昨日もちょっと出かけたら、わずか2株しか植えていなかったカリフラワーが見事な大きさに成長していたので抜いて持ち帰った。
生育してゆくのを楽しみに見守り、植えただけで何もしていないのに見事に育った、うれしい。
うっかり家に持ち帰ったが、なにせ初物、一株は竹韻庵のオーナーであるS氏に差し上げようと思っている。
竹韻庵で初めて育てたカリフラワー |
ところで、倦まずたゆまず竹韻庵では、笹野根や、孟宗の根を採ったり、最近は辛抱強く、雑草の根にしつこくしがみついている土を振るい落とし、歩く道が雑草まみれにならないように抜いているのだ。
竹韻庵のことはあまり書いていないが、今や竹韻庵で過ごす時間は、日々の暮らしの中での大切なな山里時間として、自分の生活の中にすっかり定着してきた。
今年の夏が来れば、通い始めておおよそ2年、竹韻庵もなかなかにいい感じになりつつあるが、ちょっと油断するとすぐ雑草や笹野根がはびこってくるので、取り立てて大したことはしなくても、管理を任されている以上は、通いながら現場を感じつつ、あれやこれやと体を動かし続けたいのである。
一瞬たりとも自然は休まない。落ち葉を落とした後も、春の新芽を出すために長い冬を力を蓄え生きている。そのような竹韻庵周辺の山里の雑木林の生命力のなかで体を動かすのは、トレーニングジムで体を動かすのとは、私にとっては全く異なる行為である。
竹韻庵にいると鳥の声にも体が反応する。大地、土の上に自分の足が乗っかっていると、田舎育ちの私は理屈抜きで安心感につつまれるが、都会うまれのアスファルト舗装人たちは、私とはまったく違った感性で育っているのだろう。
そういう私も、すっかり都会暮らしの快適さの中に埋没しかかっているのだが、これはまあ絶対矛盾として致し方なく受け止めている。
とはいうものの、途方もなく奇跡的生命体である惑星の中に生を受けた、私自身が自然の一部なのであるから、何事もほどほどに(驚異的なプラネットアースとの)よきバランスをと願うしかない。
初めてこの作家の存在を知りました、世界の痛みを伝えてくれる。 |
広告がないと成り立たないメディア新聞のなかから、今を生きている良心的(何が良心的なのか皆目見当もつかないような魑魅魍魎が暗躍しているかのような気配を感じながらも)な作家の存在を。しった。
鶴谷真という記者が書かれているのだが、この方も含め、書かれている記者の著名で、私はM新聞を読むようになってきている。何か伝えようという熱のようなものを、文章に感じるのである。
わけのわからない大きな世界の潮流の中で、憲法の拡大解釈、大義なき言葉の示威的歪曲に乗せられて、命が軽んぜられるような(少々の犠牲は仕方がないといったかのような、自分のこととして感じられない無責任性)方向にゆきかねない、時代の危うさをこのような形で文学で表現してくれる作家の存在は大切だ。
一庶民の一人として、竹韻庵で命と向かい合いながら、為政者の言葉に騙られない力をつけないと、危ない時代がひたひたと押し寄せてきつつある気がしてならない。五十鈴川だよりにきちんと書いておく。
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