今の時代の趨勢や、流れに、我がどこか田舎者的、どんくささを自認する私としては、ずるいのかもしれないが、醒めた感覚で、どこにも属せずただ眺めている感覚を持続している。
可能な範囲で文明の利器的恩恵にあずかりながらも、どこかでその文明的な利器に頼りたくはないというか、わがまま的な絶対矛盾を生きている。
だから、午後九時以降はなるべくテレビなども視ず、お天道様と共に動き、早寝早起きできるだけ、自分の体と対話をするかのように、還れないものの、可能な範囲で、映像などなかったころの、昔人的な暮らしを、いよいよもって心かけたいと思っているこの頃なのである。
昨夜もその予定であったのだが 、シリアのアレッポのいわば最後の砦の市民の聖なる病院の、断末魔の様子を伝えるNHKスペシャルを、妻と二人で見入った。
少しずつ時間を見つけて読み続けている。黒川創氏の本を読むのは初めてである |
この100年は、戦争の世紀、映像の世紀といわれる。映像がなかったはるか昔から、殺りくは続き、今もやむことはない。昨夜のあまりにも惨たらしい現場の音、映像に、平和ボケの私も、身体の奥深くがざわついた。
戦争と平和、勝者と敗者、白黒、善悪、強者と弱者、絶対矛盾を生きながら、ささやかに個人レベルで、五十鈴川だよりを書きつつ考えたい。
もうすでに、第3次世界大戦が始まっていると伝える識者もいる。海の向こうの戦争に日本も巻き込まれる時代が、ひたひたとそこまでやってきていると、認識せざるを得ないような不気味な時代の足音を、私も感じてしまう。
昨夜のNHKスペシャルは、巨悪の政治的駆け引き、愚かしさの中に、命を懸けて次々に運び込まれる負傷者の手当に自らをささげる人間の、(医師やスタッフの)崇高さを伝えていた。その方々たちの顔つきの素晴らしさに打たれた。かたや、シリアの首相がゾンビ、悪魔の顔に見えた。
見て見ぬふり、無関心はいかんが、父の教え。何かこころが動かされたなら、何かを五十鈴川だよりで個人的に書き綴りたい。破壊された4000年の古都、アレッポの惨状と、子供たちの姿には言葉がなかった。国際社会は動いてくれなかった訴えられると、私の65歳の小さな胸は、きりりとかすかに傷んだ。
くどくどと書くことは控えるが、自国の平和さの中で、遠い他国の過酷な状況に関心を寄せる、せめてものアンテナだけは、今しばらく錆びさせたくはない。なにかに申し訳がないのである。
他者の痛みに鈍感であると、それはやがて我が身にやってくるとは、詩人の言葉である。
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