でも今しばらくは、余裕をもってあくせくし、ゆっくりと歩きながら、時折立ち止まり、周囲を見回し、ブログを書きながら、一日一日との思いである。
弓の稽古は毎週一回、土曜日夜に行われる。昨夜で4回目の稽古を終えた。初日の稽古の後、どうなることかと思った、背中足腰これまでの人生で使ったことがあまりないところの筋肉が痛い。つらいのだが終えた後の爽快感はたまらない。
午後8時半、2時間の稽古を終えて外に出ると美しい三日月が目に入った。あたふたと無様な姿をさらしながら、私なりに真摯に取り組んでいる。
雰囲気のいい、私より ずっと若い方たちに囲まれての、若い息子くらいの年齢の方たちが先生である稽古は、私がまったく経験したことがないものである。
主婦の方も、ドイツ人の女性もいるし、下の娘と同じ年で私より一周遅れで入門してきた若者もいる。実に新鮮なのである。65歳にして何やら新しき世界の入口に立てる経験なんて、何かのお導きというほかはない。
いずれにせよ、口幅ったいことを書くことは控えるが、何かいろんなことが 吹っ切れて、年を重ねないと訪れてこない、今年齢感覚としか言いようがないものに、最近穏やかに私はつつまれている。
1932年生まれの五木寛之氏の思考能力の柔らかさに驚嘆する |
還暦から5年、瞬く間に過ぎたが、私個人は極めて充実した5年間を過ごせたように思える。(世界の大変さを、おいといて)、これから先のことはあまり考えない。生きて5年後があれば私は古希を迎える。
還暦を 遠野で迎えた日のことは鮮やかに覚えている。まだ夢が原で働いていた。あのとき5年後の自分は全く想像できなかった。
これから5年後のことも全く想像できないが、あの時も考えたように、わが無意識の発露のおもむくままに、老いてゆく中でのかすかな冒険心のようなものを、ちっとやそっとでは手放したくない、あるががままな私を生きてゆきたい私である。
話は変わる、最近私は俳句にも関心を持っている。もうこの年齢だから勝手気ままな我流俳句なのだが、可能なら独学しながら学びたい。私にとって生きる醍醐味は、ささやかに何かを見つけることだ。
春、森羅万象がざわめきつつ動き出す。何やら私もいまだ静かに動き出す、可能な限り竹韻庵で土と戯れ、命のざわめきに触れ、夜は週に3か声出しと弓道に出かけるという日常が続いてゆく。
日々やりたいことに恵まれて、出遭えた素敵な仲間と共に生きていられることに対する感謝の念は 老いと共に深まる。
昨日創った俳句【定点を・耕しそこが・おらの春】で今朝はお開き。
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