遊声塾を立ち上げた時に、4回目の発表会ができるなんて思いもしなかった。いま私にはカルチャーも含め7人の生徒さんがいてくださる。
還暦過ぎて、自分が人様に何か指導したりするなんて時間が、よもやまさか訪れるなんてことは思いもしなかった。
土に親しむようになってきて寝る前に読む本が変わってきた |
生まれて初めて、人に何かを教えたり、指導をするようになってつくづく思うことだが、それは教えるということは学ぶということである。
学ぶということは、苦楽の中の発見である。
この4年間は瞬く間に、しかもこんなに充実した予期せぬ時間が過ごせるなんてことは、繰り返すが思いもしなかった。
とくに私より年上で、遊声塾1期生で、今に至るも続けて おられるY氏の存在は大きい。ややもすると気弱になる私を、きっとそのうち塾生が増えますよと、励まし続けてくださった。
わずかだが竹韻庵に植えているブロッコリー |
岡山で、シェイクスピアを声に出して、月謝をはらってまで参加するような塾生に巡り合えるなどとは、私自身正直そうは期待していなかった。
これまでの人生、私はヒトに期待するよりも、まずはとにかく、自分に期待しようとでもいうしかないような選択をたたしてきた。(いまも本質的にそうである)
だが最近微妙に意識の変化が訪れている。それはきっと4年間の間に、私の個人的なレッスンに参加してくれている素敵な塾生のおかげなのである。老いゆく中にじわっと光が差すのである。
時間がないので詳しくはつづれないのだが、一度はシェイクスピア的な世界から身を引いた私だが、再びこの4年間、声を出し続ける中で、この年でも 老いゆく中に、新たな声が出せるという自信のようなものが、若い時とはまた違った感覚で深まってきている。
声とは不思議だ。歩んできた人生が出てくるのだ。怖い。そういう意味では声は個人史を映し出す鏡のような気さえしてしまうのだ。
先のことは考えず、今日出せる声を、塾生と共に今夜も精いっぱい出そうと思う、朝ではなく夕方である。
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