新聞を読むと、いまだ怒りがこみ上げてきてなんともやりきれなく身体に悪いので、努めて身体によさそうな記事を探すだが、なかなかそうはうまくいかない。
人間いくつになっても、理不尽な事柄にはきちんと発言する くらいのこころもちは、失いたくはないものだ。まだまだ長いものにまかれるのには若すぎる。
お国のためにかけがえのない命を棒に振るような、教育勅語を幼いうちに刷り込むような学校教育を掲げるような学校法人がやすやすと認可されるような時代がそこまできているのだ。危ない。
美しい言葉や 表面的な為政者の言葉に、私などは簡単に騙されそうな単細胞人間である。オレオレ詐欺を始め、人間の弱みに付け込む犯罪がモグラたたきのようにやまない時代である。しっかりしないと。
さてどうすればいいのか、と小さな頭で考える。あくまでも私の場合である。世の中に出てからお金にだけは人並みの苦労をしてきたので、猜疑心が強い。 お金という亡霊のような恐ろしきものには、ほどほどの距離感をもってお付き合いするようにしている。甘い言葉には決して近づかない、ただほど高いものはない。
お金なんてものは、使うものであって使われるものではないと、どこかで 醒めた感じでお金を眺めるような感覚を、どこかでキープしている。お金は必要な時に使うものだ。食べ物と水があれば、考えるのだ。考えるのにお金は不要だ。足が動けば、歩きながら春を感じ、図書館で思わぬ本に出合える、事だってあるのだ。
東京に住んでいたころはこうはいかなかった。一歩家を出たら、電車賃がなかったらアウトである。岡山に移住し、中世夢が原で働き始めてから、一日お小遣いを使わず過ごせるような日々がかなり増え、思考が鍛えられた。
私が40歳から今に至るも何かと困らずに生きていられるのは、きっと中世人のように暮らすヒントを、22年間働く中で、限りなく中世夢が原で、学んだおかげなのだと、はっきり言える。
都会はお金中心でないと生きられない社会。ざっくり言って田舎は、お金にあえてさほど頼らなくても知恵と工夫しだいでは、人間の関係性を育もながら、限りなく豊かに生きられる可能性に満ちていると私は思う。とくに一仕事終えた世代は。
フキノトウのたくさん入った昼食、残り物や工夫次第でいくらでもうまいものが創れる。 |
要は、どのように生きてゆきたいのかという考えを、日々の暮らしの中で、50歳も過ぎたら考え詰めてゆく心がけが私の場合には必要であった。
そのような心かけを続けていると 、なにかといろんなことに気づくようになってくるから不思議なものである。膨大な自分の脳の中の無意識領域が、老いたらお天道様の下で、大地の側に身を置きなさいと、囁くのである。
なんだか今日も脈絡のない五十鈴川だよりだが、今日などは書いているうちに同世代にささやきかけたくなってくるのだ。
頭の話に戻ると、私個人は日本という国が大好きである。そういう意味では、限りなき愛国者ではある。がしかしそういう感覚は、きれいな山河や海、先人たちが伝えてきてくださった苦楽の歴史の伝統世界の上にかろうじて培われたものである。
他者を大切にしない、国益だけの為政者が跋扈する歴史に逆行するかのような時代の流れの中に何か嫌な感じが、私はする。
私がもっとも苦手なタイプは、自分では考えないで、なんとなく流されてしまうい尻馬に乗る無責任なポピュリズム責任世代である。
ごまめの歯ぎしりであれ、行動実践しながら、弱者の側に身を置きながら、強者の論理には注意深く在りたい、言うは易くだが。今日の五十鈴川だよりはこれにてお開き。
0 件のコメント:
コメントを投稿