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2017-03-16

恋の骨折り損の発表会のチラシを塾生が創ってくれました、そして思う。

恋の骨折り損の発表会のチラシを、塾生のM君とIさんがあっという間に作ってくださったので、そのチラシをアップします。
後年大切な記録になるはずです、IさんMくんありがとう。

昨夜も熱き稽古が天神山の一室で行われた。みんなそれぞれに仕事を抱えながら、懸命に長い長い突拍子のない、シェイクスピアにしか思いつかない恋の骨折り損の言葉と格闘している。

あらためて無謀なる塾をやっているなあと、時折痛感するのだが、もし今現在の私にとってシェイクスピアを声に出して読むという時間がなかったら、私は干からびてしまうのではないかとさえ最近思える。

ちっとやそっとでは、シェイクスピアの言葉は、腑に落ちない。

だから無謀を承知で、あえて奇特な塾生と共に、胎から声をだす稽古時間はかけがえのない人生の今の時間だ。恋の骨折り損の登場人物は、奇想天外、あまりに風変り(型にはまった現代人から見ると)なキャラクターが多いので、その人物たちを声に出して読むのには、ものすごいエネルギーを必要とするのだ。

貧血気味の、私を含めた現代人がその洪水のような言葉を発すると、その韻を踏んだ朗々たる言葉に、肉体がついてゆけず、跳ね返されてしまうのだ。意識朦朧頭が酸欠になるのだ。

だからこそ私はあえてその言葉と、恰好をつければ 格闘して、老いてゆく自分に言葉の滋養を浴びせて、ほんのわずかでも、潤いを取り戻取り戻すべく、ドン・キホーテをいわば夢見ている次第なのである。

(だってやがて声は出なくなるのだ、死者たちが私の耳元で囁く、今声を出しなさいと)

塾生たち、プロではない素人が、それでも果敢に、精いっぱいその絢爛豪華な言葉に挑んでいる。もちろん私もだ。

自分がこれまでの人生では発したことがないような、こっぱずかしい愛の言葉の数々が、ふんだんに出てくる。体が受け付けなくギクシャクする。自分との葛藤、嫌になるくらい鍛えられる。

板についていない言葉を板に根付かせるのは容易なことではない。要するに浮いたような言葉になってしまって、日本人にとっては遠い表現が、より遠く感じられてしまうのだ。

 そこをどうしたら、普遍的な人間なら 納得できる日本語の言葉として、聴かせられるのにはどうしたらいいのかというのが、目下の私の悩みである。

その悩みを解決するためにはどうすれば?目下の私の答えは、その答えに近づくためには、息を深く吸い胎から言葉を発しながら、ひたすら集中力を持続し口を動かすしかない。そして自分を信じて声を出すしかないのである。自分の体は自分でしか感じようがないのだ

シェイクスピア戯曲という、人間存在の深淵に迫る巨大な言葉の宝の山は、そこにそびえて在るので、生きているうちにほんの少しでも、塾生とともに声を出しよじ登りたいという思いだ。


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