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2017-03-10

母の命日、ただただ手を合わせる。

3月10日はおそらく毎回同じようなことを書いているのかもしれない。今日は実母の命日である。昨夜寝たのが遅かったのだが、ほぼいつも通りに目が覚め、朝一番手を合わせた。

後年、1日で10万人が亡くなったという東京大空襲と同じ日だということを知った。そして明日は、東北津波原子力事故災害から、6年である。

今日明日は、否応なく私が生きて元気に五十鈴川だよりをかける間は、とにかく思い出し忘れないことを刻み付けるためにも、繰り返し同じようなことを、年齢を深めながら書き続けたく思う。

生者と死者は、何やら徐々に私の中では区別がなくなりつつある。現世に母の姿、父の姿は見えぬものの、私の脳裡にはいよいよ鮮やかに存在感を増して、ずっと存在しているからである。

特に私の中での母は、私が小学生のころの記憶がいまだに昭和の家と共に鮮明である。小さい頃は鬼と思えた父と慈母のような母のもとに生を受けたことを、私が親になり、いわゆる人並みの生活者として生き始めたころから感謝するようになった。

母が亡くなって来年で20年を迎える。母のお葬式の時の父が書いた一文が残っている。この歳で読むと、胸に響いて泣けてくる。

戦前の写真見合いで結ばれし両親、父親は結婚式のために帰国して初めて出会い。そのまま北朝鮮に二人でトンボ帰りし、青春時代の若き二人は平壌の近くの新義州の昌城小学校で先生をしていた。

姉と兄は北朝鮮でうまれた。兄も姉も記憶にないという、姉は3歳、兄は生後半年。親子4人よく無事に帰国できたものである。その後限られた収入で家を建て、両親を見とり5人の子供を育てた。

ところで難民という言葉を 新聞で目にしない日はないような時代が再び世界を覆っている。生きのびるために、あらゆる手段を講じて平和な国を目指して移動する。われわれもいつ何時難民化するやもしれぬ危うい時代の状況を生きているのである。

きっと人類は、あらゆる事情から、新天地を求めていきのびてきたのだろう。話を戻すが、父や母の命日は、今の私には感謝の念をただただ手向ける日である。

親は選べないが、あの両親のもとに生まれたことを感謝する日なのだ。庭の沈丁花がいい香りで春を告げている。

春の訪れは、どんな困難な状況を今現在いきているすべての人々の上にもやってくる、お日様の御来光は、万民に平等である。

いつ何が起こっても不思議ではない、せわしない 先が読めない世相であるが、母の命日くらい、ゆっくりと故人(無数のおびただしい死者に)に想いを寄せる気持ちのゆとりをなくしたくはないものだ。

ところで今日は先週に続いて義理の母の2回目の白内障手術があるのでその送迎をするのだが、実の母とはこのような晩年時間を共有することが叶わなかったので、素直にうれしい。

実母は、父と違い私が演劇などという不安的極まる世界に歩みだそうとする際も、陰ながら常に応援してくれていたし、高校時代ビートルズに入れ込んでいる私に、ビートルズには美しい曲があるねえ、と話しかけてくる良き耳を持っていた。

いまだ、私がシェイクスピアの 塾などやって遊んでいられる感性は母からのものである。



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