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2013-11-28

平凡な生活の中に、非凡なひととき、無心で声を出し続ける雨の夜

遊声塾のY氏・良き人にであった、声が変わってきた

毎週水曜日の夜は、シェイクスピア遊声塾の日である。農業の仕事を始めてから水曜日は極めてハードな一日の日となっている。それがほぼふた月続いている。

 

今朝も4時半には起きているから、昨日は塾が終わって家に帰ったのが9時近かったから、毎週水曜日は長い、がしかし充実した日を過ごしている。

 

昼は農の仕事で身体を動かし、週に2度山陽カルチャープラザと遊声塾で、シェイクスピアの台詞を声に出す、全く対極的な時間を過ごすことで、私の精神と体は不思議と安定し整う。

 

何かと暗い出来事やニュースが、日々の暮らしを覆う中、なんとか自分で工夫し、自分で自分と遊ぶ時間をつくることは、私には必須である。一人でも私は声を出して遊ぶことが可能だが、何人かの仲間がいればシェイクスピアはより輝きを増すので楽しい。

 

人間はほとんどお金がなくても、元来楽しめる体を神が授けて下さっているのだということが、声を出していると実に腑に落ちるのである。ことほど左様になにも声だけに限らず、何でもいいのだが、限りなくお金はなくとも、健康体であればあらゆる創意工夫で、
いくらでも楽しめる、そのようなことを私は演劇を学ぶことで感知(しる)ことができた。

 

要は、人生いかに自分自身と対話し、遊べるかに尽きるというのが、61歳にして現時点で私が学んだことだ。情報汚染、金銭汚染に、なんと現代人は蝕まれていることか、お金がないと生きられない(確かに一面的にはそうだが、)という強迫観念にがんじがらめになっているというのが、わたしの偽らざる認識だ。

 

お金で世界は買えないのだ、そもそも世界は誰のものなのか。世界はセンス・オブ・ワンダーに満ちている、それを見つけることができれば、と思う。おのおのささやかに咲く勇気が必要な時代を3・11以後、私は感じ続けている。

 

もし私が、ギリスにも留学せず、富良野塾にも参加せず、眼先の安易な道を選択していたら、今頃おそらくこのような心境をつづる61歳にはけっしてなってはいなかったであろうことは断言出来る。

 

お金はとても大切なものである。お金は使い方次第である。お金は使うもので、使われるものではけっしてない、というのが私の認識だ。

 

ということで、昨夜は昨夜は塾生のYさんと二人で、みっちり1時間、二人で無心で声を出し続けた。身体はこのところのハードスケジュールで疲れていたが、心は晴れ晴れ終わるころには、なんとも言えぬ爽快感につつまれた。雨はあがっていた。

 

良く働き、良く声を出し、ぐっすりと眠る。日常はこれで充分な今の私の暮らしである。

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