。人間はつくづく謙虚であらねばならない。
今日は午前中竹韻庵でも、春の日差しの中雑草取りにいそしんだし、とにかく私は典型的なアウトドア思考派である。
声に出してシェイクスピア作品を読んで脳トレしたい |
地球の自転、宇宙律動的な波動の中に身を置いていないと、どこか体の調子がおかしくなってくるのである。
前頭葉があまりにも肥大し、人間的な情操に潤いがあまりになくなってきつつある、精神が砂漠化してきている都市型文明生活には、意識的に距離を持ちたいと思う。
愚者、大いに結構、とにかくわが体が、ひたすら喜ぶようなシンプルライフを 持続したいのだ。
ところでいきなり話はいつものように変わるが、長いセリフを記憶するためには反復繰り返しをするほかには方法がないが、歳と共に記憶する能力が低下するのは、致し方がないにもせよ。
シェイクスピア遊声塾を始めたことで、いやでも応でも繰り返し文体を声に出すことで、この年でもいまだ、ずいぶん長いセリフを記憶できる自分の体を、自覚することができている。
今や、脳トレという言葉を頻繁に目にするが、体を動かし繰り返し腹から意識的に集中して声を出すということは、限りなく脳トレにとてもいいということが、61歳から再び声をだし早4年、自分の体を通して体感しているのだ。本当にこれは体には最高の脳トレであると、自覚が深まっている。
そのようなわけで、教室が確保できれば4月から月に2回程度、土曜日か日曜日の午前中、天神山文化プラザで、フリーの参加自由の、シェイクスピア作品の輪読ワークショップを始めることにした。
参加はその都度の自由。毎回参加費として1000円徴収する、気楽にシェイクスピア作品を声に出す場を設けたいと、思いついたのだ。塾生のYさんに話したらそれはいいということになったので決めた。
一人でも多くの方にシェイクスピア作品を声に出して読んでもらい、その魅力を共有できる仲間を一人でも、増やしたいのである。 限りある私の人生時間を意識的に過ごしたいのである。
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