25日は発表会、翌26日はㇽネスホールで行われた、イタリア歌曲の歌の数かずを長時間聞くという、めったにはない経験をした。一部二部の構成、午後3時半に始まり、終えたのが8時を回るという長丁場。
こういう経験ができたのは、山陽カルチャーで、私と共にシェイクスピアを読んでくださっている、数少ない貴重な生徒さんであるMさんが 、私たち夫婦をご招待くださったからである。
日本の昔のことや、日本文化、日本語に興味をもって、この数十年を生きている私にとって、岡山でなくとも、オペラの名曲も含めたイタリアの歌曲を一度にこんなに聞いたのは、初めてのことでいろいろと考えさせられることも多く、出かけて本当に良かった。
発表会の翌日でもあったし、正直気分転換にはちょうどいいくらいの軽いノリで出かけたのだが、歌を聴いているうちに、疲労が心地よく癒されてゆくのがよくわかった。
妻も急きょ誘ったKさんもとても楽しんでいた。キャリアのある方から、おそらくは歌い始めて月日の浅い方までが総出演。長時間にもかかわらず、イタリア歌曲に魅せられた方々の個性が鮮やかで、私には歌っておられる方々のあれやこれやが、想像力を痛く刺激し楽しめた。
まったく、イタリア人は歌を歌う民族なのであることがよく腑に落ちた。愛すること、歌を歌うことと、台詞を語ることは異なるが、共通することはかなりあるなあ、と改めて認識した。
堅い話を綴るのはよすが、声を出す器としての肉体を、極限まで鍛えて発声するイタリア歌曲は、好みの問題があるなしを超えて、楽器としての肉声を極端なまでにコントロールする歌わずにはいられない芸術として、見事なまでに完成されている。
もし、Mさんがご招待くださらなかったら、と考えると、これもまたなにかの非日常的お導きと、私は能天気に考える。
ややもすると、われわれの暮らしは紋切型にからめとられがちであるが、地に足をつけた暮らしの中で、時折ジャンプするくらいの余裕は、限りなくなくしたくはないものであると自戒した。
イタリア歌曲の夕べは、苦悩を生きざるを得ない人間存在に対して、神が与えた人間賛歌、歌うことで苦しみが喜びに、(愛に)昇華されることを伝えていた。
ささやかな塾を主催する私には、何が人を動かし 感動させるのかの、上手下手を超えた何かを示唆してくれた、イタリア歌曲の夕べとなった。
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